救助士の息子
赤夜から十年目の春、ルカの名が書かれた受験票が届いた。
夜空まで赤く染めた大火災を、世間では赤夜と呼んでいる。公式には地下魔力脈の突発的な暴走。王都の一画を焼き、多くの死傷者を出した災害として、学院の教本にも載っていた。
ルカにとっては、六歳より前の記憶を曖昧にした夜であり、ガレスに拾われた夜だった。
王立アルヴェナ魔導救難学院の受験票は、十二日前から工房の壁に留めてある。試験は王都で三日間。合格すれば全寮制の学院へ入り、四年間の訓練を受ける。
出発日の欄には、今日の日付があった。
受験票の隣には、古い金属章が掛かっている。翼ではなく、二本の腕で灯火を囲んだ救助士章。縁は潰れ、裏面にはガレス・フェルドの名が刻まれていた。
ガレスは赤夜以前、王国の災害救助士だった。あの夜に右脚を壊して前線を退き、今は町の工房で救助器具を修理しながら、避難訓練を教えている。
救助帯の留め金が、また一つ増えていた。
ルカは作業台の上からそれを持ち上げた。革は黒ずみ、縁には細かなひびがある。腰へ回してみると、見た目より重い。金具だけでなく、革の内側にも薄い鋼板が縫い込まれていた。
「勝手に触るな。まだ油が乾いてない」
背後からガレスの声がした。
「俺の荷物に入ってた」
「なら、お前のだ」
「どっちだよ」
答えの代わりに杖の先が床を叩いた。
ガレスは朝から機嫌が悪かった。もっとも、右脚の痛む日はいつも似た顔をしている。昨日から降り続いた雨のせいで、今日は作業台までの六歩にも普段の倍はかかっていた。
ルカは救助帯を腰へ巻いた。留め金を一段締める。
「少し大きい」
「飯を食え」
「そういう問題か?」
「学院で四年も食わせてもらえば合う」
合格すれば、という部分をガレスは言わなかった。
ルカも口にしない。
工房の壁には、修理を待つ道具が並んでいた。折れた担架の脚、弁の詰まった呼吸具、刃先の潰れた救助斧。窓辺には、魔力を流さなければ点かない古い加熱器が置かれている。
その横で湯を沸かしているのは、薪の小さなストーブだった。
ガレス一人なら、加熱器を使える。
薪を割り、灰を掻き出し、毎朝火を起こすようになったのは、ルカが台所を任されてからだ。
炎術師を目指す人間が、火打石で朝食を作っている。
以前は少し情けなく思った。今では、湿った薪を選ばなければ何でもいい。
学院へ行きたい理由は、炎だけではなかった。
前年の冬、町外れの倉庫で火災が起きた。ルカは近くにいた作業員を運び出したが、救助線の内側へ戻ろうとして制止された。資格のない者を入れれば、救助対象が一人増える。止めた救助士の判断は正しく、ガレスも同じことを言った。
正しいからこそ、悔しかった。
ガレスから縄の結び方も、崩れる床の見分け方も、負傷者の運び方も教わった。それでも正式な災害現場で救助に加わるには、知識だけでなく訓練と資格がいる。
王立学院は、国家救助士の資格へ続く道だった。
「鉤縄は」
ガレスが尋ねた。
「鞄の右」
「楔」
「三本。鉄が二本、木が一本」
「包帯」
「上蓋」
「金」
「内ポケット」
「帰りの分は分けたか」
ルカは荷造りの手を止めた。
「縁起が悪くないか」
「落ちた上に歩いて帰る方が悪い」
ガレスが革張りの椅子へ腰を下ろす。右脚を伸ばす際、眉間の皺が一本だけ深くなった。
ルカはそれを見なかったことにした。見ていると気づかれれば、余計な仕事を言いつけられる。
窓の外はまだ薄暗い。軒から落ちる雨粒が、工房前の水桶を叩いていた。始発の魔導鉄道が出るまで一時間。駅までは歩いて二十分。雨なら、もう少しかかる。
「本当に王都まで来なくていいのか」
「試験を受けるのはお前だ。俺が隣で答えるのか」
「駅までなら」
「町中に荷車で見送られる趣味はない。それに三日も工房を空けたら、戻った時には壊れた道具で戸が開かなくなる」
ガレスは作業台へ手を伸ばし、救助帯の金具を指先で押した。留め方を確認している。
「きついか」
「動ける」
「痛いかどうかを聞いた」
ルカは一度屈み、腰を捻った。脇腹へ金具が当たる。
「少し」
「なら緩めろ。痛みを我慢して得するのは、道具を売る奴だけだ」
留め金を一段戻すと、呼吸が楽になった。
ガレスは満足したとも言わず、今度は鞄を引き寄せた。中身を勝手に調べ、底から二枚の布を取り出す。一枚は防火布。もう一枚は、古い赤布だった。
色は褪せ、端が焼け落ちている。
ルカはその布を知っていた。
赤夜の晩、腕へ巻かれていたものだと聞かされている。自分では覚えていない。夢の中で赤いものを見ることはあるが、それが布なのか、空なのか、炎なのかは朝になると分からなくなった。
「それも持っていくのか」
「いらん」
ガレスは赤布だけを作業台へ戻し、防火布を鞄へ押し込んだ。
「だったら、なんで出した」
「入ってたからだ」
「俺の荷物に?」
「なら、お前のだな」
同じやり取りを返され、ルカは口を閉じた。
ガレスはこういう時だけ手強い。
工房の戸が三度鳴った。
開けると、向かいのパン屋の主人が紙袋を差し出してきた。焼きたての丸パンと、塩漬け肉の匂いがする。
「列車で食え。王都の飯は高いぞ」
