救助訓練
役割提出用紙へ引いた斜線は、三日後もそのままだった。
訓練場へ向かう朝、ダリオが綴じ板を抱えて歩いている。その一番下に挟まれた用紙から、ルカの欄だけ白く覗いていた。
第三訓練場には、二階建ての家を途中まで押し潰したような建物が八棟並んでいた。石壁は傾き、窓枠から折れた梁が突き出している。屋根の上を渡る鉄製の観察路には、ローウェンと二人の実習教官が立っていた。搬出用の白線脇では、訓練係員が人形を受け取る準備をしている。
割れた壁も、散らばった煉瓦も訓練用に組まれたものだ。それでも入口に渡された梁は、ルカの胴ほど太い。
「倒壊材の重量は本物だ」
ローウェンの声が、並んだ班の間を通った。
「安全術式が支えるのは、即死につながる落下だけ。挟まれれば痛むし、骨も折れる。異常を見つけたら進行を止め、場所を教官へ知らせろ」
各班へ、青い縁取りの防護札が配られる。ルカの手元だけ、札の代わりに機械式呼吸具の筒が一本増えた。
セラが自分の防護札を起動する。淡い光が四人の制服を順に撫で、ルカの胸元で少し濃くなった。
「少し動いて」
ルカは肩を回し、腰を落とす。光は離れずについてきた。
「届いてる。ただ、私から十二歩以上は離れないで」
「分かった」
フィオナが踵からつま先までを大股で十二歩進み、振り返った。
「思ったより短いね」
「その歩幅で測らないで」
「じゃあ十一歩ってことで」
「戻れ」
ダリオが言うと、フィオナは一歩分だけ余計に戻った。
第八班に割り当てられたのは、列の端にある第六区画だった。正面扉は上枠ごと傾き、左側の勝手口には煉瓦が半分まで積もっている。建物の奥から、甲高い救助要請音が二度鳴った。
一定の長さ。同じ間隔。昨日までに教室で聞いた訓練人形の音だ。
ルカは救助帯の鉤縄を確かめた。使うのは必要になってから。楔は右、折り畳んだ防熱布は背中側。何度も見た位置だが、指で触れると呼吸が少し落ち着いた。
開始鐘が鳴る。
「四十秒」
ルカが言うより早く、フィオナが両手を二つの入口へ向けた。
細い風が正面扉の隙間へ吸い込まれ、別の流れが勝手口の煉瓦を撫でる。彼女は目を閉じた。頭の飛行眼鏡がずり落ち、額で止まる。
ダリオは正面扉の前へ膝をつき、床と柱へ一本ずつ測定針を当てた。金属の軸に黄土色の光が走る。
「上枠が右へ落ちる。今は持ってるが、人が触ればずれる」
「勝手口、奥へ抜ける。音は近い。壁一枚か二枚」
「天井材の落下、防護札の破損、出血、床の亀裂、呼びかけへの反応低下。このどれかで止める」
三人の声が重なる。
ルカは勝手口の煉瓦を見た。人一人が通れる高さまで退かすには時間がかかる。正面は梁を支えれば早い。その先の床には、入口から奥へ走る細い割れ目があった。
「正面。ダリオが上枠を固定。入ったら左側を踏む。フィオナは人形の音を追って」
「了解」
「二十七秒だ」
ダリオが短柄槌を抜いた。梁の下へ金属楔を当て、地の魔力を流す。楔の先から灰色の筋が柱へ広がり、傾いていた上枠が低い音を立てて止まった。
ルカの目には危険な木材だったものが、ダリオの手で通れる入口へ変わった。
四人で中へ入る。
窓は板で塞がれ、外の朝日が細い線になって床へ落ちていた。ルカは左足から置く。床板の下で砂が擦れる。右側の亀裂からは、冷たい空気が上がっていた。
「右は下に空洞がある。壁沿いに左」
「風も下へ落ちてる。そっちはなし」
フィオナが指を曲げると、床際の埃が一本の筋になって左へ走った。
廊下の先で、要請音が鳴る。近い。
