燃え残った部屋
次の組が火災救助棟へ入るまで、十分もなかった。
ルカは使い終えた空気筒を補充台へ置き、呼吸具の硝子についた煤を拭いていた。カシアンは探索縄の汚れを布で落としている。
入口を押さえていた訓練係員が、三番排煙口の戻りが遅いとマレクへ伝えた。腰から工具を抜き、棟の右側へ回っていく。外壁と訓練室の間にある点検通路から調べるらしい。
鉄扉が閉まり、二組目の訓練が始まった。
排煙口から黒煙が吐き出される。先ほど自分たちが入った時と同じ光景だった。
ルカは呼吸具へ新しい空気筒を取りつけた。次に呼ばれても動けるよう救助帯へ戻す。
黒煙の向きが変わった。
屋根から上がっていた煙が弱まり、棟の右端にある壁の継ぎ目から押し出されている。茶色い煙が地面に沿って広がった。訓練用の黒煙より薄く、焦げた油の匂いが混じっている。
「教官」
マレクはすでに動いていた。操作台の赤い取っ手を引き下ろす。
「燃料を遮断。中の二名を出せ」
補助の教官が入口を開け、探索縄をたぐった。訓練中の生徒二人が低い姿勢で出てくる。最後の一人が境を越えると、マレクは全員を二十歩下がらせた。
壁の継ぎ目から赤い光が見えた。
「火皿は止めたはずだ」
カシアンが火術杖の銀輪を向ける。輪がすぐ赤くなった。
「点検通路へ熱が回ってる」
「油管の中に残った分が漏れたな」
マレクは外壁の横へ走った。ルカも数歩追い、そこで足を止める。退避命令はまだ解かれていない。
棟の右側には点検通路へ入る鉄扉があった。マレクが取っ手を引く。扉は指一本分だけ動き、止まった。上枠が熱で曲がっている。
「係員は」
「排煙口を見に行った人が中にいる」
ルカの答えに、補助教官が周囲を見回した。
「裏の出口から出た可能性は」
「見てきます」
別の係員が棟の裏へ走る。
ルカは外壁を見た。
継ぎ目の火は上へ伸びていた。熱は壁の右端から屋根へ上がり、中央を避けて左側へ回っている。真ん中だけが周囲より冷たい。四角い形で熱が途切れていた。
訓練室の配置が頭に浮かぶ。そこは先ほど人形を見つけた部屋の裏側だ。図面にはないが、外壁との間に器具を置く小部屋があるはずだった。
壁の内側で、短い音が三回続いた。
金属を叩く音だった。
「あそこにいる」
ルカは熱の途切れた場所を指した。
マレクが振り返る。
「音を聞いたか」
「三回。まだ燃えてない小部屋だ。火が両側から回ってる」
棟の裏から係員が戻ってきた。
「裏口は空です。内側の戸が開きません」
マレクは操作台の横にある円形の蓋を蹴り開けた。中の手輪を回すと、棟の床下で重い音がした。消火砂を点検通路へ落とす装置だった。
右壁の赤い光が弱まる。
「教官、俺が行く」
「入口はここだけじゃない」
「訓練室から小部屋へ入れる。さっき通った道だ」
「内部の仕切りは熱でずれている」
「それでも外扉を開けるより早い」
マレクはルカの呼吸具と救助帯を見た。
「空気筒は」
「新品だ」
「カシアン。入口で縄を持て。床の火が中央通路へ出たら二回引け」
「中へは」
「お前の防護で点検通路の油火を動かす。出口を守れ」
カシアンは棟を見てから、探索縄をルカの救助帯へつないだ。
「三分で戻れ」
「分かってる」
ルカは防熱布と鉄楔を取り、呼吸具をつけた。
マレクが訓練室の扉を開く。黒煙が外へ押し出された。ルカは床へ膝をつき、その下へ入る。
入口から右へ五歩。最初の分岐を左へ進む。訓練中は加熱板があったため避けた道だ。燃料を止めた後も壁は熱を残している。
視界は手の先までしかない。
左の壁から熱が押してくる。右の床際には冷たい空気が残っていた。ルカは右肩を壁へ寄せ、身体を低く保った。
探索縄が一度張った。入口のカシアンが距離を確かめている。ルカは一度引き返し、先へ進んだ。
正面だけ熱が弱くなった。幅は扉一枚ほどある。その両側を通った熱は上で重なり、天井へ抜けていた。煙で何も見えなくても、扉の位置は分かった。
手を伸ばすと鉄の取っ手に触れた。
熱い。防熱布をかぶせて引く。動かない。
「中にいるか!」
返事の代わりに、内側から金属が二度鳴った。
ルカは取っ手の下へ鉄楔を打ち込んだ。救助帯から折り畳み式の鉤縄を外し、鉤を楔の穴へ掛ける。床へ片足をつき、縄を肩へ回した。
引く。
戸の下が少し開いた。もう一度体重を後ろへ移す。曲がった留め金が外れ、戸が手前へ動いた。
冷たい空気と白い煙が隙間から出てきた。
小部屋の床に訓練係員が倒れていた。崩れた工具棚が左脚へ乗っている。口元を袖で押さえ、右手には短い鉄棒を握っていた。
「脚は動くか」
「挟まってる。息が、続かない」
ルカは工具棚の端へ肩を入れた。持ち上げようとしてもびくともしない。床との隙間へ鉄楔を差し、防熱布を折って支点にする。
「上がったら脚を抜いて」
