16話 恋人同士の生活
唇にはまだ、奈美子さんの感触が残っている。
恋人だから、別におかしな事じゃない。けれど奈美子さん、急にどうしたんだろう。
「はぁ……美味しかったな。ナポリタン」
湯船に浸かって天井を見上げると、白いモヤに包まれて気持ちが落ち着く。
慣れない仕事で疲れても、こんな満たされた日々が送れるならいくらでも頑張れる。
好きな人と心が通じて、一緒に暮らすことが出来るなんて、こんな幸せなことはないから。
ぼんやりとしていたら、体がポカポカと火照ってくる。
「だめだめ、いつまでも奈美子さんに甘えてちゃ」
バシャバシャと顔を擦ってから、俺はようやく湯船から出ることにした。
――――
頭を拭いてリビングに戻ると、奈美子さんはソファーで寝息を立てていた。
そして、テーブルにはビールの缶が1本。
少しムスっとして缶を持つと、やっぱりもう空っぽ。
「もう、またこんなに飲んで。肝臓に悪いですよー?」
眠った奈美子さんに小さな声で注意すると、返事をするように寝言を言う。
「ん〜、いいの」
その反応が面白くて、俺は何回か奈美子さんに話しかける。
「ダメです。健康で、一緒に長生きするんです」
「むぅ〜……はぁい」
「ふっ、ほんとに寝てるんですか?」
漫才か何かのようなやり取りに、思わず吹き出してしまう。
けれど確か、寝言に話しかけちゃダメって何かで見た気がする。
楽しいけれど、ここまでにしよう。
俺は髪を乾かした後、奈美子さんの体を寝室に運ぶ。
初めて抱える彼女の体は華奢で、あどけない寝顔が愛らしい。
「こんな体なのに、俺と同じくらい食べるんだもんなぁ」
大食漢の奈美子さんを布団に降ろして、髪の毛をさらりと撫でる。
すると奈美子さんは、もぞっと寒そうに体を丸めた。
俺は布団を首もとまで被せ、ふとその手を止める。
気持ち良さそうに眠る彼女の顔を眺めていると、ドキドキと胸が脈打つ。
(うぅ……ダメダメ。もう遅いし、奈美子さんも寝てるし、夜勤で疲れてるんだから)
彼女の顔を見つめながら、俺は悶々と心の中で葛藤していた。
その時、奈美子さんの目が薄く開き、ふにゃりと微笑む。
「あっ……わぁ!」
驚いて固まっていたら、彼女は俺の腕を引き寄せた。
俺はバランスを崩して、奈美子さんに覆い被さってしまった。
「ご、ごめんなさいっ! って奈美子さん、ちょっと離して」
慌てて体を起こそうとすると、奈美子さんは俺を自分の胸に抱きしめる。
抱き込む腕の力は強くて、抜け出そうにも抜け出せない。
ひとりで焦る俺の耳に、スースーと奈美子さんの寝息が聞こえだす。
(こ、この状態で寝てる……嘘でしょ!?)
