減点
「誰か……助けて」
声は一度途切れ、咳に変わった。
フィオナが右手を壁へ向ける。細い風が階段下へ入り、板の隙間から戻ってきた。彼女はすぐに首を振る。
「二体目と違う。外。右斜め下」
「第六区画の外か」
ダリオが手順票を見た。割り当て区域の境界は、建物の外壁から五歩先に引かれている。
声が聞こえたのは、その向こうだった。
ルカは来た道へ戻った。棚を越え、左の壁沿いを走る。セラの防護光が背中で細くなり、十二歩を越える前に足を止めた。
「外へ出る。セラ、来てくれ。フィオナは場所を追って」
「待て」
ダリオの声が後ろから飛ぶ。
「課題は階段下だ。声の確認は教官へ上げろ」
「上げる。確認もする」
「区域外へ出たら減点だぞ」
ルカは答えず、正面入口を抜けた。
一体目の添え木を確認していた係員が顔を上げる。
「第六区画の外から、人の声がする」
フィオナが建物の右手を指した。
「整備溝の方。下に一人」
係員は腰の警笛を三度鳴らした。観察路のローウェンが振り向き、別の教官と階段へ走る。二人が下りる先は訓練棟の反対側だった。整備溝へ入る門も、そちらにある。
「第八班は白線内で待機!」
ローウェンの声が屋根越しに届く。
もう一度、咳。
訓練棟の右側には、腰の高さの板塀が続いていた。下部の一枚だけが割れ、土埃の中から青い制服の袖が見えている。指が地面を掻いた。
訓練用の人形は咳をしない。
ルカは白線を越えた。
「ルカ、待て! 先生たちが向かってる」
ダリオは入口に立ち、槌を握ったまま動かなかった。
割れた板の内側で、青い袖がまた地面を掻く。指先から数えて半歩先まで、土が黒く濡れていた。
「待てない。俺は行く」
「お前が出たら、セラの防護もフィオナの探索も外へ出る。二体目はどうする」
セラがルカの横を通り、白線を越えた。
「この出血で待てない」
「場所を見つけたのは私。私も行く」
フィオナが続く。
ダリオだけが入口に残った。
ルカは板塀へ走った。
フィオナが横を抜く。風を割れ目へ送り、砂埃を外へ押し返した。
「頭は奥。足がこっち。声、近い」
セラも続き、板塀の前へ膝をつく。
「聞こえる? 手を握れる?」
土に汚れた指が、彼女の指へ弱く絡んだ。
「右脚が……抜けない」
「名前、言える?」
「オスカー……第二班」
「オスカー、話を続けて。ルカ、板を」
ルカは割れた板の端へ指を掛けた。釘が内側へ曲がっている。引けば、倒れた生徒の肩へ刺さる位置だ。
救助帯から鉤縄を外し、釘の頭へ小鉤を掛ける。縄を手前の支柱へ回して引くと、釘だけが木から浮いた。二本抜き、板を地面へ寝かせる。
整備溝は、人一人が横向きで入れる幅しかなかった。
青い腕章をつけた男子生徒が、肩から下を溝へ落としている。右脚の脛に鉄の格子が載り、格子の端には割れた石板が重なっていた。制服の膝下が濃い色に染まっている。
セラの顔から、教室で使っていた丁寧な間が消えた。
「出血が続いてる。脚を抜く前に圧迫する。フィオナ、布。ルカは格子を動かさないで」
フィオナが自分の袖口へ手を掛ける。
「救助帯の後ろに防熱布がある」
ルカが背を向けると、彼女は折り畳んだ布を引き抜いた。セラは細長く畳み、格子の隙間から傷の上へ回す。
「締める。痛むよ」
男子生徒の指が土を掴んだ。
淡い光がセラの手から布へ染み込む。呼吸のたびに揺れていた肩が、少しずつ狭い動きになった。
ルカは格子の支点を探した。頭側は整備溝の石枠に引っ掛かり、足側は折れた支持金具ごと沈んでいる。真上へ持ち上げれば、石板が胸の方へ滑る。
「先に石板を外す。フィオナ、風で押さえられるか」
