監獄炉獣
炉壁が崩れ、怪物の肩まで現れた。
「負傷者を上り階段へ!」
ルカは足元の鉤縄を拾った。手袋から血が落ち、縄の白い繊維へ赤い点を作る。
「手を出して」
セラがルカの手首をつかんだ。
「今は――」
「十秒で巻く。そのままじゃ縄も持てない」
手袋を外し、開いた傷へ止血布を押し当てる。細い固定帯が手首を二周したところで、二本目の鉤爪が壁を貫いた。
作業廊の床が傾く。
「終わり。右手は握らない」
セラは帯を結び、負傷者へ戻った。
第一班の二人が搬送布を持ち上げる。カシアンは最後尾で杖を構え、ルカと並んだ。
「あれを知っているか」
「知らない」
怪物が頭を穴へ押し込む。左右の角が残った壁へ当たり、石を削った。首の拘束鎖が張り、床下の巻き上げ機を引き上げる。
鎖は切れなかった。
巻き上げ機の固定台が、床ごと抜けた。
「来るぞ!」
ダリオの声で全員が伏せる。鉄の固定台が頭上を通り、上り階段の入口へ落ちた。階段の下六段が砕け、石と金具で埋まる。
負傷者を運んでいた二人が立ち止まった。
「上へ行けない」
「青い扉!」
フィオナが左の奥を指した。壊れた作業廊の先、曲がった配管の後ろに青く塗られた鉄扉がある。扉の上には、煤で半分隠れた文字が残っていた。
バルグラン収容炉・緊急冷却路。
「バルグラン」
カシアンが怪物を見た。
「処分済みの収容個体だ。授業ではそう聞いた」
怪物の前脚が床へつく。露出した肩だけで人の三倍近い高さがある。頭部は低く横に広い。二本の角は外へ張り出し、先端だけが前を向いていた。首と肩には、黒い板状の外殻が幾重にも重なっている。炉壁に残った腹の外殻には丸い穴が開き、その奥で赤いものが回っていた。
「話は後。扉まで何歩?」
「五十。床の左端が沈んでる。右を走れ」
ダリオが先に出た。フィオナがその背後へ風を送り、煙を押し戻す。
「持ち上げる。三、二、一」
セラの合図で負傷者を上げる。第一班の二人が前後、セラが足側の固定を支えた。ルカが右につき、壁際の破片を足でどける。
「フィオナ、先へ。ダリオと扉を開けて」
「ルカは?」
「後ろを見る。カシアンもいる」
「傷を開いたら、あとで腕ごと縛るから」
フィオナは返事を待たず、ダリオを追った。
怪物が炉壁から胴を引き抜く。二本の後脚が床へ落ち、首から尾まで重なる黒い外殻が現れた。前脚の方が長く、四本の脚で立っても肩だけが高く突き出している。
外殻に食い込んでいた管が裂けた。赤い熱気が四方へ噴き、床の油へ火がつく。バルグランは炎を嫌がらなかった。頭を下げ、燃えた床へ口を近づける。
炎が細く伸び、口の中へ吸い込まれた。
腹の穴が一つ、赤く明るくなる。
「床の火を食った」
「見えた。炎は使わない」
カシアンが杖先を下げる。
二人は隊列の後ろを走った。左腿が痛み、ルカの足が一度遅れる。カシアンが肩を押した。
「前を見ろ。後ろは交代する」
「あいつの動きを見ないと――」
「右へ寄れ!」
バルグランの尾が振られた。
太い尾は壁を削り、作業廊を支える柱を折る。ルカとカシアンは右壁へ身体を寄せた。尾の先が背中をかすめ、ルカは前へ投げ出される。
床に手をついて起きる。傷口は胸へ寄せたまま動かさない。
負傷者の隊列が十歩先で詰まっていた。天井から落ちた管が斜めに通路を塞いでいる。下をくぐらせるには、搬送布を床近くまで下げなければならない。
「止まるな! 俺たちが上げる!」
ルカは鉤を管の継ぎ目へ掛けた。縄を肩と救助帯へ回し、後ろへ体重をかける。カシアンも縄を取った。
管が指二本分だけ持ち上がる。
「通せ!」
セラが負傷者の頭を守り、第一班の二人が搬送布を低くした。足首の固定が管へ当たらないよう、身体を少し斜めにして抜ける。