「代金は」
「昨日、うちの煙突を直した分だ」
「あれは屋根から縄を下ろしただけだ」
「屋根へ上がれない奴には、それが仕事になる」
主人はルカの後ろを覗いた。
「ちゃんと見送れよ、ガレス」
「今、見てる」
「そういう意味じゃない」
ガレスは片手を上げて追い払った。
主人が笑いながら店へ戻る。向かいの窓には、その妻と二人の子供が並んでいた。下の子が両手を大きく振っている。
ルカは小さく振り返した。
できれば、誰にも知られずに出たかった。
合格するかも分からない試験だ。盛大に送り出された後で、数日もせず戻ってくることになれば、どんな顔をすればいい。
けれど町は狭い。ガレスの工房で育った、魔法の使えない子供が王立学院を受ける。その話を知らない家の方が少なかった。
「行ってくる」
鞄を背負う。
ガレスは座ったまま、ルカの腰を見た。
「その帯はな」
ルカも救助帯へ目を落とした。
「赤夜で使ってたやつだろ」
「俺が使ってた。お前を穴から引っ張り上げた時にもな」
初めて聞いた。
ルカは留め金へ指を置いた。新しく磨かれた部分と、熱で黒く変色した部分が同じ金具に残っている。
「そんなもの、持っていっていいのか」
「飾っておくよりはましだ」
ガレスは杖を手に取った。立ち上がろうとするのを見て、ルカは反射的に一歩戻った。
「座ってていい」
「戸くらい自分で閉める」
「俺が閉める」
「お前は外から閉めろ」
結局、ガレスは立った。
右脚を庇いながら戸口まで来る。庇の下で雨音を聞き、空を見上げた。雲は低いが、東だけが明るくなり始めている。
「学院には、お前を入れる義理はない」
ガレスが言った。
「分かってる」
「炎を出せるようになるためだけに行くなら、やめておけ」
ルカはガレスを見た。
「出発する日に言うか、それ」
「十二日前から考える時間をやった」
受験票が届いてから、ガレスは一度も志望理由を尋ねなかった。書類へ書いた文章なら読んでいる。わざわざ今聞くのは、同じ答えが口から出るか確かめたいのだろう。
「炎は使えるようになりたい。使えたら、助けに行ける場所は増える」
ガレスは黙っている。
「でも、炎だけなら学院じゃなくてもいい。俺が欲しいのは救助士の資格と、現場で仲間を危険にしないための訓練だ。救助線の外から見ているだけじゃなくて、中へ入る役目を任されたい」
「俺の代わりか」
「違う」
答えてからでは遅かった。ガレスの片眉が上がる。
「いや、違わないところもある。でも代わりになるんじゃない。教わったことを、町の手伝いで終わらせたくない。俺が救助士になる」
雨垂れが水桶を叩いた。
ガレスは少しの間、ルカの救助帯を見ていた。
「なら、資格を取る前に死ぬな」
「そのつもりだ」
「魔力がないと判断されても、測定器を殴るな」
「殴ったことないだろ」
「俺はある」
「あるのかよ」
「修理代が高かった」
初めて聞く話ばかりだった。
ガレスは戸枠にもたれた。笑ってはいない。けれど目元の皺は、脚が痛む時のものとは少し違った。
「使えないものを、使えると言い張るな。使えるものまで見失う」
ルカは返事を急がなかった。
赤夜で何があったのか覚えていなくても、炎の中から自分を連れ出した男の背中は見てきた。火災が起きるたび、ガレスは動かない右脚を引きずって現場へ向かった。前線へ入れなくなってからも、道具を直し、避難路を調べ、若い救助士へ怒鳴っていた。
ルカが欲しいのは、その背中を眺めるだけの場所ではなかった。
「分かってる」
今度は、少し考えてから言った。
ガレスは頷かなかった。
「天井を見ろ」
「いつも見てる」
「床も見ろ」
「見てる」
「人も見ろ」
「それも」
「なら行け。列車が待ちくたびれる」
ルカは雨の中へ出た。
十歩ほど歩いたところで振り返る。
ガレスはまだ戸口にいた。杖を左手に持ち、右手だけを一度上げた。
ルカも同じように返した。
駅へ着いた時には、外套の肩が濡れていた。
王都行きの列車は、白い蒸気を吐いて停車している。車体の下では青い導力線が明滅し、整備士が長い点検棒を差し込んでいた。
改札の機械へ切符を入れる。充填済みの術式が紙面を読み取り、緑の灯りを点けた。
魔力を求められない道具は、ルカにも普通に使える。
三号車の窓側へ座り、鞄を膝へ置く。向かいの席は空いていた。発車鐘が鳴り、連結器が前から順番に音を立てる。
町の屋根が、雨の向こうへ流れていった。
ルカは学院の受験案内を開いた。
魔法理論。魔力操作。身体能力。災害判断。器具運用。協調性。
六つの評価項目のうち、魔力操作だけは努力の仕方すら分からない。
用紙の属性欄は空白のままだった。
列車が速度を上げる。
車輪の音に混じって、低い擦過音がした。
ルカは顔を上げた。
周りの乗客は気にしていない。本を読む者、眠る者、朝食を広げる者。車掌も通路の先で切符を確認している。
もう一度。
今度は足元から、金属を無理に捻った時の振動が伝わった。
救助帯の留め金が、わずかに鳴る。
ルカは受験案内を閉じ、立ち上がった。
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