灰色の逆流
翌朝、ルカはセラの診察を通り、軽作業に限って地下調査への同行を許された。
「荷物を持つ、壁を削る、走る。この三つは禁止」
「最後の一つは作業じゃないだろ」
「ルカには必要」
火災救助棟の裏では、床下へ続く鉄蓋がすでに開いていた。ボルクが梯子の前に立ち、整備員二人の道具を確認している。マレクは火術杖の銀輪を布で拭いていた。昨日の油火を受けた部分だけ黒ずんでいる。
ダリオが工具鞄を背負い直した。
「軽作業だってさ」
「聞こえてた。俺の鞄には触るなよ」
セラがうなずくまで、ダリオは梯子へ足を掛けなかった。
地下通路には昨日の焦げた油の匂いが残っていた。赤い帯を巻いた油管が天井近くを走り、その下に暖房用の太い黒管が並んでいる。どちらも停止していた。灯具の黄色い光だけが、低い天井を奥まで照らしている。
「昨日外れた継ぎ手はこの上だ」
ボルクが油染みの残る床を靴先で示した。
「主弁を閉じた後も、地上側から圧が戻った。今日は戻り道を探す。ダリオは管を見る。フェルドは昨日の火の位置を言え。妙な熱を感じたら、先に口を開け」
最後の言葉だけ、ルカへ向けられていた。
ダリオが点検蓋を外す。油管の中にある逆止め板は、下側が奥へ曲がっていた。油を地上へ送る時とは反対の向きだ。
「やっぱり上から押されてる」
「火皿に圧を作る機構はない」
「だから、図面にない何かがつながってる」
ダリオは曲がった板を戻さず、蓋だけを仮留めした。
ルカは床の油染みを追った。黒い筋は通路の右壁まで続き、石の継ぎ目で途切れている。昨日、係員を閉じ込めた火も同じ側から壁へ回っていた。
「昨日の火は、この上を右へ進んだ」
壁へ近づくと、包帯の下で右の掌が温かくなった。
太い黒管は冷えている。触れた石も冷たい。熱は石一枚を隔てた向こう側を、床から胸の高さまで上がってきた。
「ここだ」
ダリオが細い測定針を当てる。円盤の線が一度振れ、止まった。少し上へずらすと、また振れる。
「壁の中に金属がある。縦に一本」
ボルクが短い槌で石を叩いた。三つ目から返る音が低くなる。
「奥は空洞だ。マレク」
「分かっている」
マレクは火術杖を上げた。銀輪に細い赤光が走る。
「壁内に熱がある。小さいが動いている」
「開けますか」
整備員が鏨へ手を伸ばした。
「まだ触るな」
ボルクは壁際へしゃがみ、油染みの端を布で拭った。漆喰の下から縦の線が現れる。埋められた扉の端だった。
その時、ルカの足元で白い粉が動いた。
梯子から入っていた空気が止まっている。次の瞬間、粉は壁の継ぎ目へ吸い込まれた。
「下がって!」
ボルクは理由を聞かなかった。
「全員、曲がり角まで退避!」
二人の整備員が道具箱を持ち上げる。一人が手押し台車を引いたが、右の車輪が床の溝へ落ちた。
「置いていけ!」
台車を離した整備員が走る。二歩目で足を滑らせ、膝をついた。
壁の奥から金属が潰れる音がした。
ルカは戻った。整備員の腕をつかみ、立たせる。右手に力を入れると包帯の下が痛んだ。
「走れる?」
「行ける」
二人が曲がり角へ入る直前、埋められた扉が通路側へ膨らんだ。
石が割れた。
熱気と破片が通路を走る。残された台車が横転し、工具が床を跳ねた。天井の留め具が外れ、黒管が大きく下がる。
「支柱!」
ボルクの声に、ダリオが工具鞄から伸縮支柱を抜いた。曲がり角から身を乗り出し、落ちてくる黒管と床の間へ斜めに差し込む。
支柱の爪が石を滑った。
ダリオは右手を床へ押しつけた。爪の両側から石が盛り上がり、支柱を挟む。金属の震えが止まった。
「固定した。長くは無理だ!」
「人を数えろ」
ルカは角の内側を見た。ボルク、マレク、ダリオ、整備員が二人。自分を入れて六人。
「全員いる!」
割れた壁から赤い炎が噴き出した。
マレクが杖を振り上げる。通路を進んでいた炎が天井へ曲がり、排気口へ集まった。火力を消すのではなく、誰もいない上へ流している。
