空を飛ぶ理由
「空から人を助けるなら、もっと要る」
フィオナはそう言ったきり、訓練塔から目を離した。
整備棟を出た四人は、寮へ続く坂道を歩いていた。右手には訓練塔。左手の石壁の向こうには、飛空艇の発着場がある。日中の授業を終えた小型艇が一隻、係留柱へ近づいていた。
艇の下で空の救助籠が揺れている。
横風を受けるたび、籠は発着台の縁へ寄った。甲板の訓練生が綱を引き、艇首を風上へ向け直す。フィオナは歩きながら何度もそちらを見た。
「先に治療棟」
セラが分かれ道で足を止めた。
「俺は行かん」
「右手を痛めた人に決定権はない」
「巻いた本人が言うな」
ダリオは渋い顔でセラについていった。修理を終えた工具鞄は左手に提げている。二人の姿が治療棟の角へ消えると、坂道にはルカとフィオナだけが残った。
発着場から短い笛が鳴る。
「あれは?」
「艇を下げろって合図。風が発着台を越えて落ちてる。あの高さで籠を入れたらぶつける」
答えながら、フィオナは立ち止まった。
飛空艇は浮力嚢の脇にある翼板を閉じ、高度を少し下げた。救助籠の揺れが小さくなる。地上の係員が綱を取り、発着台へ引き寄せた。
「ほら。今なら入る」
籠の底が板張りの台へ触れた。遅れて艇本体が係留柱へ収まる。
フィオナの声には、整備棟を出た時までの疲れがなかった。
「乗ったことがあるのか?」
「荷物扱いなら何度も。操縦席は触らせてもらえなかったけどね」
頭の飛行眼鏡を外し、夕日へかざす。左のレンズには端から中央へ走る細い傷があった。
「それも母さんの?」
「覚えてたんだ」
「列車で聞いた」
「そうだった。あの日はいろいろ壊れすぎてた。何を話したか半分忘れてる」
フィオナは笑い、すぐレンズの傷へ親指を重ねた。
「母さんが最後に乗った艇で使ってたもの。北の採掘島で崖が崩れたんだ。作業員が海側に取り残された」
アステラの浮遊島は海上の気流に支えられている。島と島の間を渡れる道は少ない。吊り橋が落ちれば、飛空艇だけが残る。
「その日は谷から風が吹き上がってた。救助籠を下ろせる操縦士が母さんしかいなかった」
フィオナは飛空艇を見たまま話した。
「七人助けた。戻る途中で翼板が割れて工房の屋根へ突っ込んだ。母さんは左脚を潰した。もう操縦席には座れない」
傷のある眼鏡を頭へ戻す。
「うちの工房でその艇を直したんだ。私は折れた翼板を毎日見てた。直っていくのも見た。母さんの脚だけは戻らなかった」
発着場では訓練生が救助籠を畳んでいた。さっきまで風に振られていた綱が、輪にされて甲板へ収まっていく。
「それでも乗りたいのか」
「それでもって言われると困るな」
声が少しだけ速くなった。
「母さんが怪我したから乗りたいんじゃないよ。七人が帰れたから。崖の上で待つ家族へ生きたまま返せたから」
フィオナは坂道の縁に立ち、発着場へ向けて手を伸ばした。指先に風が集まり、ほどけかけた髪が後ろへ流れる。
「地面を走っても届かない場所がある。橋が落ちる。水が町を割る。それでも上からなら入れる。私はそこへ行ける人になりたい」
風が途切れた。
「家では反対されてる?」
「全員に」
今度は笑わなかった。
「工房を継いで設計をやれって。作る側なら飛空艇を救助へ送れる。帰りを待つ家族も増えないって言われた」
「フィオナは設計が嫌いなのか」
「好きだよ」
返事が早かった。
「だから余計に揉める。図面も引ける。翼板の癖も分かる。母さんはそれで十分に人を助けられるって言う」
「それでも操縦を選んだ」
「選びたい。まだ一年だし航空救難科へ進めるとも決まってないけど」
フィオナは靴先で小石を坂の下へ転がした。
