9話 同居人への想い
奈美子さん、急にボーッとして。どうしてあんな寂しそうな顔をしていたんだろう。
お風呂を待つ間も、頭の中はそればかりだった。
「途中までは、いつも通りだったのに」
温め直している煮物のグツグツという音が、悩みの渦に飲み込まれるみたいに部屋に響いていた。
「もしかして……小次郎がよくなかった? でも、凄い喜んでたしなー」
腕組みをして唸っていると、不意に香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
「ん? わっ、ヤバイ」
慌てて火を止めて鍋を確認すると、底の方が少し茶色く焦げてしまっていた。
「うーん、食べれないことはないけど、どうしよ」
箸でイジイジと触りながら考えていると、バタンと脱衣所のドアが閉まる音がした。
「スン……ちょっと、焦げ臭いですね」
お風呂上がりの奈美子さんは、不思議そうな顔で鼻を鳴らす。
「ごめんなさい、ちょっと焦がしちゃって……やっぱり、何か別の物作りますね!」
笑って誤魔化すと、奈美子さんは驚いた声を上げる。
「えっ? 大丈夫ですよ、ちょっと焦げたくらい。勿体無いし、全然食べれますって」
「でも……」
「せっかく作ってくれたんですから。それに、私もうお腹ペコペコですよ」
奈美子さんは冷蔵庫からビールを取り出し、ソファーに座ると早速開けて飲み始める。
そのいつもと変わらない様子に、ホッとして少し肩の力が抜けた。
「ありがとうございます。じゃあ、食べちゃいましょうか」
申し訳なく思いながら、少し焦げ臭い筑前煮を器によそい持っていくと、奈美子さんは嬉しそうな笑顔を向ける。
「美味しそう!」
そう言って手を合わせると、躊躇いなくひょいと一口放り込んだ。
床に置かれたクッションの上に正座し、俺はドキドキしながら味の感想を待つ。
「苦くないですか?」
「うん! 全然、ビールにもよく合ってサイコー」
「良かった……俺もいただきます」
自分でも一口食べてみたら、焦げた部分が少し苦くて、正直あまり美味しくなかった。
それなのに、奈美子さんはパクパクと美味しそうに頬張っている。
それを見ていたら、何だか気恥ずかしいような、胸の中がほっこり温かくなるような感じがした。
「ふふ……ちょっと、苦いですね」
照れ笑いを浮かべると、奈美子さんは明るい笑顔を返す。
「うーん、少しだけね。でもほら、ゴーヤーだって苦いけど美味しいじゃないですか。それと同じようなものですよ」
よくわからない理論を自信満々に言う姿がおかしくて、思わずクスクスと声を出して笑ってしまった。
でも、奈美子さんの言った通り、食べ始めるとだんだん癖になってきて、気付けば焦げた筑前煮は二人で完食していた。
ごちそうさまと満足そうにお腹をさすりながら、奈美子さんはソファーにもたれ掛かる。
「ふぅ、美味しかったー」
そう呟き、テレビをぼんやりと見つめる奈美子さん。
蒸し返すようで少し気が引けたけれど、どうしても気になったので、思いきってさっきの事を尋ねてみる。
「あ、あの……さっきは、どうしたんすか?」
奈美子さんは不思議そうにこっちを見ると、困ったように顔をしかめてポリポリと頭を掻く。
「……難しいですね。川崎さんを誤魔化すのは」
苦笑いを返す奈美子さんに、俺は少し気まずくなって俯いた。
「ごめんなさいっ……もしかして俺、気に障るような事をしたんじゃないかって、気になって」
不安になって、つい勢いに任せて口走ると、奈美子さんは静かに首を横に振る。
「……違うんです。これは、私のせいだから」
「それは、どういう」
俺はその言葉の意味がわからず首を傾げた。
奈美子さんは少し姿勢を直すと、下を向いてポツポツと話を始める。
「私、弟がいたんですよ。3つ離れてて、人懐っこくて、甘ったれの弟」
過去形の言い方が引っ掛ったけれど、奈美子さんはどこか懐かしむような穏やかな表情だった。
俺は何も言えず、話の続きを静かに待った。
「でも、小学校に上がった頃に難しい病気が見つかって、ずっと入退院を繰り返してたんです。子供だった私は、まだよくわかってなくて……当然すぐに良くなって、また遊べるようになるって思ってた。けど、いつまで経っても病気は治らなくて……母はいつも弟に付きっきりになってた」
「……そんな事が」
可哀想に……そんなありきたりな言葉しか思い浮かばず、俺は何も言えずに俯いた。
「結局、数年後に亡くなったんですけど……その時私、心の中でホッとしてたんですよ」
「え……」
そう言って奈美子さんは肩を竦めて笑う。
その笑顔は何故かとても寂しそうに見えた。
