赤夜の子
床石が、足の裏を突き上げた。
ガレスは膝を折って揺れを逃がした。担いでいた女が背中から滑りかける。右手で腿を抱え直し、左手を壁についた。
次の瞬間、通りの向こうにある二階建ての染工場が、屋根から順に地面へ呑まれていった。石壁が砕け、窓という窓から赤い粉塵が噴き出す。遅れて届いた音に、耳の奥を殴られた。
「地下で二発目だ!」
誰かが叫んだ。
分かっている、と返す暇はなかった。
ガレスは背中の女を路上へ運び、治療班の敷布へ横たえた。光術師が脈を確かめる。女の片腕は肘から先が赤黒く腫れていたが、呼吸はある。
「次」
それだけ告げて立ち上がる。
右を見れば、路地を塞ぐ荷車。左には崩れかけた共同住宅。屋根から落ちた火の粉が、逃げ惑う人々の外套へ降りかかっている。
火は西から来ていた。
そのはずだった。
風向きを示す教会塔の旗は東へたなびいている。それなのに炎は、風へ逆らって石畳の隙間を走っていた。地面の下に細い導火線でも埋めたように、赤い筋が何本も枝分かれしている。
「風術を止めろ!」
ガレスは喉を焼く煙の中で声を張った。
若い救助士が振り返る。
「ですが、煙を――」
「下から燃えてる。風を入れたら路地ごと炉になる。水術は家じゃなく地面を冷やせ。北へ逃がせ!」
若者の顔から迷いが消えた。すぐに伝令へ走る。
それでいい。
返事を待つ時間も、納得させる時間もない。現場では、正しい説明より先に人が死ぬ。
ガレスは煤で湿った布を鼻まで引き上げた。
そこで、泣き声を聞いた。
崩れた染工場の脇。半分潰れた木箱の下から、小さな手が出ている。
駆け寄り、箱を持ち上げようとしてやめた。側板に屋根材が食い込んでいる。このまま引けば、上の瓦礫まで落ちる。
腰の救助帯から短い楔を抜き、箱と石畳の隙間へ打ち込む。できた幅へ肩を入れ、背中で持ち上げた。
「出られるか」
箱の下から這い出してきたのは、五つか六つほどの女の子だった。片方の靴がなく、膝から血を流している。
「歩くな。首に掴まれ」
女の子は返事もせず、ガレスの胸へしがみついた。
その手に、赤い布切れが絡んでいた。
見覚えがあった。
一刻ほど前、一時避難所へ子供たちを運んだ際、目印として腕へ巻いてやった布だ。大人とはぐれた子供には赤。怪我人には白。術師には青。
ガレスは女の子を抱え上げた。
「一人で出てきたのか」
首が横に振られる。
「男の子が……押してくれた」
「どんな子だ」
「黒い髪。ルカって」
奥歯が鳴った。
それを、ガレスは噛み殺した。
一時避難所に使ったのは、染工組合の石造会館だった。木造家屋より火に強く、柱も確認した。地下倉庫へつながる扉は封鎖され、最初の爆発による亀裂もなかった。
だから子供を預けた。
安全だと判断した。
今、その建物は通りの向こうで半分地面に埋まっている。
「この子を北の治療所へ!」
女の子を別の救助士へ渡す。
「ガレス、待て。第三波が来るかもしれない!」
肩を掴まれた。
「中に生存者がいる」
「建物が保たない」
「子供が一人、自力で出口まで来た。通路が残ってる」
「それでも――」
「俺があそこへ入れた」
掴んでいた手が緩んだ。
ガレスの声は平らだった。自分が子供をあそこへ置いた。起きたことだけを口にした。
ガレスは鉤縄を救助帯へ結び、反対側を路上の鉄柱へ回した。
「三十数える。それまでに戻らなければ引け」
「短すぎる」
「建物が待ってくれるなら延ばせ」
返事を聞かず、崩落した会館へ向かった。
正面入口は潰れていた。女の子が出てきた木箱の横に、人ひとり通れる亀裂がある。身を横にし、右肩から滑り込んだ。
外の怒号が遠ざかった。
代わりに聞こえてきたのは、石の割れる音だ。
高い音はまだ持つ。低く擦れる音は危ない。救助士になってから、何度も教えられた。聞き分けられなければ、自分だけでなく助ける相手まで瓦礫の下へ連れていく。
足元へ手斧を差し、床の傾きを確かめながら進む。
避難所だった広間には、椅子も長机も残っていなかった。床ごと地下へ落ちている。穴の底から炎が吹き上がり、天井にぶつかって左右へ分かれていた。
普通の火なら上へ逃げる。
目の前の炎は、一度天井まで登ったあと、壁を伝って下へ戻っていた。
水術の失敗か。地下に魔導燃料があったのか。
考えるのは後だ。
「ルカ!」
返事はない。
腰の縄が二度引かれた。外からの合図だ。残り二十。
ガレスは広間の縁へ伏せ、穴の中を覗いた。崩れた床板の下に、子供の肩ほどの隙間がある。
