生きている壁
列車が止まっても、鉤縄は張ったままだった。
監獄炉駅の係員が貨物台の四方へ新しい歯止めを入れる。ボルクが一本ずつ蹴って確かめ、ようやく座席脚の結び目を解いた。
「もう引かなくていい。手を離せ」
ルカは縄を緩めた。掌の擦り傷へ汗が入り、遅れて痛みが出た。
セラがすぐ横へ来る。
「手」
「荷物を下ろしてからでも」
「今」
返す言葉がなく、右手を出した。セラは傷へ洗浄水を流し、薄い布を一周だけ巻く。
「深くはない。今日は縄を素手で握らないで」
「手袋なら使える?」
「傷が開かなければ」
隣ではダリオが楔の固定を解いていた。右の人差し指を曲げるたび、先が小さく揺れる。ボルクはそれを見て、金属魔法でつないだ箇所へ自分の工具を入れた。
「お前はレンチだけ使え。魔力は地下まで取っておけ」
「これくらいなら」
「列車でもそう言った顔だ」
ダリオは口を閉じた。
二本の鉄楔が外れた。一本は先が斜めに潰れ、床へ置いてもまっすぐ立たない。ダリオは捨てずに工具鞄へ差し、使える一本をルカへ返した。鉤縄には焦げた床の粉がこびりついていたが、鉤も継ぎ目も曲がっていない。
足首を痛めた貨物係は駅の救護室へ運ばれた。封印箱は貨物台ごと、駅に備えられた低い搬送車へ移される。貨物台の四隅を四本の鎖で搬送車へ留めた。
「箱は俺とマレクが運ぶ」
ボルクは二班へ向き直った。
「お前たちはローウェンから施設の使い方を聞け。見物のつもりで歩くな。戻る道を二つ覚えろ」
駅舎を出ると、山肌を削った石段が黒い城壁まで続いていた。壁の上に窓はない。見えるのは四本の排気塔と、鉄板で塞がれた大門だけだった。
門の脇には、錆びた獣の角が掛けられている。ルカの背丈より長く、切断面へ太い穴が二つ開いていた。角の内部へ金属管を通し、熱を取り出していた跡だと分かった。
ローウェンが門を開ける。冷えた空気が地下から上がってきた。
「ここには、火を吐く魔獣が収容されていた。拘束したまま熱を取り出し、麓の精錬所と町の暖房へ送っていた」
「何頭いたんですか」
第一班の生徒が尋ねた。
「最後まで残ったのは一頭だ。施設が閉じる前に処分されたと聞いている」
ルカは大門の奥を見た。石段は途中で左右へ分かれ、さらに下へ続いている。魔法灯の光は、二つ目の踊り場までしか届かなかった。
フィオナが振り返る。開いた門の外では風が草を倒していた。
「三段で消えた」
「何がだ」
ダリオが聞く。
「外の風。ここから先は換気炉の流れだけ」
飛行眼鏡を目元まで下ろした。色のついた薄い板が、舞う埃の向きを見やすくする。
二班は階段を下りた。ルカは曲がり角のたびに壁の番号と扉の色を確かめた。白い扉が地上駅へ戻る道。青い扉は緊急冷却路。黒い扉の先が収容炉だった。
最初の黒い扉は、人の腕ほどもある横木で閉じられていた。
ローウェンが足を止める。
「実習中、黒い扉は開けない。遭難者役も置かれない。白と青だけを使う」
ルカたちは順に返事をした。
扉の横には四本の鎖が壁を貫き、丸い手輪へ巻かれている。鎖の一つをローウェンが指した。
「拘束鎖だ。炉の中央で収容対象の脚と胴を押さえていた。主動力を失っても、ここから手で締められる」
第一班の二人が手輪を握った。合図に合わせて半回転させる。壁の向こうで重い鎖が持ち上がり、床をこする音が続いた。
「重い……!」
「止めるな。穴を一つ合わせろ」
カシアンが手輪の縁へ杖を差し、二人を支えた。留め穴が重なる。ローウェンが太い固定棒を通すと、向こう側の鎖が宙で止まった。