嬉しいけれど、もどかしい。
布団越しに心臓の音が聞こえないか心配になるほど俺は興奮し、のぼせた頭の中は大混乱だった。
「もう、勘弁して下さいよぉ」
その後、奈美子さんのホールドは解けることはなく、俺は満足に眠れないまま朝を迎えたのだった。
――――
「ほんっとうにごめんなさい!」
早朝、奈美子さんは布団の上で平謝りする。
「へへ、大丈夫ですよ」
「で、でも、凄い隈が」
「え? こんなの、どうってこと無いですよ〜。あ、俺顔洗ってきますね」
心配を通り越して少し引いているような奈美子さんを置いて、俺はフラフラと洗面所に向かった。
顔を洗うと少し眠気も吹き飛んだ気がする。
身だしなみを整え、ついでに着替えも済ませてリビングに戻る。
すると奈美子さんは、コーヒーを淹れてトーストを用意してくれていた。
「わぁ、朝ごはんも作ってくれたんですが!?」
「あはは、パン焼いただけですよ。それより、ほんとにすみません。私が飲みすぎたばっかりに」
奈美子さんは苦笑いでカップをテーブルに置くと、また深々と頭を下げる。
「そんな気にしないでくださいって。そりゃ動揺しましたけど、その……嬉しかったですから」
「嬉しい、ですか?」
照れ臭くて奈美子さんの顔をチラリと見ると、彼女はキョトンとした様子で聞き返した。
「当然ですよ! その……す、好きなんですから」
反射的に言い返したものの、恥ずかしくてついゴニョゴニョと誤魔化してしまう。
「え? なんか、最後よく聞こえなかったんですが」
「もういいです! って、もう時間ヤバイ」
いつの間にか出勤時間が迫っていて、俺は慌ててトーストをコーヒーで流し込むように食べた。
「行ってきます!」
「あ、ちょっと待って」
「ん?」
玄関のドアに手をかけた時に呼び止められ、奈美子さんの方を振り返る。
奈美子さんは柔らかな笑顔で、胸に飛び込むように抱きついてきた。
「……奈美子さん」
「いってらっしゃい……頑張ってきてね、陽介」
「えっ……はい!」
初めて名前を呼ばれ、嬉しさで体がゾワゾワとする。
込み上げるものを堪えて、俺はただ彼女の体を強く抱き返した。
◇
それから、穏やかで幸せな日々は流れていく。
仕事は相変わらず大変だけど、少しずつ任せられることも増えて失敗も減っている。
そして年末、初めての給料日を迎えた。
「え、こんなに……」
休憩中にスマホで明細を見ると、想像以上の金額に思わず声が漏れる。
慌てて口を押さえたけど、隣でラーメンを啜っていた田村さんはニヤリとこちらを見つめていた。
「何々? 100万くらい入ってた?」
「あはは、そんな夢みたいな。100万には程遠いですけど、基本給よりだいぶ多くてビックリです」
「そりゃね、今月残業も多かったし大変だったじゃん。川崎くんも、よく頑張ったよ」
田村さんは晴れやかな笑顔で、俺の肩にポンと手を置く。
「そんな、先輩のお陰ですよ。これからも、よろしくお願いします」
「はは、いいねぇその顔。まさに営業スマイルってやつ?」
「もう、違いますって」
田村さんはいつもこんな冗談ばかり言う。
けれど仕事になると一転して頼りになるんだから、本当に凄い人だ。
俺は改めて明細に目を通す。
残業代を入れたとしても、アパートを借りても生活はやっていけそうな額だろうか。
「あの、田村さん」
「何?」
「田村さんのアパートって、家賃おいくらですか?」
「へ? なんだよいきなり」
急に変なことを聞いたからか、田村さんは不審そうな表情で返す。
「あ、急にすみません。ちょっと部屋探しの参考にと」
「なんだ、そういうこと。彼女と引っ越すの?」
「はい、まだ話してないんですけど。今より広めの部屋を借りられたらなって」
恥ずかしさから俯いて話していると、田村さんの意味深な声の相槌が聞こえてくる。
「ふーん、いいじゃん。やっぱり、ずっと彼女の部屋に居候ってのは抵抗あるの?」
「や、別に抵抗とかじゃないんですが……その、恩返しと言いますか。でも、自立したいって気持ちはあります」
今の奈美子さんの部屋はもちろん大好きで、思い入れもある。
けれど、このまま甘え続けるのは、いくら恋人同士でも良くないと思うし。
出来れば今の部屋の近くで、ちょうどいい広さの部屋を借りたい。
「そっか。じゃあ、今日早く上がれたらさ、一緒に不動産屋寄ってみる? ほら、駅前にあるとこ」
「え、そんな……迷惑じゃ」
「いいのいいの。ほら、人の部屋探しって面白いじゃん。俺結構好きなんだよ、間取りとか見るの」
「はは、そうなんですか。じゃあ、よろしくお願いします!」
新しい部屋か。
近くに安いスーパーとか、ホームセンターとかあるといいな。
日当たりも良くて、洗濯物も乾きやすかったり。
あ、キッチンも広めで、コンロが二口あると料理がしやすいかも。
まだ気が早いけれど、考え出したらキリがなさそうだ。
二人で暮らす新居を想像したら、自然と胸が高鳴ってくる。
奈美子さん、喜んでくれるといいな。




