第171話 ミリシャの王妃
窓に映る夜景の中にコルコバードの神の子の像が見える。今日もこのヒウの街を見下ろして人々を慈悲深く思っているのだろう。
「王様。あの岩がそんなにお好きですか?」
私の左手に抱き着く灰色がかった蒼髪の女がそう言った。赤い瞳で私を寂し気に見詰めている。
「そんな目は君には似合わない。ホザマリア。私は別にあの像を好いているわけではないよ。愛しているのは君だけだ」
「でもあれを見るときはいつもわたくしを見てくださいませんのに」
美しい顔を不満で染めている。ホザマリアは寂しがり屋でいけない。私は偶像に夢中になるほど子供のつもりはない。
「あれを見るとどうしても師のことを思い出してしまう。神を信仰しないのに激しく偶像を嫌ったあの人のことをね」
「葉桐教授のことですか。わたくしが覚えているのはただただ憐れな人だったことだけですわ。世界を救うなんてことに全てを捧げて、そして神に裏切られた只人」
「叶わない夢を見るのは男の性だ」
「王様もですか?わたくしよりも夢が大事ですか?」
ホザマリアは私の頬を撫でる。そしてその女神の如く美しい顔を私に近づけてキスしてくる。
「それはどちらを答えても外れなズルい質問だろうに」
「ズルさは女の特権ですわ。王様は女の児戯くらい受け入れる度量はあるのでしょう?」
艶やかにホザマリアは笑う。そして服を脱ぎながら私に抱き着いてくる。可愛い女。葉桐教授が私に託した遺産の一つ。私の王妃。
「ねぇ王様。この国に進歩と秩序を齎しても」
「ああ。私は君の手を放したりしないよ。私のお姫様」
夢は大事だ。だが今愛するこの女を手放すつもりはない。この汚辱に満ちた世界で、確かに存在する愛なのだから……。
だが葉桐教授は違った。あの人は隣人の愛さえも手放して、世界の救済を求めた。私は彼のことを未だに忘れることができない。
あれは私が学環府で博士号を取得した日のことだった。
「おめでとう。愛弟子の君が一人前のサイエンティストになってくれたのは私の誇りだよ」
「ありがとうございます。葉桐先生。この栄誉も葉桐教授が私をあの汚辱から救い上げてくれたからです」
「君はわたしの差し出した手を掴む力があったからだよ。すべては君の器のなせる業だった。ああ。私の孫にも君の100分の1でも素質があればよかったのだがね」
葉桐教授は寒いサーバー室の中で深く白い息を吐いた。そこには憤りと、失望が確かにあった。
「お孫さんは女神を傍に呼び寄せるほどの縁をお持ちだったじゃないですか。才はあるでしょう」
「あるのは女神との縁だけだ。あの子は卑しい。その性根は腐っている。私に最も似ているのに、最も嫌悪する心を持って生まれてしまった。葉桐の恥だよ」
身内にも敵にも優しい葉桐先生がこうまで言うのだから相当なのだろう。
「女神をよく懐かせているように見えますが?」
「女神はあやつの言うことだけは聞いているが、愛してはいないのだろう。共に滅ぶ相手には選んでも、共に生きる王としては考えていない。それはせいぜい騎士だよ。くだらない。騎士が世界など救えるものか」
葉桐先生の失望は想像以上に深い。だが祭犠遂行のためには女神に相応しい王を選定する必要がある。それも我々学環府のコントロールの及ぶ王でなければならない。でなければ世界がどうなってしまうのか想像もつかない破滅的結果を齎すだろう。
「だから君に私の遺産を託そうと思う」
「遺産?何をおっしゃっているのですか?まだそのようなお年ではないでしょうに」
「私はおそらくもう長くない。そんな予感がするのだ。孫には期待できない。だから遺産を分割して相続させることにした。君はその一人だ。君にはこれを託したい」
葉桐教授は目の前の大きな岩のような棺型のサーバーに触れた。そのサーバーには淡く光を放つ剣が刺さっている。
「そんな!?このサーバーを?!ですがこれは祭犠の重要な試案の神器ではないですか!!ブリテン島で苦労して発掘した聖剣じゃないですか!そんなもの受け取れません!」
「いや。君ならこの剣を抜ける。このサーバーの中には女神の模造品が入れてある。オリジナルには届かない偶像に過ぎないが王器を持つ者にきっと応えてくれるだろう。君のようなね。さあ剣の柄に手を……」
葉桐先生は私にそう促した。私は躊躇した。だが葉桐先生は私を優しげな瞳で見つめている。
「君が義理堅く優しいことはよく知っている。だから託したい。これで君は君の祖国を救うんだ。そして願わくば……」
その声はとても暖かいものだった。私の祈りである故郷を汚辱から救うというチャンスを葉桐先生は与えてくれているのだ。ならば応えねばならない。それがこの人の弟子としての責務であり、きっと恩返しなのだ。私はサーバーの横の梯子を上る。そして刺さっている剣の柄に手を添えて。剣をサーバーから抜いた。
「ああ。かの伝説はこのように麗しかったのか……」
葉桐先生が儚げな笑みを浮かべている。そしてサーバーが唸り声のような排気音を部屋に響かせる。
「おめでとう。いや。あるいは私が呪ってしまったのかもしれない。君はこれで王様だ。頼んだよ。世界に幸福を賜えてくれ」
こうして私は王に成り上がった。すべては万民の祈りのために。そして進歩と秩序のために……。