途中の扉は、倒れた棚に塞がれていた。棚板の向こうに人形の靴が見える。
ルカは棚へ手を掛けた。
「待って」
セラの声が低くなる。
棚の上には、割れた鏡と煉瓦片が載っていた。持ち上げれば、人形の頭側へ滑り落ちる。
「上を押さえる。ダリオ、棚の脚を切れるか」
「片方だけなら。全部切ると倒れる」
「右脚だけ。俺が上を持つ。フィオナは鏡を風で壁へ寄せて」
ルカは棚板へ肩を入れた。重さが背中から膝へ落ちる。フィオナの風が鏡の縁を押し、破片を壁際へ滑らせた。ダリオの槌が一度鳴り、右脚が床から外れる。
「下げるぞ」
三人で棚を斜めに倒す。人形の全身が現れた。
セラがすぐに膝をつき、首、胸、脚の順に触れる。人形の胸に埋め込まれた札は黄色へ変わりかけていた。
「左脚に骨折表示。膝と足首を固定する。上体は動かせる」
ルカは救助帯から添え木を抜いた。セラへ渡そうとして、やめる。彼女の両手は人形の脚を支えている。
留め紐をほどき、添え木へ通してから差し出した。
「これなら片手で巻ける」
セラはルカを見た。
「足首側を持って。位置は私が決める」
二人で固定する間に、また要請音が鳴った。今度はさらに奥。フィオナの顔がそちらへ向く。
「二体目、上かも。音が天井で返ってる」
「先に一体目を出す」
「分かってる。道だけ見てくる」
フィオナが二歩進み、セラの防護光が細く伸びた。
「十一歩まで」
「数えてる」
「ルカからも離れないで」
フィオナの足が止まった。ルカが動けば、彼女の探索距離も変わる。四人の中央にセラを置く必要があった。
「ダリオ、前を持てるか」
「棚はもう動かん。持てる」
ルカとダリオが人形を持ち上げる。骨折表示のある脚をセラが支え、三人で廊下へ出た。フィオナは先行せず、後ろ向きに歩きながら奥へ風を送る。
四人で人形を正面入口まで運び、白線の外へ下ろす。経過時間は九分十二秒。胸部の札は黄色で止まった。
白線脇の係員が人形の胸部と添え木を確かめた。
「損傷なし。続けろ」
ルカは入口へ目を戻した。傾いた上枠にはダリオの楔が残り、通路の埃はフィオナの風に押し退けられている。セラの光がなければ、ルカは入口から十二歩先へ進めない。
ルカが入口へ踏み出すと、セラも防護の距離を保つために動いた。フィオナは二人を待って風を止め、ダリオは最後に楔を抜く。四人がそろうまで、誰も奥へ戻れなかった。
「二体目」
フィオナが踵を返す。
再び建物へ入り、棚を越える。ルカの肩には搬送の重さが残っていた。術式を使った三人にも疲れはある。ダリオは楔を抜く時に二度手首を振り、セラの防護光は最初より薄い。フィオナは呼吸を整えながら、奥へ風を伸ばした。
「上じゃない」
彼女が小さく言う。
「右奥。たぶん階段の下。さっきは天井の板に音を返された」
廊下の突き当たりには、半分落ちた階段があった。下側は板壁で覆われ、入口が見えない。
要請音が鳴る。
一秒。止まる。きっちり五秒後に、また同じ音。
ルカは床へ手を当てた。階段の左は固い。右は一体目の場所から続く空洞が近い。
「左から壁を外す。ダリオ、留め具の位置を――」
かすれた音が、言葉の途中へ入り込んだ。
要請音より低い。壁の奥でも、階段の下でもない。
「今の、聞いた?」
フィオナが振り向く。
訓練人形が、また決まった音を鳴らした。
その後ろ。建物の外、割り当てられた第六区画のさらに向こうから、今度ははっきり声がした。
「誰か……助けて」
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