正しさでは勝てない
一秒鳴り、五秒黙る。
訓練棟の奥から、二体目の人形が助けを求め続けていた。
ルカは白線のそばに立ったまま、その間隔を数えていた。腕を下ろすと肩が重い。整備溝で鉄格子を支えた指には、まだざらついた錆の感触が残っている。
治療棟へ向かう担架は、もう角を曲がって見えなくなっていた。オスカーの血を吸った防熱布も一緒に運ばれた。助けられた。その事実を、ルカは手放すつもりがなかった。
白線の内側には、一体目の人形だけが横たわっている。
「第八班」
ローウェンが訓練棟を指した。
「残した人形と器具を回収しろ。採点は終わっている。走る必要はない。棟内の仕掛けは動かしたままだ。手順を守れ」
「はい」
返事をしたのはセラだけだった。
ダリオは工具鞄を拾い上げた。手首をかばって持ち替え、正面入口へ歩いていく。フィオナは結び直した髪の隙間から額の汗を拭い、その後を追った。
ルカも鉤縄を救助帯へ戻してから続いた。
入口の上枠には、ダリオが打ち込んだ固定具が残っていた。開始時には真っすぐだった金具が、今はわずかに下へ曲がっている。
ダリオはしゃがみ、工具鞄から小槌を出した。
「先に抜くのか?」
「最後だ。今抜いたら上が落ちる」
短い返事が返る。顔は上枠へ向いたままだった。
四人で入った時と同じ棟なのに、足音だけが増えて聞こえた。仕切り壁の隙間から朝の光が差し、浮いた粉塵を細く照らしている。訓練中にあれほど気になった残り時間は、もうどこにもない。急げと言うものが消えると、取り残した物の多さが目についた。
曲がった添え木。ほどけた搬送帯。棚を退けるため床へ置いたままの鉄棒。
ルカが鉄棒へ手を伸ばすと、ダリオの靴が先にその端を踏んだ。
「拾うのは後だ。人形の場所を確かめる」
「分かった」
「お前もさっきそう言えたはずだろ」
ダリオは靴を退けた。
フィオナが振り返る。セラも足を止めた。人形の声だけが壁の向こうで鳴り、また途切れた。
「何をだ」
「待つって言う。三人に訊く。それだけでよかった」
ダリオは右手首を左手で押さえた。指先には、格子を支えた時についた黒い擦れが残っている。
「俺はオスカーを置いて人形を取りに行けと言ってるんじゃない。あれを見たら助ける。そこは昨日でも十年後でも同じだ」
「うん」
「なら勝手に話を終わらせるな。お前が白線を越えた時にセラの防護もフィオナの探索も消えた。俺一人で何ができる」
ルカは答えを探して、訓練棟の奥を見た。
二体目の位置は、フィオナが聞き分けていた。そこまでの床を支えるのはダリオで、人形の状態を判断するのはセラだ。自分一人なら、見つける前に立ち止まっていた。
「俺とお前で課題を続ける方法は――」
「それを今考えても遅い」
ダリオの声が一段低くなった。
「あの時、考える時間をくれって言ってる」
「ダリオ。私は自分で行ったよ」
フィオナが、頭の飛行眼鏡を押し上げた。いつもの軽さは声に混じらなかった。
「ルカに引っぱられたからじゃない。あの声を先に拾ったのは私。場所が分かるのも私だった」
「私も。出血を見た時点で止血を選んだ。誰に命じられても、あの判断は変えない」
セラは言い切ったあと、光の薄くなった防護札を指で伏せた。
「でも、区域へ入る前に話せたことはあった。私は残りの防護時間を伝えてない。フィオナさんの魔力も、ダリオさんの手首も確認してない」
フィオナが唇を結ぶ。ダリオは二人を見て、ひとつ息を吐いた。
「二人が選んだのは分かってる。俺も結局は助けに行った。けど最初に形を崩したのはこいつだ」
親指がルカへ向けられた。
「お前は自分が点を捨てる覚悟さえあれば足りると思った」
言葉が、鉄棒より重く腹へ落ちた。
白線を越える直前、ルカが考えたのは負傷者の出血と教官が来るまでの時間だった。自分が失格になっても行く。それだけは決めていた。
