逃げている
白線の内側には、腰の高さの台が一つ置かれていた。
台上の白布を取れば攻め手の勝ち。守り手は相手の腰に差した赤布を抜くか、白線の外へ押し出せば勝ちとなる。炎を当ててよいのは、腕と胴につけた黒い防熱具だけ。頭と脚への術は禁止されていた。
ルカは右手の包帯を締め直し、短い訓練棒を左手で持った。
「フェルド。守りだ」
マレクの指示で白線をまたぐ。向かいには火属性班の男子生徒が立った。右腕に火術杖、腰の後ろに赤い布。ルカより半歩ほど背が高い。
「始め」
相手の杖先が赤く光った。
ルカは台の正面から外れ、右斜めへ動く。炎を撃つなら白布を避ける必要がある。相手が狙える場所は狭い。
「走火」
細い炎が石床を走った。
炎はルカの右側を塞ぎ、台までの道を左へ絞った。攻め手は炎の反対側から踏み込んでくる。
ルカは訓練棒の先を床へ落とした。
相手の前足が棒を越えた瞬間、足首の後ろへ引っかける。体重を預けず、進む勢いだけを横へ逃がした。肩が傾いたところへ踏み込み、杖を持つ手首へ左肩を当てる。
赤布を抜いた。
「そこまで」
相手は二歩よろめいて止まった。ルカはすぐに腕を離す。
「悪い。手首は」
「平気だ。火を撃つ前に入ってくるなよ」
「撃った後だよ」
腰から抜いた赤布を返す。相手は自分が作った炎の跡と、ルカが立っていた位置を見比べた。
「同じことだろ」
「かなり違う」
外から声を挟んだのはカシアンだった。
「詠唱を閉じた直後は次の術式へ移れない。彼はそこへ入った」
マレクが焦げ跡を靴底でこすった。
「白布を避けようと射線を決めた時点で踏み込む側も読まれている。次は火を道として残すな」
男子生徒が赤布を差し直し、白線の外へ下がった。
次の組が始まる間、ルカは左手の棒を握り直した。足を払う位置も、肩を入れる角度も狙ったとおりだった。芯皿の前で重くなっていた息が、ようやく通る。
勝ち方が分かる。
失敗しても次に直す場所が見える。
「守り手を交代。フェルドは攻めろ」
マレクが顎で示した先から、カシアンが白線へ入ってきた。
火術杖を右手に下げ、台とルカの間へ立つ。腰に赤布はない。守り手のカシアンが守るのは白布だけだ。
「防熱具を確認してください」
ルカは腕と胸の黒革を指で押した。留め具は外れていない。
「大丈夫だ」
「始め」
ルカは真っすぐ走った。
カシアンの杖が上がる。詠唱を待たず、ルカは訓練棒を石床へ滑らせた。棒だけが先に台の左へ向かう。
カシアンの目が一瞬そちらへ動いた。
ルカは右へ踏み替える。
「火線」
膝の高さに細い炎が引かれた。
前へ跳べば胴の防熱具に当たる。止まれば次の火で退路を塞がれる。ルカは低く沈み、床へ左手をついた。右脚を畳んで炎の下へ滑り込む。
熱が背中を撫でた。
白布まで三歩。
カシアンが後ろへ退きながら杖先を下げる。次は床を焼いてルカの手を止めるつもりだ。
ルカは立ち上がらず、右足で石床を蹴った。低い姿勢のままカシアンの懐へ入り、杖を持つ手へ肩を当てる。
手応えが浅い。
カシアンは半身になって衝撃を流し、杖を左手へ渡していた。
「灯火」
胸の防熱具に熱が触れた。
小さな火が黒革の表面だけを走る。痛みはない。だが術を受けた印の赤い塗料が浮かび、ルカの攻撃権が一呼吸分止まる。
その間にカシアンが台の正面へ戻った。
「続けろ」
マレクの声が飛ぶ。
ルカは滑らせた訓練棒を拾わなかった。回り込む時間が惜しい。白布まで四歩。カシアンとの距離は二歩。
左へ肩を振る。
カシアンの杖先が追った。
踏み出したのは右だった。ルカは杖を持つ腕の外へ回り、背後の白布へ手を伸ばす。
あと指二本。
襟の後ろをつかまれた。
同時に足首を払われ、ルカの身体が横へ崩れる。右手を床につかぬよう左肘から受け身を取り、そのまま白線の外まで転がった。
「そこまで」
仰向けのルカを、カシアンが見下ろしていた。
「炎だけじゃないのか」
「接近された時の基礎だ。その速さなら使う」
差し出された手を取り、起き上がる。背中の防熱具から焦げた油の匂いがした。
マレクは白布と床の火跡を確かめた。
「カシアン。火の接触は規定内。フェルドは白布まで指二本。攻めとしては失敗だ」
「はい」
「ただし初動と潜り込みは使える。棒を囮にした後で拾いに戻らなかった判断もいい」
負けた。それでも芯皿の前とは違った。
足を低く畳むのが遅れた。肩を当てる直前にカシアンが杖を持ち替える可能性を読めなかった。最後は白布だけを見て、空いた襟を渡した。
直せる。
「もう一度やらせてください」
「組を回す。最後尾へ並べ」
マレクに返し、ルカは訓練棒を拾った。右手を使わずに土埃を払う。列の最後へ向かいかけたところで、カシアンが前へ立った。
「二度目も同じ方法か」
「同じにはしない。次は杖の持ち替えを見る」
「その次は」
「火線を引かれる前に入る」
「発火訓練は」
ルカの返事が止まった。
屋内の石机が頭に浮かぶ。黒い芯。冷たい銅板。どこを直せばいいかも分からない五回の失敗。
「マレク教官が条件を変えるって言っていた。明日やる」
「明日だけか」
「何が言いたい」
カシアンはルカの左手を見た。訓練棒は痛みもなく握れている。
「動きは有効だ。火術師へ入る判断も速い。救助現場なら、その技術で助かる者もいる」
褒められているはずなのに、言葉の先が喉へ刺さった。
「なら伸ばせばいい」
「伸ばすべきだ。ただ、棒を取ってから肩の力が抜けた」
「勝ち方が見えたからだ」
「火を使わずに済む勝ち方だからだ」
ルカは棒を握り込んだ。包帯を巻いた右手より、左の掌が痛んだ。
「魔力がないんだ。出ないものに時間を使って動ける方まで鈍らせるのか」
「それなら志望欄を変えればいい」
カシアンの声は平らだった。
「救難実働科だけを目指し、火術は使わないと決める。その選択なら筋は通る」
「俺は炎術を諦めるなんて言ってない」
「口では」
カシアンがそこで切った。
屋外の標的へ、別の生徒が炎を放った。乾いた破裂音が二人の間へ届く。
「失敗の理由も直し方も分からない。だが、棒を持った途端に動きが軽くなった。それで発火は明日だと言った。私は、それを逃げていると言った」
「お前に何が分かる」
「出せる私には分からない部分もある」
カシアンは視線を外さなかった。
「逃げている動きは分かる。私も不利な相手には、得意な距離だけを選びたくなる」
列の前が空いた。次の組へ進むよう、マレクが手で示している。
ルカは白線へ戻った。
訓練棒を構える。相手の足、杖先、白布までの距離。見るものはいくつもあった。それでも今度は、小部屋に残した黒い芯が視界の端から消えなかった。
「始め」
相手が詠唱へ入る。
ルカは踏み込んだ。
勝つための足は前へ出た。胸の奥には、直し方の分からない失敗が残ったままだった。