「これでやっとお母さんが家にいてくれるって思って……健が死んだ悲しさよりも、その方が大きかったんです。ほんと……最低な姉ですよ」
「そ、そんなことないですよ!」
自分を責めるように話す奈美子さんに、俺は勢いのままに大声で否定した。
奈美子さんは一瞬目を丸くすると、困ったような笑みを浮かべる。
「……さっきは、健のことを思い出しちゃったんです。その……ちょっと川崎さんの雰囲気が似てたから」
「そ、そうだったんですね」
恥ずかしそうに笑う奈美子さんにつられるように、俺の顔も熱くなっていった。
「奈美子さんが看護師になったのは、弟さんの事があったから、ですか?」
静かに頷くと、奈美子さんはフッと目を逸らして遠くを見つめる。
「健と同じように、病気で苦しむ人の手助けをしたいって思った。そうしたら、自分の嫌な気持ちが許されるような気がして……って、ただの自己満足ですよね。助けたくても、健はもういないのに」
淡々と話す奈美子さんだが、足の間に組んだ両手は、力が入ったようにぎゅっと握られている。
気がつくと俺は、その両手に自分の手を重ねていた。
奈美子さんは、とても優しいお姉さんだったと思う。自分を責めるよな事を言うのも、きっと健くんの事を大切に思っていたからだ。
「奈美子さんは凄いです。いつも優しくて、仕事だって頑張ってる……俺、そんな奈美子さんが好きです」
「なっ……急に何言ってんですか!?」
「だからもう、自分を責めるような事は言わないで下さい」
動揺したように口をポカンと開ける彼女に、俺は握った手に力を込めて伝えた。
自分でも何を口走っているのかと思ったけれど、どうしても素直な気持ちを伝えたかった。
「もう……おかしいですよ、あなた」
そっぽを向いた奈美子さんの頬は真っ赤だった。
でもようやく、少し毒舌ないつもの彼女に戻ったような気がして、思わずニヤニヤと笑いが溢れた。
「ふへへ……ビール、もう1本飲みます?」
少しおどけて言うと、奈美子さんは赤い顔のまま、じとっとした目でこっちを見つめる。
「……飲む」
しばらくすると、拗ねた子供みたいな声が聞こえて、俺はつい吹き出すように笑ってしまった。
そして、手を離して冷蔵庫に向かおうと立ち上がると、不意に袖を引っ張られる。
振り向くと、奈美子さんが下を向いて俺の袖を握っていた。
「……あ、ありがとう」
そう言った後、彼女はスッと手を離した。
小さな声と上目使いに、心臓をきゅっと締め付けられるような感覚になる。
「あっはは……ビール持ってきますね!」
カッと耳まで熱くなって、俺は恥ずかしさから逃げるようにキッチンに向かった。
その後、俺と奈美子さんは一緒にビールを飲んだ。
お互いの仕事の話や日常の会話。すっかり普段通りの雰囲気が戻っていた。
冷静になると、告白じみた事を言ってしまったわけだけど、奈美子さんは気にしていないように見える。
嬉しいような、少し残念な気もするけれど、今はこうやって二人で過ごせるだけで十分だ。
そう、思っていたのだけれど……些細な異変は翌日に起こるのだった。
◇
「はぁ……おはようございます」
翌朝、目が覚めてからリビングに向かうと、奈美子さんはすでに身なりを整えてソファーに座っていた。
「あ、おはようございます」
そして軽くこっちを見て挨拶を返すと、すぐに手にしていたスマホに目を向ける。
「あれ、奈美子さん今日夜勤ですよね?」
夜勤の日は、この時間まだ寝癖のままなのに。
不思議に思って聞くと、奈美子さんはスマホを見たまま答える。
「あー、ちょっと早く目が覚めちゃって。ついでに顔も洗っちゃいました」
「そうなんですね。あ、朝ごはん用意しますね」
この時は特に気にせず、バイトもあったので俺は急いで朝食の準備をした。
そして、軽く用意したトーストと卵焼きを食べながら、いつもの調子で奈美子さんに話しかける。
「あそうだ、トイレットペーパーが無くなりそうなんですけど、帰りに買ってきていいですか?」
「あ、はい。お願いします」
笑って返事をすると、奈美子さんは静かになった。
その様子にどこか違和感を感じながらも、迫る時間に急いで片付けと出勤の準備をする。
「あの、それじゃあ行ってきますね」
「はい。行ってらっしゃい」
チラッとこっちを見て言うと、奈美子さんはすぐに目を逸らした。
頭の中に疑問符がたくさん浮かんだまま、俺は静かに部屋を出る。
とぼとぼと駐輪場に向かい、カシャンと鍵を開けると、ある考えが思い浮かぶ。
「ひょっとして……嫌われてるぅぅ!?」
大きな声で飛び出した独り言が、人気の無い駐輪場に響いていた。




