第13話:黒縄寒地獄と、閻魔の昔話
別荘の庭で、リリアが洗濯物を干している姿を眺めながら、俺は深呼吸した。
お腹が少し目立つようになった彼女は、穏やかな笑顔を浮かべている。
「太郎さん、今日も行くの?」
「うん。今日は黒縄寒地獄の第二層だけ。長くはかからないよ。」
リリアが俺の胸にそっと寄りかかる。
「約束だよ? 無理はしないで。子供の名前、まだ決めてないんだから……。」
俺は彼女の髪を優しく撫でた。
「わかってる。閻魔の奴を解放して、俺たちは普通の家族になる。それだけだ。」
【地獄の呼鈴】を起動。
鈴の音とともに、空間が裂け、俺は再び地獄へ足を踏み入れた。
今度の場所は、八寒地獄の第二層――黒縄寒地獄。
無数の黒い縄が吹雪の中でうねり、触れただけで体を凍らせながら締め上げる拷問場だ。
地面は鏡のように凍りつき、空からは細かい氷の針が降り注ぐ。
体が即座に凍りつき、縄が皮膚を食い込み、血が凍ったまま体から引きずり出される感覚。
「ぐっ……!」
痛みは相変わらず激しいが、死なない。任意モードの強みだ。
俺は耐え時間を意識的に伸ばしながら、縄に絡まれても動じない。
【寒氷耐性】と【全耐性統合】が完全に機能しているおかげで、肉体的なダメージはほとんどない。
ただ、魂に直接響くような冷たさと締め付けだけが残る。
しばらく耐えていると、いつものように空間が歪み、閻魔様が現れた。
今日は少し表情が柔らかい。角の欠けが目立つ。
「また来たか、佐藤。黒縄寒地獄は、俺の時代にも一番キツかった層の一つだぞ。」
俺は縄に縛られたまま、苦笑する。
「へえ。お前もここで泣き叫んでたのか?」
閻魔様は遠い目をして、ゆっくりと語り始めた。
「俺の前世は……江戸時代後期の貧しい町人だった。
毎日、朝から晩まで米問屋で働かされて、休みなんてほとんどなし。
ある日、過労で倒れて死んだと思ったら、地獄ループに放り込まれた。
最初は『なんで俺だけ!』って叫び続けたよ。
炎で焼かれ、縄で斬られ、岩で潰され……何度も何度も。
100回目が近づいた頃には、もう痛みを感じる感覚すら麻痺してた。」
縄がさらに締まる。俺は歯を食いしばりながら聞く。
閻魔様の声は静かだった。
「100回達成した瞬間、俺は『地獄の管理者』の座に座らされた。
『お前が新しい閻魔だ。これからは業を裁け』ってな。
最初は嬉しかったよ。『俺が一番強くなった』って思ったから。
でもな……何百年も裁き続けると、魂がすり減るんだ。
罪人を罰するたびに、自分の過去の苦しみを思い出す。
『俺もこんな目に遭ったのに、今度は俺が罰する側か』って、虚しくなる。」
俺は縄の中で小さく笑った。
「だから後継者を待ってたのか。
『誰か俺の代わりにやってくれ』って。」
閻魔様は頷く。
「ああ。
100回クリアした人間が現れるたびに、引き継ぎの権利が発生する。
でも、これまで現れた奴らは全員『座を譲ってくれ』って言って、俺に押し付けて逃げていった。
お前は……違うみたいだな。
『座はいらねえ。お前を解放してやる』って言ったのは、お前が初めてだ。」
黒い縄が俺の首を締め上げる。
凍てついた息が白く凍る。
俺はゆっくりと息を吐きながら言った。
「俺はリリアと子供と一緒に、普通に生きる。
地獄の管理者なんて、俺の人生じゃねえ。
でも、お前をこの座に縛り付けたままにするのも、なんか違う気がするんだ。
お前も……社畜だったんだろ? 俺と同じように、ただ生きる権利があったはずだ。」
閻魔様の目が、ほんの少し揺れた。
「ふっ……お前は優しすぎるな、佐藤。
俺の時代には、そんな言葉はなかった。
みんなが『生きるために耐える』だけだった。」
俺はさらに耐え時間を伸ばす。
業ポイントが急激に増えていく。
黒縄寒地獄の第二層を「クリア」した感覚がした。
【地獄周回:任意10回目完了。業ポイント+1200(ボーナス大量)】
【寒縄耐性Lv2 獲得】
閻魔様が小さく笑う。
「残り89回か……。
お前が全部消化してくれれば、俺はようやくこの座から降りられる。
異世界に戻って……酒を飲んで、畑を耕して、子供を抱いて……そんな普通の人生を送れる。
楽しみだよ、本当に。」
俺は縄から体を振りほどきながら、閻魔様を見る。
「楽しみにしてろよ。
お前が引退したら、俺の別荘の隣に引っ越してこい。
ビール奢ってやるからよ。」
閻魔様が珍しく大きな声で笑った。
「ははは! それ、約束だぞ。
角がなくなったら、ただの冴えないおっさんになるが……構わんか?」
「構わねえよ。
むしろ、社畜同士で愚痴大会でもやろうぜ。」
地獄の扉が開く。
俺は閻魔様に軽く手を上げて、別荘に戻った。
リリアが玄関で待っていた。
「ただいま。」
彼女が俺に抱きつく。体が少し冷えていた。
「ただいま……おかえり、太郎さん。
今日は長かったね。」
俺は彼女を抱きしめながら、静かに言った。
「閻魔の奴……昔は俺と同じような人間だったんだ。
100回耐えて、管理者になったけど、もう疲れてる。
俺が残り全部消化して、解放してやるよ。
そしたら、お前と俺と子供で、ずっと幸せに暮らせる。」
リリアが俺の胸に顔を埋める。
「うん……。
太郎さんが決めたなら、私はついていくよ。
ただ、無理だけはしないでね。」
その夜、バルコニーで星を見ながら、俺は思う。
残り89回。
全部耐え抜く。
閻魔を解放して、普通の人生を返してやる。
そして、俺たちは……本当に自由になる。
数年後、隣の家に引っ越してきたおっさんが、
「よお、佐藤。ビール冷やしといたぞ。一杯やろうぜ」
って笑う日が、確かに来るはずだ。
(つづく)




