火花一つ
翌朝、ルカの前を炎が横切った。
赤い帯は訓練場の中央まで伸び、走っていた獣形標的を包む。四本脚の鉄枠が火の中で倒れた。
直後、腹に固定された白布へ火が移る。
「消火」
マレクが杖を払った。炎が空気ごと引き抜かれ、白布から消える。残った焦げ跡は人の顔ほど大きかった。
「標的は停止。要救助者は重度の火傷。失敗だ」
術を放った生徒が杖を下ろす。倒した標的の大きさに上がりかけた歓声も消えた。
属性別戦闘訓練の初日だった。
課題は十秒で白線へ到達する標的を、その手前で止めること。腹の白布に傷や焦げを残せば、標的を倒しても失敗になる。板や油は町の建物を想定しており、燃やした物は次の生徒の番でも配置を戻さない。
敵だけを見ていれば、守る場所から先に崩れていく仕組みだった。
風、地、光の適性を持つ生徒は別の訓練場へ分かれている。属性欄が空白のルカには行き先がなかった。それでも入学願書の希望欄へ炎術と書いたため、マレクの火属性班へ入れられた。
できるのは見学と器具の回収だけだ。
ルカは倒れた獣形標的へ近づいた。鉄の胴から四本の脚が伸び、その関節を赤い駆動紐がつないでいる。腹側の白布は救助を待つ人間の代わりだった。
鉄枠の周囲には、乾いた木の板が迷路のように立っている。床へ浅く張られた油。吊り下げられた布。炎が広がれば、標的を止めても助けるものまで焼く。
ルカは鉤棒で熱い脚を起こした。訓練係員が新しい白布を腹へ固定する。
「火力を落とせばいいのか?」
後ろにいた生徒が仲間へ聞いた。
「あれなら走って蹴った方が早い」
ルカも同じことを考えた。
標的は人が走るより少し遅い。横から入って前脚を払えば倒せる。白布にも火は移らない。
「フェルド」
マレクの声が飛んだ。
「今どこを見ていた」
「前脚です。外から払えば倒せます」
「やってみろ」
周りの生徒が道を空けた。
ルカは開始位置へ立つ。救助帯と鉤縄は外し、短い訓練棒だけを持った。標的の腹には新しい白布が巻かれている。
「始動」
係員が床のレバーを引いた。
獣形標的が走り出す。鉄の足先が石床を叩き、迷路の板の間を抜けてくる。
ルカは右へ回った。
標的の肩が最初の板を押し倒す。進路が半歩ずれた。前脚を狙っていた訓練棒が鉄枠へ当たり、手の中で跳ねる。
すぐに踏み直し、後脚へ棒を差し込む。
標的は倒れなかった。
巻かれた動力が脚を前へ押し続ける。棒ごとルカの身体が引かれた。白線まで二歩。
「離れろ!」
マレクの声に従い、棒から手を放す。
標的は白線を越え、終端の砂袋へ突っ込んで止まった。腹の白布は無傷だった。
「要救助者は守った。脅威は制限線を突破。失敗だ」
ルカは転がった訓練棒を拾った。
右の掌が痺れている。鉄枠へ当たった衝撃を受け流せず、親指の付け根だけが赤くなっていた。真正面から力をぶつければ、次は棒を握れなくなる。
見えていた前脚を払うだけでは止まらない。鉄枠の重さに加え、内部の巻き胴が脚を動かし続けていた。
「次。ローデル」
カシアンが列から出た。
整えられた銅褐色の髪も、立てた杖の角度も乱れていない。ルカの横を通る時、倒れた板と床の油を一度ずつ見た。
「板は戻さないのですか」
カシアンがマレクへ尋ねる。
「これが今の現場だ」
「分かりました」
カシアンは開始位置へ立った。
板が一本倒れたため、標的が通る幅は狭くなっている。床の油には、最初の炎が残した黒い煤が浮いていた。
「始動」
標的が走る。
カシアンはすぐに杖を振らなかった。
鉄の足音を四つ聞き、倒れた板の手前で初めて杖先を下げる。細い火が床を走った。
炎は油を避け、板の影へ入る。
見失ったと思った次の瞬間、標的の右後脚で赤い駆動紐が切れた。
鉄枠が傾く。
左前脚に二本目。右前脚に三本目。
脚を動かす巻き胴は回っていた。それでも力を伝える紐が切れ、標的は腹を床へつけた。勢いで半歩滑り、白線の前で止まる。
腹の白布は揺れていた。
焦げ跡はない。
カシアンが杖を下ろすと、三か所の火も同時に消えた。燃えたのは赤い紐だけだった。
「脅威停止。延焼なし」
マレクが白布を外し、裏側まで確認した。
「合格だ」
見ていた生徒たちがざわつく。
最初の生徒が放った炎よりずっと小さかった。標的の鉄枠は熱を持っているが、板も油も白布もそのまま残っている。
「フェルド。回収」
ルカは鉤棒を持って標的へ向かった。
「右前脚は触るな」
カシアンが言った。
「まだ熱い」
ルカは鉤棒を左側へ回した。鉄枠を起こし、係員が脚の紐を交換できる位置まで引く。
「どうやって板の裏を狙った?」
「床と板の隙間が指一本分あった」
「見えてたのか」
「始まる前に見た」
