消えた信号
右の通路は、負傷者を二人で並んで運べる幅がなかった。
ルカとカシアンは前後に分かれ、搬送布の端を持った。曲がり角ではいったん下ろし、足をぶつけない向きへ変える。そのたびにセラが左足首の固定を確かめた。
「次、床板が一枚抜けてる」
先行するダリオの声がする。
「左へ寄せられる?」
「壁から釘が出てる。真ん中を通せ」
フィオナが風で床の煤を払った。黒い鉄板の中央に、靴一足分の古い補強材が通っている。
ルカは負傷者の肩側を持ち直した。右掌へ力を入れると痛む。搬送布を救助帯の金具へ掛け、腕より腰で支えた。
「動かすぞ」
「ああ」
カシアンは足側を持ったまま、補強材の上へ靴をそろえる。第一班の二人が左右から壁の釘を押さえた。
八人が床の欠けた場所を越える。背後では、閉じた安全扉を叩く音も、蒸気の噴出音も遠くなっていた。
通路は下り坂へ変わり、やがて四角い点検室へ出た。正面の壁に固定式の通信器がある。銅線で地上の管理室とつながり、横の取っ手を回すと呼出音が鳴る仕組みだ。
カシアンが負傷者の足側を第一班の生徒へ預け、取っ手を回した。
「北保守路、第一班班長カシアン。第八班と合流。負傷者一名を搬送中。応答を」
箱の奥で砂をこするような音がした。
『北……聞こえ……点検階段は……』
「ローウェン先生、もう一度」
『結界が……地上側から……』
声が切れた。
カシアンは取っ手を回し直す。呼出音さえ返らない。
「線が切れた?」
フィオナが通信器の通気穴へ耳を寄せる。
「向こうの音が全部消えた。ここじゃなくて、もっと先」
点検室の上部に、白い細線が三本走っていた。火災時に区画同士の熱を遮る安全結界の作動表示だ。地上へ近い一本が消える。間を置かず、二本目も暗くなった。
残った一本が弱く明滅する。
「実習中止」
カシアンが通信器から手を離した。
「通信不能。安全結界は二系統停止、残りも保つ保証がない。全員、点検階段から地上へ退避する」
第一班の生徒が通信器を指した。
「先生の許可は」
「取れない。中止条件は満たした。待てば負傷者を危険に置く」
言い切ると、カシアンは搬送布の足側へ戻った。
ルカは正面と左右の扉を見た。左扉には、階段を示す白い矢印がある。ただし、扉の下から空気がこちらへ押し戻されていた。フィオナが先に首を振る。
「左は駄目。さっきより逆流が強い」
「右は?」
「流れてる。油の匂いが少しする」
右扉の向こうへ、二本の搬送軌道が延びていた。施設の資材や耐熱容器を運ぶための細い鉄路だ。壁沿いに進み、奥で左へ曲がっている。
ダリオが扉脇の図板を煤の下から出した。
「右は鑑定炉の搬入口へ出る。その手前に防火隔壁がある。隔壁の外から点検階段へ回れる」
「どのくらい?」
「百五十歩。床が無事ならな」
最後の表示線が消えた。
天井の魔法灯が一度暗くなり、赤い非常灯へ切り替わった。
正面扉の隙間から、湿った熱気が押し込んでくる。閉じた安全扉の向こうで噴いていた蒸気が、離れた点検室まで回ってきた。
「止めるはずの結界が消えたから、区画を越えて流れてる」
フィオナが風を細く返す。押し戻せたのは扉の隙間から入る分だけだった。通路の奥では金属管が鳴り続けている。
セラが負傷者の額へ触れた。
「熱が上がる前に運ぶ。この人を蒸気の来る側へ戻すのはなし」
「行こう」
搬送を再開する。
