17話 些細な違和感
この日は午前中、退院の手続きが被って慌ただしかった。
書類の準備と忘れ物の確認、今後の生活の注意点や服薬の説明。
時間とやる事に追われ大変ではあるけれど、この業務は嫌いじゃない。
やっぱり、元気になって元の生活に戻ってくれることが、私たちには何より嬉しいことだから。
「長い間お世話になりました。特に黒沼さんには、色々恥ずかしい相談までしてしまって」
「あはは、お気になさらず。それより、これからも食生活と飲み過ぎには気をつけてくださいね」
「はい……この病院に不満はないですけど、もう入院はこりごりなので」
岩本さんは30代後半の女性で、アルコール性の肝炎で入院していた。
元々アルコールに弱かったようだけど、仕事とプライベートのストレスでお酒に依存して体調を崩してしまった。
歳が近いせいもあって、ナースコールの度に私生活の悩みなんかを話してくれた。
仕事中時間にゆとりがある時は、私も色々聞かれて話し込んだこともある。
それもあって、彼女は他の患者さんより思い入れは強い。
「ふふ、そうですね。では、お元気で」
岩本さんは笑顔でペコリと頭を下げると、思い出したように私に近づく。
「……可愛い年下の彼氏さんと、仲良くしてくださいね」
こそっと耳打ちされ、思わず頬が熱くなる。
「岩本さん! からかってます?」
「えへへ、私もまた婚活頑張りまーす」
いつもより大人しいと思ったら、やっぱり何か言い残して行くんだから。
明るく手を振って病院を出る彼女を、私は苦笑いで見送った。
元気になるのは嬉しいけれど、もう会うこともないかもと思うと少しだけ寂しくもある。
かといって、「また来てください」なんて言えないけど。
(そう言えば、この前退院したおじいちゃん、大声でまた来ますって言って帰ってったな……ふふ、そろそろ本当に戻って来たりして)
あの日の清々しいおじいちゃんの笑顔を思い出し、私は笑いをこらえながら業務に戻った。
――――
「ねぇねぇ、どうなの最近」
休憩時間。
歩実は席に着くなり前のめりで話を切り出す。
「はぁ、歩実までその話?」
「私までって、他に誰が聞くのよ」
「さっき、退院した岩本さんにもからかわれたの」
「あはは! 岩本さんね。私も、お互い婚活頑張ろって励まされたわ」
歩実は困ったように笑って話す。
「で、どうなの? もう結婚する?」
「ぶっ、早すぎるって! まだ、そんな感じじゃないし」
急な話題に、思わず含んだお茶を吹き出しそうになった。
「早いったって、うちらもう32だよ? 考えたっていい歳じゃん」
「歳的には、そうだけど……まだ出会って3ヶ月くらいだし」
「まだそんくらいだっけ? 仲良いし、もっと前から一緒にいるみたいに思ってた」
けろっとした顔で言い、歩実はお弁当の卵焼きを頬張る。
確かに、一緒に住んでいるからなのか、もっと長く共に過ごしているような気はする。
思えば出会った頃から、彼の事は驚くほどすんなりと受け入れられたな。
「……でもさ、確かに結婚も焦らない方がいいのかもね」
「え? どうしたのよ急に」
正反対の事を言い出した歩実に、私は首を傾げる。
「だって、岩本さんみたいになるのも怖いじゃん」
「あぁ」
歩実は箸を置き、寂しそうに俯く。
元気になった岩本さんの事を思うと、本当に良かったとは思う。
だけど彼女は半年以上前に、長く同棲していた恋人と別れた過去がある。
普段から仲が良く、喧嘩もしたことがない。
それなのに、突然ある日「出て行く」と告げられたらしい。
当初は浮気も疑ったみたいだけど、結局そんな気配も無く。
長く付き合って初めてのすれ違いに、彼女は泣く泣く別れを受け入れた。
結婚を考えていた相手だけに、彼女は相当なショックを受け、苦手なお酒に依存していった。
その時の気持ちを考えると、悲しくて言葉が出てこない。
それに何となく、今の自分と重なって見える部分もあって、正直あまり考えたくはない。
「あんな別れ方、辛いよね」