「この重さは無理。滑り始めるのを遅くするくらい」
「それでいい。俺が縄を掛ける」
「格子は動かさないでと言った」
セラの声がさらに低くなった。
「石だけだ。格子は動かさない」
ルカは腹ばいになり、男子生徒の肩越しへ腕を伸ばした。狭い。救助帯の留め金が石枠に当たる。息を吐ききって身体を入れ、石板の角へ縄を回した。
外から、金属が土を叩く音がした。
ダリオが測定針を整備溝の縁へ刺している。
「その石を引いたら、格子の足側がもう一段落ちる」
「止められるか」
「下に支えを作る。三十秒」
「二十で」
「構造に値切るな」
ダリオは短柄槌で地面へ楔を打ち込んだ。黄土色の筋が溝の側壁を走り、折れた支持金具の下で固まる。
「今なら石を外せる。格子を上げるのは、その後だ」
フィオナの風が石板の表面を押す。ルカは縄を肩へ回し、地面へ膝を立てた。
「引く」
石板が擦れ、格子の上から外れた。フィオナが横へ押し、男子生徒の胸から遠ざける。ダリオの作った支えは沈まずに残った。
「脚を見る」
セラが布の脇へ指を入れる。
「格子は指二本分だけ。ルカ、私が言うまでそれ以上上げないで」
「分かった」
ルカは格子の端へ両手を入れた。腰を浮かせず、片膝を石枠へ当てる。肩に一体目を運んだ重さが残っていた。腕が震える前に、呼吸を一つ合わせる。
「上げる」
鉄が指へ食い込む。
格子が少し浮いた。
「止めて」
その高さを保つ。フィオナが男子生徒の肩を支え、セラが傷口を押さえたまま脚を引く。靴が格子の下を抜けた。
「下ろして」
ルカは格子を支えへ戻した。肘が土へ落ちる。
観察路側の門が開き、ローウェンと実習教官が担架を持って駆け込んできた。教官は格子と支えを一目見て、ダリオへ手を向ける。
「固定を維持。ハルト先生、頭側を」
ローウェンが溝へ入り、男子生徒の首と肩を支えた。セラが負傷箇所と圧迫時間を伝える。教官の治療光が布の下へ重なった。
ルカたちは指示された順に場所を空けた。
男子生徒が担架で運ばれ、治療棟へ向かう。意識はあり、門を出る前に自分の名前をもう一度答えた。
担架が門を出る頃には、二十分の終了鐘は鳴り終わっていた。
第六区画の前に置かれた人形は一体。二体目の音は、まだ建物の奥から聞こえていた。
「第八班、二体目未搬出。八位だ」
フィオナがローウェンを見上げる。
「本物を助けて最下位って、変じゃない?」
「今日の課題は、二体を二十分以内に運び出すことだ」
ローウェンは治療棟へ向かう担架を見送った。
「オスカーを助けた判断は、別に扱う。第八班が二体目を残した結果も変えない」
「待ってたら、出血してた」
「教官が救助へ向かっていた。君たちが先に入る必要があったかは、まだ決めない。今はオスカーの治療が先だ」
フィオナが何か言い返す前に、ダリオがローウェンから目を離した。
「俺は課題を捨てると決めてない」
ルカは彼を見る。
「助けに来てくれた」
「助ける。人が挟まれてたんだから、そこは迷わん」
ダリオは槌についた土を布で拭った。いつもより強く擦り、布の同じ場所が黒くなる。
「俺が言ってるのは、お前が先に白線を越えたことだ。お前が出れば、セラの防護もフィオナの探索もついていく。俺一人で二体目を出せると思ったのか」
「……悪かった」
「それで点が戻るか」
返せる言葉がなかった。
第六区画の奥から、取り残した救助人形の音が聞こえた。
一秒鳴り、五秒黙る。
終了鐘が鳴っても、その間隔だけは変わらなかった。
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