煙の向こう
翌朝、マレクは芯皿の代わりに銅の輪をルカの右手首へ巻いた。
輪から伸びた細い導線が、練習杖の根元へつながっている。指導役が先に熱を通し、その流れへ術者の魔力を合流させる誘導具だった。発火の入口で迷う生徒に使うものらしい。
「昨日と同じ式だ。今度は自分で道を探す必要がない」
火災救助棟の入口で、ルカは杖先を芯へ向けた。背後では火属性班の生徒たちが防熱衣と呼吸具を点検している。
マレクが銅輪へ触れた。温かさが手首を一周し、導線を通って杖へ抜けていく。
「灯火よ。指す先に生まれよ」
与えられた熱だけが芯の先を温め、消えた。
ルカから加わったものは何もなかった。
「もう一度」
「今日は一回だ」
マレクが銅輪を外す。
「条件は変えた。結果も見た。右手を傷め直す前に次へ行け」
昨日の言葉が胸へ戻った。発火は明日の自分へ渡している。
今日は試した。そう言い返す相手はここにいない。それでも黒い芯から目を離すまでに、一呼吸かかった。
火災救助棟は、耐火石の壁で六つの部屋を組んだ平屋だった。内部の仕切りは動かせるため、訓練ごとに通路が変わる。今回は奥に要救助者役の人形が一体置かれている。二人一組で捜索し、八分以内に入口まで運び出す課題だ。
壁際の火皿と加熱板が煙と熱を作る。どちらも金網の奥にあり、触れない。安全装置は教官が外から管理していた。
「内部では立つな。煙層の下を進め。防護が切れた者は相手を残さず撤退しろ」
マレクは組み合わせを読み上げ、最後にルカとカシアンを呼んだ。
ルカは支給された機械式呼吸具を顔へ当てた。空気筒一本で使えるのは約三分。救助帯に交換筒を一本差してある。カシアンは胸元の防護札へ魔力を通し、半透明の膜を口元へ広げた。
「私が火を抑える。人形は任せる」
「通路は一緒に決める」
「当然だ」
カシアンが腰の探索縄を引いた。ルカは端を受け取り、自分の救助帯へ留める。煙の中では互いを見失っても、この縄が距離を伝える。
鉄扉が開いた。
黒煙が床から腕一本ほどの高さまで垂れ込めていた。その上は何も見えない。ルカは膝をつき、左手で壁を探った。右手はまだ包帯を巻いている。
「入る」
二人で境を越える。扉が閉まると外の声が遠くなった。
煙が呼吸具の硝子を曇らせた。見えるのは手元の石床と、カシアンの防護札が放つ淡い赤だけだった。
最初の角まで五歩。
そこから通路が左右へ分かれている。カシアンが右の床へ杖を向けた。小さな火を出し、傾きで空気の動きを見るつもりだ。
「待って。左が熱い」
ルカは口にしてから、自分でも左を見た。
黒い壁しかない。手は石床についている。熱を測る器具にも触れていない。
「壁に触れたか」
「まだだ。でも左から来てる」
頬の横を、細い熱が通り過ぎていた。右の床際から冷たい空気が入り、左の天井へ吸われていく。煙の濃さはどちらも同じに見えるのに、その流れだけは迷わなかった。
カシアンが左壁へ杖を近づける。先端の銀輪が赤くなった。
「加熱板がある。右へ」
二人は低い姿勢のまま進んだ。
二つ目の部屋で、天井の奥から金属の擦れる音がした。
ルカの首筋を撫でていた熱が止まる。
「伏せろ」
探索縄を引き、カシアンの肩を床へ押した。
直後、頭上を熱気が走った。天井の排煙口が閉じ、行き場を失った煙層が一気に下がってくる。カシアンの赤い防護膜が大きく揺れた。
二人は腹が床につくまで姿勢を落とした。煙が背中を覆い、数呼吸の後で再び持ち上がる。
「閉じる音を知っていたのか」
「今の音は知らない。風が止まった」
ルカは答えながら、天井を見上げようとした。硝子の向こうは黒一色だった。
「先へ行ける?」
カシアンは防護札へ指を当てた。
「維持できる。あと五分」
「こっちは二分を切った。奥を見て交換する」
救助帯の空気筒を確かめ、進む。
次の扉の下から冷気が入っていた。ルカは取っ手へ手の甲を近づける。熱は弱い。身体を壁側へ寄せ、扉を指二本分だけ開いた。
流れ込んだ空気が煙を押し返した。
「人形だ」
カシアンの杖先が奥を照らす。床に灰色の脚が見えた。
ルカは部屋へ入り、人形の首と背を探った。胸部の状態札には背骨の損傷を示す青線が浮いている。抱き上げれば悪化する想定だ。
「搬送布を使う。そっちを持って」
二人で人形を横向きにし、折り畳んだ布を背へ差し込む。元の向きへ戻して身体の下へ広げた。
呼吸具の空気が細くなった。
ルカは交換筒を抜き、弁へ押し込む。古い筒を外した一瞬だけ煙の苦みが舌に触れた。息を止め、接続具を半回転させる。新しい空気が入った。
「戻る」
ルカが肩側、カシアンが脚側を持ち上げた。
来た通路へ出た途端、ルカの足が止まった。
「右へ寄せよう」
「加熱板が左なのは分かっている」
「違う。さっきより下まで来る」
左側の壁に沿って熱が膨らんでいた。目には映らない。だが人形の肩を半歩右へずらした直後、左の煙から細い炎が伸びて消えた。加熱板の前に置かれた火皿が強まったらしい。
カシアンは何も言わず、脚側を右へ運んだ。
二人の歩幅が揃う。角を曲がり、最初の分岐を抜ける。入口の扉が見える前に、ルカには床を這って入る冷気が分かった。
「あと五歩」
「見えるのか」
「見えない。でも扉が開いた」
次の瞬間、黒煙の向こうに白い長方形が現れた。
訓練係員が扉を押さえている。二人は人形を持ち上げたまま境を越え、指定された敷布へ降ろした。
探索縄はまだ二人の救助帯をつなぎ、表面へ黒い煤をまとっていた。
「六分四十二秒」
マレクが人形の状態札を確認する。青線は増えていない。
ルカは呼吸具を外した。冷えた外気が頬に当たる。煙の中で感じていた細かな流れが、急にばらばらになった。
「排煙口が閉じる前に伏せたな」
「空気が止まった」
「火皿の出力を上げた時も避けた」
「左の熱が膨らんだから」
マレクは火災救助棟の壁へ目をやった。外から加熱板の位置は分かるが、内部のルカからは見えなかった。
「ガレスに教わったのか」
「煙は上へ逃げる。新しい空気は床から入る。熱が止まったら溜まる前に伏せろって」
何度も聞かされたことだった。赤夜の後、煙を怖がったルカへガレスが教えた。息を整える方法も、出口を失わない壁の触れ方も。
ただ、どちらから熱が来るかを目を閉じたまま当てる訓練は受けていない。
ルカは口を閉じた。説明できる言葉が見つからなかった。
「判断は合っていた」
カシアンが探索縄を外しながら言った。
「私が銀輪で確かめるより早かった。二度とも」
昨日なら、その言葉を素直に喜べた。
ルカは棟の排煙口から吐き出される黒煙を見た。風に押されて形を変えるたび、どこが熱く、どこから冷たい空気が混じるのかが何となく分かる。
幼い頃に火事を経験したからだ。
ガレスに何度も教わったからだ。
そう考えれば、今まで気づかなかった理由だけが残った。