軌道の横には人が一人通れる作業帯しかない。先頭のダリオが継ぎ目を踏み、沈まないか確かめる。フィオナはその肩越しに風を流した。セラは負傷者のすぐ後ろにつき、揺れが大きくなるたび止めた。
半分ほど進んだ時、ルカの右掌が急に熱くなった。
傷の痛みと違う。もっと奥、軌道が曲がる先から来る。
「止めて」
ルカが言うより早く、鉄路の下で歯車が噛み合った。
動力を切っていたはずの搬送軌道が震える。床に並ぶ鎖が引かれ、曲がり角の向こうから台車が現れた。
四本の固定鎖。ひびの入った外箱。その上から巻かれた補強帯。
「封印箱だ」
列車から運んできた灰色の結晶が載っている。
台車に係員はいない。壁の操作盤も暗いままだ。それでも床下の鎖だけが動き、封印箱を地下側へ引いていく。
ルカは搬送布をカシアンへ寄せた。
「持てるか」
「追うつもりか」
箱はもう角を曲がりかけている。あの先には鑑定炉がある。さらに下には、熱を取り出すため魔獣を拘束していた地下炉が残っている。
右掌の熱が強くなる。今なら台車へ追いつける。鉤縄があれば、後ろから固定具へ掛けられる。
搬送布が揺れた。
「悪い。気持ち悪い」
負傷した生徒の声が弱い。額に汗が増え、唇の色も薄くなっていた。
セラがルカを見る。
「止まれるのは、あと一回。隔壁を越えたら横にする」
軌道の音が遠ざかる。
ルカは箱から目を離した。
「負傷者を運ぶ。箱は場所を覚えて、先生に伝える」
カシアンは問い返さず、足側を持ち直した。
「第一班、前を空けろ。隔壁まで走れ」
二人の生徒が先へ出る。ダリオとフィオナも続き、隔壁の状態を確かめに向かった。
ルカたちは歩幅を合わせて進む。右掌から伝わる熱は、曲がり角の奥へ遠ざかっていった。
防火隔壁は、鑑定炉へ続く搬入口の手前にあった。厚い金属板が天井から下がり、腰の高さで止まっている。横の巻き上げ輪を第一班の二人が回しているが、板は少しずつ落ちていた。
「動力が抜けてる。歯止めも欠けてる」
ダリオが工具鞄を開く。取り出したのは、列車事故で先を潰した鉄楔だった。
「それ、使える?」
「真っすぐには入らない。だから欠けた歯へ噛ませる」
ダリオは楔を差し、金槌を二度振った。斜めに潰れた先端が歯止めの欠けへ食い込む。隔壁が肩の高さで止まった。
「三十秒。抜けたら落ちる」
「負傷者から通す」
セラが先に隔壁の外へ出た。ルカとカシアンが搬送布を持ち上げ、負傷者を水平に保ったまま渡す。第一班の二人が外側で受け取った。
次にフィオナが抜ける。隔壁の向こうから風を送り、狭い隙間の空気を保った。ダリオは楔を見たまま動かない。
カシアンが身体を横にして隔壁を抜け、外側へ回る。
「お前が先に行け」
ルカが肩を押す。
「楔が外れる」
「外れたら俺が支える。傷に力はかけない」
「それで何秒持つ」
「お前がくぐる分」
金属が小さく鳴った。楔が一ミリほど滑る。
カシアンが向こう側からダリオの襟をつかみ、隔壁の外へ引いた。
「議論は後だ。ルカ、来い」
ルカは最後に地下側を振り返った。
軌道の曲がり角から、封印箱の赤い熱だけを感じる。姿はもう見えない。その下で、搬送用の鎖が休まず動いていた。
隔壁の下へ身体を滑らせる。背中が金属板をこすった。外側からカシアンとダリオが救助帯をつかみ、ルカを引き抜く。
靴が隔壁の外へ出た瞬間、楔が飛んだ。
金属板が床へ落ちる。
同時に、地下側から太い鎖の切れる音が響いた。