小さく呟いた歩実に、私は静かに頷いた。
陽介に限って、そんな心配は無いのかもしれない。
でもきっと、岩本さんも同じように思っていたのだろう。
「ごめん! 変な感じになっちゃって」
暗い雰囲気になって気を遣ったのか、歩実は慌てて謝った。
「ううん、大丈夫。元気になって良かったよね、岩本さん」
「そうだね。きっとこれから、もっと素敵な人が見つかるよね」
「うん。幸せになってほしい」
悲しいことではあるけれど、彼女は元気に病院を去っていった。
病気を治して、過去を乗り越えようとする彼女の幸せを、私たちは純粋に応援したいと思う。
◇
「ただいま〜」
「あ、おかえりなさい。今日は俺の方が先でしたね〜」
リビングに行くと、陽介がキッチンから顔を出す。
食欲をそそる香りに誘われ、私は彼の背中にピタリとくっつく。
「うーん、いい匂い……今日は何ですか?」
「鶏肉のトマト煮込みです! キッチンに眠ってたトマト缶、今月までだったので」
「うっ、なんか恥ずかしい」
「ふふふ、あるあるですよね〜」
陽介は呑気な様子で笑いながら、お玉で鍋をかき混ぜる。
「うん、いい感じかも。奈美子さん、器取ってもらっていいですか?」
「かしこまりました!」
最高にお腹が空いてたから、私はウキウキで食器の準備をした。
妙にテンションの高い私に、陽介はプッと吹き出す。
「ふっ、奈美子さん子供みたい」
「だって、お腹ペコペコなんだもん」
暖かいご飯と、大切な人。
こんな生活が、ずっと続けばいいな。
テーブルにご飯を並べながら、私は今の幸せをしみじみと感じていた。
――――
「今日は残業じゃなかったんですね」
「はい、定時上がりでした。最近ちょっと少ないんですよね、残業」
食器を洗いながら聞くと、陽介は隣で鍋を拭きながら答える。
「そうなんですか? 昨日も残業だったんじゃ」
「え? あ、あぁ、昨日はちょっと」
何故か口ごもる彼に、私は手を止めて首を傾げた。
「違ったんですか? あ、また先輩と飲みに?」
「あっはは、そんな感じです。すみません」
陽介は苦笑いを浮かべ、ぽりぽりと頭を掻く。
「別に、謝ることないですよ。年末で、そういうのも多いでしょ? 付き合いも大事ですし」
「あ、ありがとうございます」
陽介はそう言うものの、どこか気まずそうな表情だ。
(……なんだろう、なーんか隠してない?)
少しだけ不審に思いながらも、私はそれ以上何も聞かなかった。
◇
次の日。
陽介は今日が仕事納めらしい。
看護師の私には世間の休日は関係ないけれど、今日はたまたま休みだ。
「ふぅ……明日は最後のゴミの日だし、今日中に片付けなきゃなー」
散らかってはいないが、何となく物の増えた部屋を見渡してため息を付く。
掃除は苦手だけど、年末の大掃除くらいはちゃんとしなきゃ。
「うん! 頑張らねば」
私は寒いのを我慢してベランダの窓を開け、換気をしながら掃除機をかける。
普段はスルーする家具の隙間や部屋の隅っこも、念入りに埃を吸い取ってやった。
リビングの掃除が終わり、私はついでに陽介が使っている寝室の引戸を開ける。
勝手に入ることはないけど、今日は大掃除だししょうがない。
少しだけ悪いと思いながら、私は何気なく掃除機をかけていく。
部屋といっても布団と服とか、最低限の物だけ。
前は資金が無かったとは言え、働きだしたんだから少しは自分の好きなものを買えばいいのに。
部屋を見渡しながらぼんやり考えていると、ふと部屋の隅に散らばった紙を見つけた。
「ん? なんだろ……仕事の資料かな」
忘れ物かと気になって手に取ると、私はそのまま体が固まった。
「これ……賃貸の間取り」
陽介がなぜこんなものを持っているのか。
それを考えると、急に胸の奥が冷たくなって、岩本さんの言葉が頭を過った。
――『急に出て行くって荷物まとめて。知らない間に賃貸の契約までしてたんですよ? ふふ、もう何も信じられないですよ』
「そんな……陽介に限って」