ダリオは手輪の根元へしゃがんだ。
「歯が欠けてる」
「一枚だけだ。逆へ回さなければ使える」
「実習中に緩んだら?」
「赤い取っ手を引け。上から補助爪が落ちる」
ダリオが取っ手を引く。鉄の塊が手輪の歯へ落ち、強く噛み合った。彼は音を聞いてから取っ手を戻した。
次の区画では、細長い炉の前に着いた。火を入れる皿と、排気塔へ伸びる煙道がある。ローウェンは壁の箱から点火具を取り、小さな燃料弁を開いて皿へ火を入れた。
火が高くなるにつれ、通路の埃が炉へ引かれていく。
「換気炉は空気を上へ引き上げる。送風術が使えなくても動くが、強くすれば地下の炎まで引き寄せる」
ローウェンは煙道脇の細い鉄扉を開けた。内側に縦梯子があり、暗い塔の上まで続いている。
「排気塔の保守路だ。外からも入れるが、換気炉が動いている間は熱と煙が上がる。炉を止めるまでは使えない」
「じゃあ、全開にはしない方がいいね」
フィオナは煙道の脇へ立ち、指先から細い風を送った。火は横へ傾き、すぐ中央へ戻る。
「今の流れなら、南通路からここへ来る。北側はほとんど動いてない」
「実習区画は北だ」
カシアンが壁の案内板を見た。
「事故時は南へ抜けるべきか」
「この炉が動いていればね。止まったら、さっきの白い階段」
ローウェンは火を落とした。吸い寄せられていた埃が、床へゆっくり戻る。
「風の停止も退避の合図に加える。各班で決めろ」
青い扉の前には、腰の高さのレバーが二本並んでいた。その先は幅の狭い坂路で、両側の溝が暗闇へ下っている。
「右を開ける」
ローウェンが片方を倒す。
頭上で弁が動き、冷たい水が右の溝へ流れ込んだ。水は石床へ広がらず、坂を曲がって黒い扉の下へ消える。数秒後、遠くで蒸気が弾けた。
セラが壁から一歩離れた。
「音が近い」
「炉壁の外側まで水を通した音だ。開けるのは一方ずつ。両方を同時に落とすと、逃げ道まで蒸気で塞がる」
ローウェンがレバーを戻す。水量はすぐ減ったが、溝には指一本ほどの深さが残った。
ルカは靴底で水を踏まない位置を選んだ。この坂を走って上がるなら、中央しか使えない。負傷者を二人で運べば横幅が足りなくなる。
「担架は通る?」
「横では無理だな」
ダリオが壁と溝の間を測る。
「縦にして四人。前後を入れ替える場所は、上の踊り場だけだ」
セラは坂を見上げた。
「途中で止まったら、治療はできない。ここへ入る前に動かせる状態にする」
二班が坂を上がる間、後ろから車輪の音が近づいた。
ボルクとマレクが封印箱を押してくる。搬送車は青い扉を通らず、横の灰色の通路へ曲がった。
「鑑定炉は?」
ルカが尋ねる。
「東の観測室だ」
マレクが通路の奥を示した。二つ先に、白い円が描かれた鉄扉がある。
「箱を開けずに熱の動きと材質を測る。お前たちは近づくな」
封印箱が目の前を通る。
右掌の傷より先に、胸の奥が熱くなった。
ルカは息を止めた。列車で感じた熱より弱い。箱が遠ざかると、それも薄くなる。
ところが、完全には消えなかった。
左に黒い扉。右に鑑定炉へ続く灰色の通路。箱は右へ運ばれている。それでも熱の一部だけが、左の壁に残っていた。
一度、消える。
二歩進んだところで、また胸から右腕へ熱が通った。
「ルカ?」
フィオナが足を止める。
ルカは黒い扉へ近づかなかった。壁から腕一本分の距離を空け、包帯を巻いた掌を向ける。
熱は石の奥で短く強まり、途切れた。
「箱じゃない」
「何が?」
「熱が残ってる。こっちの壁の中だ」
ダリオが測定針を取り出した。右手で持とうとして震え、左へ替える。針先を壁へ沿わせたが、細い針は動かない。