最後の一人が越えた直後、鉤が継ぎ目から滑った。
管が床へ落ちる。
バルグランが跳んだ。
さっきまで炉壁へ身体を挟まれていた獣とは思えない速さだった。前脚が一度床を蹴るだけで、十歩近く距離が縮まる。
狙いは隊列の最後尾だった。固定した左脚が揺れ、負傷者が声を上げる。
ルカは鉤縄を投げようとした。片手では投げた後の衝撃を支えられず、引き倒せる柱もない。
カシアンが一歩前へ出た。
「使うな!」
「爪が届く」
《炎槍》が杖先から飛んだ。腕ほどの長さに絞った炎で、バルグランの右目だけを狙っている。
炎は命中する寸前で曲がった。
怪物の口ではなく、胸の丸い穴へ吸い込まれる。火は外殻の内側を走り、腹の穴を三つ続けて赤くした。
バルグランの爪が床を裂く。
炎に顔を向けた分だけ狙いがずれ、負傷者には届かなかった。だが怪物は止まらない。前脚の亀裂が赤くなり、踏み込みがさらに速くなる。
カシアンの杖が、もう一度上がりかけた。杖先の向こうに、搬送布から揺れた固定脚が重なる。炎は出なかった。
「私の炎を取り込んだ」
カシアンの声が乱れた。
「一発で分かった。次は撃つな。走るぞ!」
ルカはカシアンの腕を引いた。
青い扉の前で、ダリオが手動輪へ短いレンチを噛ませている。フィオナは扉の隙間へ風を通し続けていた。
「右側だけ開ける! 左の冷却管に圧が残ってる!」
扉は左右二枚に分かれている。ルカは見学時に動かした順を思い出す。二枚を同時に開ければ、止まった冷却水が一度に流れ込む。片側は閉じたままにする。
右扉が人一人分開く。
「負傷者から!」
搬送布を縦にし、第一班の二人が前後から持つ。セラが左脚を浮かせたまま隙間へ通した。
続いてセラ、フィオナ、ダリオが入る。
ルカは扉の手前で振り返った。
バルグランが管を踏み砕きながら迫っている。火を取り込んだ胸は赤く、口から吐く息だけで床の煤が広がった。
「カシアン、先に入れ」
「撃ったのは私だ。後ろに残る」
「もう炎は使えない。扉を閉める方へ回れ」
カシアンは一瞬だけ動かなかった。背後でダリオが怒鳴る。
「そいつが正しい! 閉鎖輪は中だ!」
カシアンが扉をくぐり、内側の輪へ手を掛ける。
ルカは鉤縄をまとめた。怪物まで十二歩。扉まで三歩。
バルグランの右爪が上がる。
ルカは扉へ飛び込んだ。
カシアンとダリオが閉鎖輪を回す。青い扉が滑り、鉤爪が入る隙間を狭めていく。
爪の先がルカの救助帯をこすった。外側の金具が弾け、身体が半回転する。
フィオナの風が横からぶつかり、次の爪を数センチずらした。ルカは肩から扉の内側へ転がり込む。救助帯は腰に残ったが、革の表面が深く裂けていた。
「閉めろ!」
青い扉が閉じた。
直後に怪物が衝突し、全員の足元が揺れた。
緊急冷却路は、中央だけが平らな急坂だった。両端には冷却水の溝があり、今は底に薄い水が流れている。上の踊り場まで、およそ五十歩。
「上へ。ここで止まるな」
セラが負傷者の搬送を再開させる。
扉が二度へこんだ。
三度目は来なかった。
代わりに、坂の上で壁が割れた。
赤い光が細い亀裂から差し込む。バルグランは青い扉を破るのをやめ、隣の炉通路から上へ回っている。
「出口側を取られる」
フィオナが風を上へ送る。すぐに熱気が押し返した。
踊り場の先で石が崩れ、地上へ続く階段を塞いだ。怪物の角が壁から覗き、また引っ込む。
二班は坂の中央で止まった。
下には青い扉。上には崩れた出口とバルグラン。負傷者を置いて越えられる場所はない。
その時、左の冷却溝の奥から笛が鳴った。
短く三回。間を置いて、長く一回。
救助士と施設員が使う救難信号だった。
音は、坂の途中にある閉じた隔壁の向こうから繰り返された。