カシアンは倒れた板を立て直した。下端には石床と擦れた跡があり、確かに細い隙間がある。
「炎を床へ沿わせて隙間へ通した。紐の位置は、君の番で標的が倒れなかった時に見えた」
「俺の失敗を使ったのか」
「使えるものを捨てる理由があるか?」
カシアンは赤い駆動紐を一本拾った。切り口の周囲だけが黒い。
「どうして後脚から?」
「前脚を先に落とすと腹から倒れる。白布が床へ挟まる」
ルカは止まった標的を見た。右後脚が先に崩れたため、鉄枠は肩から傾いている。白布の巻かれた腹には隙間が残っていた。
速く倒すだけなら前脚でいい。
カシアンは、倒れた後に白布がどこへ行くかまで選んでいた。
「火力を抑えたのは、白布のためか」
「布だけじゃない」
カシアンは床の油を杖先で示した。
「これに着けば訓練場の半分が燃える。消火する間も標的は動く」
「だから紐だけを」
「燃やす場所を決められない炎なら、現場では火災が一つ増える」
嫌味を言う時と同じ端正な声だった。だが今は、焦げた白布が近くの箱へ捨てられている。
カシアンが魔力ゼロの自分を現場へ出すべきでないと言った理由が、少し違って見えた。
使えない者を笑っていたのだと思っていた。
彼は、止めた後に何が残るかを見ている。
訓練係員が新しい駆動紐を結び終えた。次の生徒が開始位置へ入る。
カシアンは列へ戻る前に、ルカの持つ訓練棒を見た。
「君の入り方は悪くなかった」
「止められなかった」
「だから次は動力を見ろ。足だけ追っても同じだ」
認めた後に欠点を言う。順番も声も変えなかった。
「覚えておく」
「明日までに使えればな」
カシアンは列へ戻った。
午前の訓練が終わると、他の生徒は焦げた袖や杖の煤を払いながら引き上げた。ルカだけがマレクに呼び止められた。
訓練台の上へ、練習用の杖と小さな芯皿が置かれる。
「明日からお前も発火訓練へ入る。最初はこれだけだ」
浅い鉄皿に、油を含んだ黒い芯が立っていた。
翌朝、ルカは同じ皿の前へ座った。
火術訓練場の端にある小部屋で、外の号令と炎の弾ける音だけが耐火壁を通ってくる。昨日、鉄獣を殴った右手には薄い包帯が巻かれていた。
「術式を言え」
「体内の魔力を杖先へ導く。熱への変換式を組んで芯の一点を指定。詠唱で閉じます」
「順番は正しい。やれ」
杖先を芯から指一本分だけ離す。
胸から杖へ。杖から熱へ。熱を芯へ。教本で覚えた線を頭の中に引いた。
「灯火よ。指す先に生まれよ」
芯は黒いままだった。
煙も熱もない。杖先には朝の冷たさが残っている。
マレクは皿を引き寄せ、指先で小さな火を立てた。油が燃えるのを確かめ、すぐ蓋をかぶせる。次にルカの杖を取り、赤い火花を石机へ飛ばした。
「芯も杖も通る。カシアン、入れ」
戸口に現れたカシアンは、ルカの詠唱と構えを横から見た。二度目も芯は変わらない。
「発音も術式の閉じも正確です。杖先に半指のぶれがありますが、この結果の原因にはならない」
カシアンが自分の杖を差し出した。銀の輪が三つ刻まれた、使い込まれた細身の杖だ。
握りを替え、狙いを芯の上端へ絞る。それでも銀の輪は光らなかった。
カシアンが受け取り、同じ位置へ向ける。
火花が弾けた。橙色の炎が芯へ宿る。
その瞬間、ルカの胸の奥にも熱が走った。悔しさだと思った。カシアンが火を消す頃には、もう消えていた。
マレクは耐火石へ発火式の途中までを描き、石筆を渡した。ルカが導線を閉じると、式の一角を書き換える。
「このまま使えば?」
「熱量の上限と下限が逆です。火花で終わるか、芯皿ごと焼けます」
次に出されたのは、術式を刻んだ旧式発火板だった。詠唱も杖も要らない。掌から魔力を渡せば、中央の黒石が赤くなる。
マレクが触れると、黒石の周囲で空気が揺れた。
ルカが右手を置く。
冷たい。
左手へ替えても、板は同じだった。
「理解、詠唱、道具。既知の原因はどれも当たらん」
マレクは発火板を棚へ戻した。
間違いがあれば直せる。足の位置なら踏み直せる。発音なら舌が覚えるまで繰り返せる。
正しいと言われるほど、どこへ手を伸ばせばいいのか分からなくなった。
「もう一回」
「右手を見ろ」
包帯の下に赤みが戻っていた。火を出そうとするたび、杖だけを強く握っていたらしい。
「今日は終わりだ。次は条件を変える」
外では、次の標的へ赤い火が走っていた。
ルカは壁際の武器掛けから短い訓練棒を抜く。こちらなら失敗の理由が見える。昨日より半歩内側へ入り、鉄枠に負けない角度で打てばいい。
「次は対人の制止訓練だ」
背後からカシアンが言った。
「ちょうどいい。体なら動く」
ルカは棒を肩へ担いだ。
石机の芯は、まだ黒いままだった。




