補助科目
翌日の放課後、ルカが第五整備棟の引き戸を開けると、油と鉄粉の匂いが制服へまとわりついた。
天井の高い建物だった。壁際の棚には担架や呼吸具が並び、中央には訓練塔で使う昇降器が据えられている。二本の支柱に挟まれた台が、床から腰ほどの高さで止まっていた。
先に来ていたダリオは、その下へ仰向けに潜っている。工具鞄は作業台に置かれ、底板を外されていた。
「遅い」
「まだ開始前だ」
「壊れた物は待たん」
覗いていた顔が台の下へ消える。
ルカは昨日のまま救助帯を持ってきていた。腰へ着けず、丸めて腕に掛けている。半分抜けた留め鋲は、押すたびに革の穴から少し戻った。
フィオナとセラも続いて入ってきた。フィオナは棚の最上段に積まれた滑車を見上げ、セラは入口脇の洗浄台へ並ぶ血の落ちていない包帯を見た。
「補習って机に向かうものだと思ってた」
「それなら、少し安心した」
「安心?」
「あなたは昨日から右手を隠しているので」
セラに言われ、ダリオの動きが台の下で止まった。
「動く」
「治ったとは聞いてない」
「聞かれてない」
「じゃあ今、診る」
返事を待たず、セラはしゃがみ込んだ。
奥の作業室から、大柄な男が木箱を抱えて出てきた。前掛けには古い焦げ穴がいくつもあり、白髪交じりの髪には細かな金属屑がついている。
魔導技術担当のボルク・ベルナーだった。
「始めるぞ」
ボルクは木箱を床へ置いた。中身は泥の乾いた搬送帯、歪んだ固定具、留め金の欠けた呼吸具だった。
「セラは布具。フィオナは呼吸具。洗浄して傷を探せ。見た目がきれいでも穴があれば捨てる。迷った物は俺を呼べ」
二人が木箱を挟んで座る。
「ベルクとフェルドは昇降器だ。手回しで三十センチ上げろ。下ろして床へ揃えろ。それができたら帰っていい」
ルカは途中で止まった台を見た。
「故障箇所は」
「見つけるところから補習だ」
ボルクはそれだけ告げると、二人の間から手回し棒を抜き取った。柄が曲がり、握りの木には亀裂が入っている。
「昨日これで無理に巻いた奴がいる。次に同じことをしたら手首を折るぞ」
ダリオが台の下から出てきた。右手首にはセラが細い固定布を巻いている。
「俺はやってない」
「お前の話はしていない。使う前に止まれと言ってる」
ボルクは代わりの手回し棒を作業台へ置き、フィオナたちの方へ行った。
ダリオは支柱を上から下まで見た。次に巻き胴の覆いを外し、歯車へ灯りを当てる。
「右の案内輪がずれてる」
ルカも隣へしゃがんだ。太い鋼索は巻き胴から右の案内輪を通り、昇降台の四隅へ分かれている。案内輪の縁だけが銀色に削れていた。
「鋼索が片側へ寄ったのか」
「たぶんな。軸を戻せば動く」
ダリオが工具へ手を伸ばす。
「先に台を支えた方がいい」
その手が止まった。
「理由は」
「軸を緩めたら右の鋼索も緩む。台が傾く」
ダリオは昇降台の下を覗き、四本の鋼索を順に指で弾いた。右奥だけ、返る音が低い。
「分かってるじゃないか」
「家で似た巻き上げ機を直してた。父さんが脚を悪くしてるから、重い物は天井の滑車で上げる」
「救助士の父親か」
「今は器具修理をしてる」
ダリオは小槌の柄で床を二度叩いた。
「なら支え方を決めろ」
昨日なら命令だと感じたかもしれない。今は昇降台の重さを預けられたのだと分かった。
台の下には作業用の穴が二つある。ルカは救助帯から鉤縄を外し、近くの支柱へ回した。縄を穴へ通して台を吊ろうとすると、ダリオが首を振る。
「その支柱は案内輪と同じ枠だ。一緒に歪む」
ルカは手を止めた。
「どこなら持つ?」
「奥の梁だ。俺が確かめる」
ダリオが床へ掌を当てる。黄土色の筋が基礎を走り、昇降器の奥に立つ太い梁で止まった。
「そこへ掛けろ」
ルカは鉤縄を伸ばした。梁へ小鉤を回し、台の穴を通して折り返す。結び目を作る前にダリオを見る。
「台の左も取る。片方だけじゃ傾く」
「そうしろ」
返事は短かった。
二本の縄で台の重さを梁へ移す。結び目を締めるほど、右奥の鋼索から張りが抜けていった。
ルカが縄を握ったまま台へ肩を当てる。
「抜けるか」
「まだだ」