フィオナが航空救難科へ進むことも、セラが治療防護科を目指していることも知っている。ダリオが工具担当という一語で扱われることを嫌い、魔導技術科で構造を学ぼうとしていることも。
それでもあの瞬間、三人の先まで考えたつもりでいた。
実際には、自分が走れば追ってくる形を作った。
「試験に通らなきゃ、救助士になれない」
ダリオは壁際の鉄棒を拾い、肩に担いだ。
「現場へ行く資格がなきゃ次の負傷者には手も届かない。今日一人助けても、全員で落ちたらそこで終わりだ」
「今日の救助をやめればよかったと思うか?」
「思わん。だから腹が立ってる」
即答だった。
「人も助ける。課題も残さない。そのために四人で組んだ。お前は片方を一人で決めた」
人形の声が鳴った。
今度は誰もすぐに動かなかった。
ルカは三人の顔を順に見た。フィオナは呼吸がまだ浅い。セラの防護札は縁まで色が薄れ、ダリオは鉄棒を右肩へ載せられず左で担いでいる。
「オスカーを見つけたら何度でも助けに行く」
喉が乾いていた。言葉が一度引っかかった。
「でも……失っていいと思ったのは俺の点だけだった。三人の分まで使っていい理由にはならない」
ダリオは返事をしなかった。
「悪かった」
「それで点が戻るか」
「戻らない」
「なら次を変えろ」
そこで話は切れた。
壁の向こうから、同じ声が繰り返される。回収しなければ終われない。
ルカは反射的に進路を口にしかけ、やめた。
「どうする?」
訊くと、ダリオの眉がわずかに動いた。
フィオナが壁へ耳を向ける。目を閉じ、弱い風を板の隙間へ通した。数秒後、右手で奥を示す。
「右の階段下。板が一枚かぶさってる。人形の足はたぶん段差に挟まってる」
「防護はあと二分。それを過ぎたら一度外へ出る」
セラが札を持ち直す。
ダリオは床を小槌の柄で叩き、返る音を二か所で比べた。
「右端は踏むな。俺が先に階段を固定する。フィオナは板を浮かせろ。セラは人形の脚を見る。ルカ」
「搬送する」
「一人で持つな。俺を呼べ」
「手首は」
「左なら使える。そこまで含めて訊け」
四人は歩き出した。
階段下の板は、見た目より重かった。フィオナの風が片側を浮かせ、ルカが隙間へ鉄棒を差し込む。ダリオは曲がった段へ固定具を噛ませ、セラが人形の足首を抜ける角度へ戻した。
「今」
ルカは人形の脇へ腕を入れた。持ち上げる前にダリオを見る。
「左を頼む」
「最初からそう言え」
二人で持ち上げた。
人形の声が止まった。胸の中の仕掛けが揺れ、かちりと乾いた音を立てる。
帰路では、フィオナが先に床を探り、セラが二人の足運びを見た。ダリオは痛む右手を使わず、左肩で重さを受けた。ルカはその歩幅に合わせた。
白線の外へ人形を下ろしても、誰も達成を喜ばなかった。救出扱いにはならない。朝の訓練を終えるための回収だった。
最後に入口の固定具を外すと、上枠が鈍い音を立てて元の傾きへ戻った。
ローウェンが四人を待っていた。
「明日から一週間は放課後に第五整備棟へ来い。器具整備の補習を受けてもらう」
フィオナが汚れた前髪を持ち上げた。
「四人ともですか」
「四人で受けた訓練の結果だ」
ダリオは何も言わず、回収した鉄棒を器具箱へ戻した。次に、ルカの救助帯で半分抜けかけていた留め鋲を見つける。
「それ、明日持ってこい」
指で鋲を押し戻し、すぐ手を離した。
「整備棟で直す。今日みたいに引いたら次は切れる」
ルカが礼を言う前に、ダリオは工具鞄を左手で持って歩き出した。
その背中へ追いつこうとして、ルカは一歩目を止めた。
「ダリオ、その鞄持とうか」
数歩先で、ダリオが振り返る。
「右側を持て。底が抜けかけてる」
二人で持てば、工具鞄は傾かなかった。
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