第14話:極寒の深層と、閻魔の最後の願い
別荘の朝は、穏やかで少し肌寒かった。
リリアのお腹はもうかなり目立つようになり、彼女はゆっくりと歩きながら庭の花に水をやっていた。
俺はバルコニーからその姿を眺め、コーヒーを一口飲む。
「今日も行くのかい?」
リリアがこちらを見て、優しいけど少し心配そうな笑顔を浮かべた。
「うん。今日は八寒地獄の第三層『極寒地獄』だ。
もう少しで中盤だから、様子を見てくる。」
俺は彼女の肩を抱き、軽くキスをした。
「長くはかからない。夕飯には帰るよ。」
リリアが俺の手に自分の手を重ねる。
「約束だよ。
子供が動くようになったの……太郎さんに早く教えてあげたいんだから。」
俺は頷き、【地獄の呼鈴】を起動した。
鈴の音が響き、冷たい風とともに地獄の扉が開く。
今度の層は、八寒地獄の第三層――極寒地獄。
言葉では表せないほどの絶対零度に近い世界だった。
空気そのものが凍りつき、息をするだけで肺が凍える。
地面は無限の氷の針の海。歩くたびに足が刺され、血が瞬時に凍って体から引き裂かれるような痛み。
体全体がガラス細工のように脆くなり、わずかな動きでひび割れ、砕け散る。
「くっ……!」
痛みは魂の芯まで届く。
でも、俺はもう慣れていた。
耐え時間を意識的に伸ばし、ただ立っている。
【寒氷耐性Lv2】がさらに磨かれ、凍てつく苦痛を「経験」として受け止める。
しばらくすると、閻魔様が現れた。
今日は表情が少し疲れていて、赤い顔に影が落ちている。
「極寒地獄か……ここは俺の時代にも、特に長く感じた層だった。
体が粉々になっては再生し、また粉々になる。
痛みというより、存在そのものが消えていく感覚だ。」
俺は凍りついた唇で問いかける。
「お前もここで何度も諦めかけたのか?」
閻魔様はゆっくりと頷き、昔話を続けた。
「諦めかけたさ。何度も。
俺の前世は、江戸の米問屋で働かされていた貧乏人だった。
朝四ツ時から夜の亥の刻まで、休みなく米俵を運び、帳簿を付け、
上から『もっと働け』と怒鳴られる毎日。
過労で倒れた時、『やっと楽になれる』と思ったのに、地獄ループが始まった。
100回目が近づく頃には、もう人間じゃなくなっていた。
痛みを感じる心すら、凍りついていたよ。」
極寒の風が俺の体を削る。
俺は耐えながら、静かに聞いた。
閻魔様の声は低く、遠い。
「100回達成した瞬間、俺は閻魔の座に座らされた。
『これからは業を裁け。罪人を罰せ』と。
最初は『俺が一番強い』と思った。
でも、何百年も裁き続けると、魂が擦り切れていく。
罪人を罰するたび、自分の過去を思い出して……
『俺もこんな苦しみを味わったのに、今度は俺が与える側か』って、虚しくなるんだ。
だからこそ、後継者を待ち続けた。
100回クリアした人間が現れるたびに、
『この子なら、俺の代わりにやってくれるかも』って期待した。
でも、みんな座を拒否して逃げていった。」
俺は凍てついた体で、静かに言った。
「俺も座はいらねえ。
でも、お前をこのまま縛り付けておくのも、なんか違う気がする。
お前も……ただ普通に生きたかっただけだろ?
酒飲んで、家族作って、老いて死ぬ、そんな人生を。」
閻魔様の目が、ほんの少し湿った。
「そうだ。
俺はもう十分に働いた。
お前が残りの層を全部消化してくれれば、
引き継ぎの儀式で座を空けられる。
地獄のシステムは自動浄化モードに移行する。
誰も苦しまない、ただ罪を洗い流すだけの地獄になる。
そして俺は……異世界に転生して、普通の人間として生きられる。
畑を耕し、酒を飲み、孫の顔を見て……そんな日々を、ようやく味わえる。」
極寒の風が強くなる。
俺の体が粉々に砕け、再生を繰り返す。
それでも俺は耐え続けた。
【地獄周回:任意11回目完了。業ポイント+1500(ボーナス大量)】
【極寒耐性Lv2 獲得】
閻魔様が小さく微笑む。
「残り88回か……。
お前は本当に優しいな、佐藤。
俺の時代には、そんな後継者はいなかった。
約束してくれ。
俺が引退したら、隣の家に引っ越してきたら……
本当にビール奢ってくれるんだろうな?」
俺は笑った。
「奢るよ。
冷えたやつを何本でも。
お前が角をなくした冴えないおっさんになったら、
一緒に愚痴大会でもやろうぜ。
『地獄の管理者はブラック企業だった』ってな。」
閻魔様が珍しく大きな声で笑う。
「ははは! それ、楽しみだ。
お前みたいな奴が後継者候補で、本当に良かった……。」
耐えきって、俺は地獄の扉をくぐり、別荘に戻った。
リリアがリビングで待っていた。
お腹を優しく撫でながら、俺を見て微笑む。
「おかえり、太郎さん。
今日は少し長かったね。」
俺は彼女を抱きしめる。
体がまだ少し冷えていたが、リリアの温もりがすぐに溶かしてくれる。
「ただいま。
閻魔の奴……今日も昔話を聞かせてくれた。
あいつも、俺と同じように苦しんで、管理者になったんだ。
もう疲れてる。
残り全部消化して、解放してやるよ。」
リリアが俺の胸に顔を埋める。
「うん……。
太郎さんがそう決めたなら、私は応援する。
でも、家族が一番だよ。
この子も、早くお父さんに会いたいって言ってるみたい。」
俺はお腹に耳を当ててみる。
小さな動きを感じて、笑みがこぼれた。
「そうだな。
閻魔を解放したら、俺たちは本当に自由になる。
子供の名前も決めよう。
男なら『陽』、女なら『花』とか……どうだ?」
リリアが嬉しそうに頷く。
「いいね。
温かくて、優しい名前。」
その夜、バルコニーで星空を見上げながら、俺は思う。
残り88回。
全部耐え抜く。
閻魔を解放して、普通の人生を返してやる。
そして、俺たちは……この別荘で、静かに幸せに暮らす。
隣の家に、いつか角のないおっさんが引っ越してきて、
「よお、佐藤。ビール持ってきたぞ。一杯やろうぜ」
って笑う日が、確かに近づいている気がした。
(つづく)