「金属の反応はない。温度は?」
カシアンが火術杖の銀輪を壁へ向ける。
「周囲と同じだ」
「今は消えた」
ルカは待った。
換気炉の火は落ちている。冷却路の水音も遠ざかった。誰も動かない通路で、封印箱の車輪だけが小さくなっていく。
五つ数えた時、石の奥から熱が戻った。
短く二度。間を置いて、また強まる。
「動いたか」
ローウェンが黒い扉と鑑定炉への通路を見比べた。
「動いてない。扉の左、俺の肩くらいの高さ」
「全員、壁から離れろ」
二班が青い扉まで下がる。ローウェンは通路の呼鈴を三回引いた。灰色の通路で搬送車が止まり、ボルクが封印箱を東の角へ移して車輪を固定する。
「実習開始を遅らせる。鑑定炉も開けるな」
ボルクは黒い炉壁へ白墨で印をつけた。マレクが火術杖の銀輪を向け、ボルクが石の継ぎ目へ測定針を差す。温度、空洞、金属。どの検査にも反応は出なかった。
「今は?」
「消えてる。箱の熱は、あっちに感じる」
封印箱の位置は胸の奥へ薄く伝わる。壁に残っていた熱とは離れていた。
教師たちが床と天井へ検査範囲を広げる間、第八班は青い扉の前へ施設図を広げた。冷却路の溝に残った水が、坂を細く流れている。
「中央路がいい。担架ごと向きを変えられる」
ダリオが現在地から北区画へ指を滑らせた。
「梁も太いし、管が少ない」
「今、風が止まってる」
フィオナは床の糸くずを風で浮かせた。糸は北へ進まず、濡れた溝へ落ちる。
「炉を点け直したら流れるだろ」
「向きまで同じとは限らないよ。煙が中央へ戻ったら、担架ごと立ち往生する」
ダリオは図から指を離さない。フィオナは濡れた糸を拾い上げる。二人とも退路を見ているのに、譲る場所が違っていた。
「まず中央を試そう」
ルカは中央路を指した。
「フィオナ、風が変わったらすぐ止めて。ダリオは、戻れる道をもう一本見てくれ」
「確認してる間に煙が来たら?」
「二十秒なら防護を保てる。決まらなければ引き返すよ」
セラが先に答えた。
「負傷者を見つけたら、運ぶ前に私へ見せて。どの道を使うかは、それから」
ダリオは西の点検路へ指を移した。
「中央が駄目ならここだ。亀裂があれば青い扉まで戻る」
「出口の風も、私が先に見る」
フィオナが糸くずを捨てた。
「それなら、中央からでいい」
隣で地図を広げていたカシアンが顔を上げる。
「第八班が中央路なら、こちらは東から入る。合流地点を空けられる」
「競技で道を譲るの?」
「狭い通路で二班が詰まるよりましだ。救出数は別に競う」
炉壁を打つ音が止まった。
白墨の印は、人が両腕を広げたほどの四角へ大きくなっていた。削った石の継ぎ目にも、差し込んだ温度棒にも変化はない。
「残熱が通る道は見つからん」
ボルクが測定針を抜いた。
ローウェンは黒い扉へ立入禁止の帯を二重に張る。
「収容炉と鑑定炉は封鎖を続ける。実習は北区画だけ。教官を一人ここへ残す。壁の音、熱、計器の変化が出たら即時中止だ」
換気炉に再び火が入り、床の埃が南へ動き始めた。フィオナが新しい糸を垂らす。
「中央路へ流れてる」
北区画の扉の前へ二班が並んだ。
ルカは手袋の下で、右掌の包帯が緩んでいないか確かめた。鉤縄は腰にある。使える鉄楔は一本。
係員がレバーを下ろす。
鉄扉が左右へ割れ、灯りの少ない中央路が現れた。
ルカの胸へ熱が走る。
肩の高さに留まっていたものが壁の中を床まで落ち、開いた扉を追って北へ動いた。
「待って。熱も動いた」
扉の奥で、実習用の救難鈴が鳴り始めた。




