第二話 ソレは…
「……生きていたのか……」
喉の奥から、擦れた声が漏れた。
廊下の先に立つそれは、泥にまみれていた。
髪は土と雨で束になり、肩口から垂れた服は黒く濡れ、ところどころ裂けている。肌だったものは灰色にくすみ、乾いた土がひび割れたように貼りついていた。
もはや女と呼ぶのとは違っていた。
いや、人と呼ぶことさえ躊躇われる。
そこにあるのは、生き物ではなく——
モノ。
その言葉が、男の頭にもっともしっくりきた。
モノは男の呼びかけにも反応しない。
顔らしきものをこちらへ向けることもなく、ただ俯いたまま家の中を歩いている。
ズリ……。
ズリ……。
片足を引きずるたび、床に泥の筋が伸びた。
爪先が木目に引っかかり、濡れた土の塊がぽとり、ぽとりと落ちる。
男は玄関先から一歩も動けなかった。
目の前の現実を理解しようとするたび、脳が拒んだ。
埋めたはずだった。
土をかけた。踏み固めた。翌朝には何事もない庭に戻っていた。
それなのに、なぜ今ここを歩いている。
ズリ……。
ズリ……。
モノは廊下を抜け、居間へ入った。
まるでこの家の間取りを覚えているような足取りだった。
男の鼻先に、湿った土と腐った花のような匂いが届く。
「待て……おい……」
声をかけても止まらない。
モノは居間の中央で立ち止まり、ゆっくりと首を廻らせた。
古びた食卓。壁際のテレビ。積み上げた雑誌。男の脱ぎ散らかした上着。
そのひとつひとつを確かめるように見回している。
やがて、ぎこちない動きで台所の方へ向かった。
ズリ……。
ズリ……。
引き出しが開く音。
食器が触れ合う音。
冷蔵庫の扉が軋む音。
男の背中を冷たい汗が伝う。
生き返った者が、最初にすることではない。
それはまるで——
ここで暮らしていた者が、いつもの夜を始めているようだった。
男は、忘れたはずの感触を思い出していた。