そこに、小さな指跡がついていた。
煤の上を、出口へ向かって這った跡。
途中で引き返している。
女の子を押し出したあと、少年は自分で戻ったのだ。
「馬鹿野郎」
相手は六歳の子供だ。それでも口から出た。
ガレスは穴へ降りた。左足を石の出っ張りへ置き、右足を床梁へ移す。鉤縄へ体重を預けたところで、頭上から低い音がした。
まずい。
顔を上げるより早く、梁が落ちてきた。
肩で受け流したが、石材の角が右脚を打った。膝から下の感覚が飛ぶ。体が半回転し、背中から穴の底へ落ちた。
肺の空気が全部出た。
立とうとして、右脚が折れた。痛みは少し遅れてきた。脛から腿へ、焼けた杭を押し込まれたように広がっていく。
腰の縄を引く。
反応がない。
見上げると、落ちた梁が縄を壁へ挟んでいた。
残りは、数えるまでもない。
這って進んだ。
床へ触れた手袋が焦げる。地下倉庫にあった染料樽はすべて割れ、中身が石床へ黒くこびりついていた。中央には円形の窪みがあり、その周りだけ石が灰色に変色している。
炎はそこから噴き出していた。
赤い。
芯に近い部分だけ、白い。
その中央に子供がいた。
黒い髪。赤い布を巻いた腕。避難所へ連れてきた時と同じ、煤けた上着。
ルカは窪みの中に座り、自分の両手を見ていた。
その袖を炎が撫でている。
布は燃えない。
皮膚も焦げていない。
「ルカ」
少年が顔を上げた。
ぼんやりした目がガレスを捉えるまで、少し時間がかかった。
「立てるか」
「……分からない」
「足を動かせ」
ルカは言われたとおりに膝を曲げた。右、左。問題ない。
「なら立て。こっちへ来い」
少年は腰を上げた。
同時に、炎が揺れた。
風はない。地下倉庫の入口も塞がれている。それでも炎はルカの動きに遅れて傾き、少年の前から退いた。
一本の細い道ができた。
ガレスは目を擦らなかった。見間違いかどうか確かめる時間が惜しい。
「走れ」
ルカは動かなかった。
窪みの外からガレスの右脚へ目を落としている。
「おじさんは?」
「後から行く」
「歩けないのに?」
面倒なところだけよく見ている。
ガレスは手斧を杖代わりにして立とうとした。右脚へ力を入れた途端、視界の端が黒くなる。膝をつく前に、ルカが腕の下へ潜り込んだ。
六歳の肩で大人を支えられるはずがない。
「先に行け」
「道、分からない」
「来た跡を戻れ」
「燃えてる」
言われて前を見る。
先ほど開いたはずの道へ、炎が戻り始めていた。
ルカが一歩進む。
炎がまた退く。
「……そういうことか」
何がそうなのか、ガレス自身にも分からない。
ルカの細い肩へ腕を回した。体温はある。熱すぎもしない。骨と筋肉の感触も、ただの子供だった。
二人で進む。
ルカが足を出すたび、火はその場所を避けた。
出口へ続く穴の下まで戻ると、挟まっていた縄が動いた。外の救助士たちが、こちらの重みを感じ取ったらしい。
ガレスはルカの救助帯へ縄を結び直した。
「上で引いてもらう。手を離すな」
「おじさんは?」
「俺も行く」
今度は嘘ではなかった。
縄が張り、ルカの体が持ち上がる。
その瞬間、地下の窪みから炎が噴き上がった。
ガレスは少年を庇おうとして腕を伸ばした。
だが火はルカへ届く寸前で二つに割れた。
熱だけがガレスの顔を叩く。
少年は炎の間を、そのまま引き上げられていった。
次に縄が下りてきた時、ガレスの右脚はもう動かなかった。
地上へ引き出されたところで、空が見えた。
夜のはずだった。
雲も、煙も、教会塔も、すべて赤く染まっている。その赤は東西の地平まで続き、薄い炎越しに街全体を見ているようだった。
治療班がガレスを担架へ載せる。
その隣で、毛布に包まれたルカが診察を受けていた。
「火傷がない」
治療術師が少年の腕を何度も確かめている。
「服は焦げているのに、皮膚には一つも……」
ルカはされるがままになっていた。
やがて顔を動かし、担架の上のガレスを見つけた。
「女の子は」
声は掠れていた。
「外へ出した子。生きてる?」
ガレスは答えた。
「ああ。お前が助けた」
ルカの肩から力が抜けた。
笑いはしなかった。泣きもしない。
毛布の端を両手で掴み、確かめるようにもう一度聞いた。
「じゃあ、間に合った?」
「ああ」
今度は迷わず答えた。
「間に合った」
赤い空の下で、ルカは目を閉じた。
面白いと思っていただけたら、ブックマークとフォローで応援していただけると励みになります。