「母さんの真似だって思われてる。怪我したことへの意地だって。私が何を言っても話はあの日へ戻る」
ルカには返す言葉がすぐに出なかった。
ガレスは学院行きを止めなかった。魔力のない自分が救助士を目指せば、危険が増えると分かっていたはずだ。それでも救助帯を直し、鉤縄を持たせてくれた。
「眼鏡は誰が荷物へ入れた?」
「え?」
「家から持ってきたんだろ」
フィオナが頭へ手をやった。
「母さん。出発の朝にね。本人はもう使わないからって」
「なら全部を止めたいわけでもなさそうだ」
「どうかな。これを渡したら満足して帰ってくると思ってるかも」
「フィオナも分かってない?」
「分かんないよ。家族って面倒」
そこでようやく、いつもの調子が少し戻った。
二人は坂道をまた歩き始めた。寮へ向かう生徒たちに抜かれ、食堂の方から煮込みの匂いが流れてくる。
「ルカは?」
「何が」
「救助士になりたい理由。お父さんが救助士だったからってだけ?」
問い返され、ルカは腰の救助帯へ触れた。昨日まで浮いていた留め鋲は、指で押しても動かない。
「去年の冬に町で倉庫が燃えた」
近くにいた作業員を一人運び出した。その後でもう一度倉庫へ戻ろうとして、到着した救助士に止められた。
「資格のない人間が入れば救助対象が増える。その人の判断は正しかった」
「納得した?」
「した。だけど救助線の内側にはまだ人がいたかもしれない」
結局、奥に人はいなかった。鎮火後にそう聞いた。それで何も残らなかったかと問われれば、違う。
誰かがいた時も、自分は線の外から見ているしかない。
「次は中へ入れるようになりたかった。父さんみたいに」
「やっぱり同じだ」
「何が?」
「親が行った場所に、自分も行こうとしてる」
フィオナがルカの救助帯を指した。
「私も母さんの操縦席。ルカもお父さんの救助線の内側」
「そうかもしれない」
「こっちは否定してほしかったんだけど」
「違う理由もある」
ルカは西の空を見た。沈みかけた太陽が雲の底を染め、赤い光が学院の窓へ重なっている。
たまに夢で見る色に似ていた。
「赤夜の時に父さんが俺を火の中から連れ出した」
「覚えてるの?」
「ほとんど覚えてない」
言葉がそこで止まった。覚えていると言い切るには、残っているものが少なすぎる。
「音だけはある」
「どんな?」
「何かが燃えてる音。近い。すぐ横にあるくらい。でも熱かった記憶がない」
フィオナの足が遅くなった。
「火傷しなかったんだよね」
「うん。父さんは運がよかったと言ってた」
空が赤い。木材が割れる音がする。誰かに呼ばれた気もする。そこから先を追おうとすると、朝に見た夢とガレスから聞いた話が混ざった。
「俺が覚えてるのかあとから想像したのか分からない」
フィオナはすぐには答えなかった。慰めも理由づけもせず、隣を歩いている。
「怖くない?」
「火が?」
「思い出すこと」
ルカは考えた。
「怖い。何を忘れたのかも分からないから」
それを口にしたのは初めてだった。
「でも父さんが助けに来たことは分かる。俺も誰かにとって来たと分かる人になりたい」
フィオナは飛行眼鏡へ触れた。傷のあるレンズ越しに、西の空を見る。
「それなら私が上から見つける。ルカは中へ入って」
「また俺が先に決めたら止めてくれ」
「止める。必要なら風で転ばせる」
「それは先に言ってくれ」
「今言った」
寮と食堂の分かれ道まで来た。
フィオナは女子寮の方へ二歩進み、思い出したように振り返った。
「次の救助訓練、今度こそ二体とも運ぼう」
「うん。四人で」
発着場から、係留を終えた合図の笛が鳴った。
フィオナは片手を上げて歩き出す。傷のある飛行眼鏡は、そのまま頭に載っていた。