「熱を押さえる。空気を通せ」
ボルクは左壁の手輪へ飛びついた。固着した輪を整備員と二人で回す。壁の小蓋が開き、床際へ冷気が入ってきた。
炎の向きが変わった。マレクの額に汗が浮く。銀輪の赤光が強まり、噴き出す炎を排気口へ細く絞っていく。
「ダリオ、右が沈んでる」
ルカの目の前で、支柱の下端が指一本分ずれた。
「見えてる!」
「台車を噛ませられる」
横倒しになった台車は、支柱から二歩先にある。整備員が取りに出ようとした。
「人は出すな」
ボルクが止める。
ルカは救助帯から鉤縄を外した。
「ここから引く」
床を滑らせるだけなら、重さを持ち上げずに済む。鉤を低く投げると、台車の枠へ掛かった。二度引いて確かめる。
「一人で引くな」
整備員が縄の後ろを持った。二人で体重を後ろへ移す。台車が工具をこぼしながら床を滑ってきた。
「そこで止めろ。車輪を支柱の下へ」
ボルクが長い棒で台車を押す。ずれた支柱の下へ鉄の車輪が入り、沈みが止まった。
ダリオが大きく息を吐いた。床へ置いた右手はまだ震えている。
「固定を切るなよ」
「分かってる」
冷気が強くなった。炎が排気口へ吸われ、赤い光が壁の割れ目まで後退する。
やがて、マレクが杖を下ろした。
「燃料の火は切れた。奥に残熱がある」
ボルクは全員を角の内側に残したまま、長い温度棒を割れ目へ差し込んだ。先端の白札が薄赤く染まり、少しずつ白へ戻る。
「近づくのは冷えてからだ。まずダリオの手を見ろ」
「動く」
ダリオが指を開こうとした。親指と人差し指が途中で止まる。
「動いてない」
整備員が固定を引き継いだ。ダリオは不満そうに眉を寄せたが、支柱から手を離した。
温度札が白へ戻るまで待ち、ボルクとマレクが先に壁へ近づいた。埋められていた扉は上半分が崩れ、その奥に古い熱導管が露出している。縦に裂けた管から、灰色の塊が一つ転がり落ちた。
ルカの右手が熱くなった。
「待って」
誰かが拾う前に声が出た。
塊は拳の半分ほどの大きさで、表面は灰色だった。割れた部分だけ角張っている。管も床も冷え始めているのに、掌の熱は強くなっていく。
「あれから熱を感じる」
マレクが銀輪を向けた。
「表面温度は周囲と同じだ」
「古い蓄熱材かもしれん。だが学院で使う物とは形が違う」
ボルクは整備員へ防護手袋と耐火皿を出させた。
「フェルド。触れるなら指一本だ。痛み、痺れ、熱のどれかが出たら離せ」
ルカは右手へ手袋をはめた。包帯の上からでは指が曲げにくい。腰を落とし、人差し指だけを灰色の表面へ触れさせる。
胸の奥から肩、肘、指先へ温かさが走った。
塊の割れ目に赤い線が灯る。
「離せ」
指を上げると赤い線は消えた。
ダリオが測定針を近づける。円盤はわずかに振れた。
「金属が混じってる。割れ目が押されて、中の残熱が見えたのかもしれない」
ボルクが別の手袋で同じ場所を押した。何も起きない。マレクの銀輪にも反応は出なかった。
「もう一度はやらん。容器へ入れろ」
整備員が挟み具で灰色の塊を耐火容器へ移す。古い管の中には、同じ色の小片がいくつも詰まっていた。
ボルクは裂けた管の奥を灯具で照らした。灰色の欠片の向こうに、小さな点検口がある。留め金の一部だけ、周囲と違って銀色に光っていた。
ダリオが目を細める。
「ここ、擦れたばかりだ。古い錆が削れてる」
「内側から開けた跡か」
「工具は外から入ってる。先端の傷がこっちを向いてる」
ボルクは点検口へ手を触れず、立ち上がった。
「地下の出入口を全部閉じろ。誰も単独で動かすな。学院の保安担当を呼べ」
老朽化した管が偶然破れただけなら、内側の留め金に新しい傷は残らない。
整備員が耐火容器を抱え、梯子へ向かった。厚い蓋が閉じても、ルカの掌には熱が残った。
容器が角を曲がる。
見えなくなってからも、どちらへ運ばれているか分かった。