鉄棒を楔へ差し込む。左手で先を押し下げると、棚の端が指二本分浮いた。
係員が脚を引いた。
「抜けた」
棚を下ろし、ルカは係員の腕を自分の肩へ回した。立ち上がらせると左脚に力が入らず、二人とも壁へぶつかった。
探索縄が二度引かれた。
中央通路へ火が出た合図だ。
「これをつけて」
ルカは自分の呼吸具を外し、係員の顔へ当てた。
「君はどうする」
「床に空気がある。しゃべらず行こう」
喉へ煙が入った。目が痛み、すぐに涙が出る。ルカは防熱布の端で鼻と口を覆った。
係員の腰へ探索縄を回し、自分は反対側から身体を支える。来た道へ出ると、右の床に細い炎が広がっていた。高さは足首ほど。左壁との間に人一人分の隙間がある。
ルカには炎の先がどこへ伸びるか分かった。油の筋が切れる手前で弱まり、次の一歩では壁側へ広がる。
「今」
係員を支え、隙間を通る。
熱が靴の外側へ触れた。防熱布の裾が焦げる。ルカは足を止めず、冷たい空気が入る方向へ進んだ。
煙を吸うたびに喉が狭くなる。それでも息を大きく吸わず、短く吐いて次の空気を待った。床際を流れる冷気が頬へ当たった時だけ息を入れる。
白い出口が見えた。
カシアンが縄をたぐり、補助教官が係員の腕を受け取った。ルカも扉を越えたところで膝をついた。
後ろではマレクが火術杖を横へ振り、点検通路から出た炎を砂の上へ寄せている。別の教官が消火砂を追加し、赤い部分を覆っていった。
「治療班! 場所を空けて!」
担架を運んできた治療防護科の生徒たちの中に、セラがいた。
係員は担架へ移された。セラは腫れた左脚を固定し、別の生徒へ呼吸の処置を任せる。それから床に座るルカの前へ来た。
「呼吸具を渡したの」
「あの人の方が苦しそうだった」
「説明はあと。口を開けて」
喉へ淡い光が当たる。咳が出た。セラは背へ手を当て、音を聞く。
「胸は?」
「少し重い。喉が痛い」
「中にいた時間」
「三分くらいです」
カシアンが答えた。
「後半は呼吸具なし」
セラの指がルカの首筋へ移った。速い脈を数えながら、胸の上下を見ている。
「煙を吸ってる。なのに、呼吸がほとんど乱れてない」
「床を流れる空気だけ吸った」
「今の呼吸を言ってる。立たないで」
膝を起こしかけたルカは、肩を押されて座り直した。
治療防護担当のリディアが、係員の担架からこちらへ来た。ルカの目と口内を確かめる。
「治療室へ。歩けるならセラと行きなさい」
火災救助棟に隣接した治療室までは二十歩ほどだった。その間に咳が二度出た。
寝台へ座ると、リディアが薄い円盤を背中へ当てた。白い石から広がった光が肺を透かし、端に細い灰色を浮かべる。
「深く吸って。吐く」
灰色はゆっくり消えた。場所を変えて調べても、肺の奥に暗い影は出ない。
「気道の入口に軽い炎症。酸欠の痕はない」
セラがルカの指先を針で刺し、血を一滴だけ透明な検査片へ落とした。煙を多く吸っていれば紫へ変わる。検査片は薄い赤のままだった。
「血も正常」
セラは結果よりルカを見た。
「中で、どう息をしてたの」
「煙が下がったら吐く。床から冷たい空気が来た時だけ、短く吸った」
「どうして来るって分かる?」
「頬と耳に当たる空気が変わる」
「ガレスさんに教わった?」
「煙の下を進むことは。空気が来る時は……昔から分かる」
自分の話なのに、最後だけ頼りなくなった。
リディアが円盤を外す。
「六歳の時に赤夜へ遭っているそうね」
「はい。でも火傷も傷もなかったと聞いてます」
赤い空と木の割れる音は覚えている。すぐそばで燃えていたはずの炎を思い返しても、熱さだけが浮かばない。
「空気の流れへ気づきやすい体質に、長い避難訓練が重なった。今の検査で説明できるのはそこまで」
リディアの治療光が喉から胸へ下がった。飲み込むたびに刺さっていた痛みが弱くなる。
「今夜は運動禁止。咳、頭痛、吐き気が強くなったら戻ること」
「はい」
リディアが係員の寝台へ戻っても、セラは黒くなった呼吸具を持ったまま残った。
「疑ってる?」
「症状を隠したとは疑った。そこは違った」
セラは焦げた防熱布の裾を持ち上げる。
「空気の変化に気づきやすい体質と呼吸訓練。今はそれで扱う。でも、次も一人分の空気で入るのは駄目」
「二本持てば重くなる」
「倒れたルカを運ぶより軽い」
反論を探している間に、戸が開いた。
消火砂を肩へつけたマレクが、鉄楔と鉤縄を寝台へ置く。鉤の一部は熱で黒く変色していた。
「二人とも無事だ。火も止めた。ただ、燃料を遮断した後も床下から圧が残った。明日、ボルクが導管を調べる。ダリオと、お前も来い。治療側が許せばな」
「明朝、診ます。異常がなければ軽作業まで」
セラが先に決めた。
ルカは黒くなった鉤を布で拭いた。煤は落ちたが、金属の色は戻らない。
火は上で止まった。
それでも、熱を押し戻したものが地下に残っている。