ダリオは案内輪の留め板を外した。歪んだ軸をつまみ、眉を寄せる。
「ずれただけじゃない。軸受けが割れてる」
輪の中心から、半月形の金属片が落ちた。
交換部品の棚を探したが、同じ大きさの軸受けは空だった。ダリオは隣の箱から一回り太い物を取り出し、元の穴へ当てる。入らない。
「削るのか?」
「削ったら薄くなる。穴を広げる」
「枠まで削れないか」
「俺が金属を曲げる。外側へ少しだけ逃がす」
ダリオは右手を上げかけ、固定布に気づいて舌打ちした。左手では細かな術式を組みにくいらしい。
ルカは救助帯の鉄楔を取り出した。
「これを穴へ入れて叩けば広げられる」
「丸くならん」
「四方向から少しずつ叩く。最後はやすりで合わせる」
「枠が割れるぞ」
「一度に広げなければ持つ。似た修理をしたことがある」
ダリオは楔と穴を見比べた。
「失敗したら昇降器ごと補習が増える」
「先にベルナー先生へ訊こう」
ルカが立ち上がると、ダリオは一瞬だけ黙った。
「……それでいい」
ボルクは呼ばれて来ると、楔を受け取って先端を確かめた。
「枠の厚みは測ったか」
「まだです」
「測れ。残りが指の爪より薄くなるなら交換だ」
許可も却下もせず、ボルクは二人の手元へ測定具を置いた。
厚みは足りた。
ダリオが楔の角度を決め、ルカが小槌を振るった。一度叩くたびに軸受けを当てる。右、左、上、下。鉄の音が整備棟へ響いた。
「強すぎる」
「入らない」
「あと髪一本分だ。焦るな」
ルカは小槌を持ち直した。今度は手首だけで当てる。
軸受けが半分まで入った。
ダリオがやすりで内側を整え、最後は木片を当てて押し込む。案内輪を戻すと、鋼索は削れた縁から離れて中央へ収まった。
「縄を外すぞ」
「待て。先に手回しを一目盛り」
ダリオが左手で棒を押す。巻き胴が動き、四本の鋼索へ均等に張りが戻った。
「今だ」
ルカは結び目を緩めた。
二人で棒を回す。昇降台が床を離れた。十センチ。二十センチ。三十センチ。
途中で引っ掛かる音はしなかった。
下ろす時、ダリオは巻き胴の横にある歯止めへ指を掛けた。
「ここを見ろ。動力が切れても、この爪が一段ずつ受ける。急に落ちたら棒を回すな。爪へ楔を入れて荷重を逃がす」
ルカは鉄楔を歯止めへ当てた。昨日は壁を外すために使った道具が、今は落下を止める位置へ収まる。
「覚えた」
「一回で覚えた顔をするな。次はお前がやれ」
昇降台は床へ真っすぐ戻った。
ボルクが砂袋を二つ載せ、手回し棒を動かす。台は同じ高さを保ったまま上がり、歯止めも一段ごとに掛かった。
「合格だ。片づけろ」
それだけ言って、ボルクは次の器具へ向かった。
フィオナは呼吸具の管を光へ透かし、針ほどの穴を三つ見つけていた。セラの前には、使える搬送帯と廃棄する帯が別々に積まれている。
「そっちは終わった?」
「今」
「こっちは穴だらけ。見た目だけなら全部使えそうなのに」
フィオナが管を指に巻く。声は明るかったが、捨てる箱へ入れる時だけ手つきが慎重になった。
ダリオは作業台に置かれたルカの救助帯を取った。抜けかけた留め鋲を外し、革の穴へ新しい金具を通す。
「代金は?」
「補習の余りだ」
「工具鞄の底も直すんだろ」
「お前の帯より先にな」
口ではそう言いながら、ダリオは鋲を打ち込んだ。二度引いて確かめ、ルカへ投げ返す。
「これなら引ける」
ルカは留め具へ指を掛けた。昨日まで揺れていた鋲は動かなかった。
「ありがとう」
「礼は次の訓練で働いて返せ」
「分かった」
「返事だけは早いな」
ダリオは工具鞄を裏返した。底板のひびへ金属板を当てる。ルカが反対側から押さえると、追い払われはしなかった。
整備棟を出る頃には、西の空が赤くなっていた。
フィオナは高い訓練塔を見上げた。修理した昇降台が支柱の間に小さく見える。
「地面から上げるだけでも、あれだけ仕掛けがいるんだね」
風が彼女の髪をほどきかけた。フィオナは飛行眼鏡を押さえ、塔の上を流れる雲へ目を移した。
「空から人を助けるなら、もっと要る」
独り言のような声だった。
ルカが訊き返す前に、フィオナは先へ歩き出した。




