第一話 記憶
「おい、居るのか」
男の声は、暗い廊下に吸い込まれて消えた。
返事はない。
ズリ……。
ズリ……。
居間の奥から、何か重いものを引きずる音だけが近づいてくる。
男は玄関脇の傘立てからビニール傘を掴んだ。情けない得物だと思ったが、素手でいるよりはましだった。
半年前、この家には女がいた。
飲み屋で働いていた女だった。歳は三十前、派手な化粧の割に目だけが妙に子どもじみていた。店に住み込みで寝泊まりしていたが、薬に手を出していると分かった途端、店から放り出された。
雨の夜だった。
コンビニの軒先で膝を抱えていた女に、男は声をかけた。
「行くとこないのか」
女は笑って、ない、と答えた。
そのときの男には、ただの気まぐれがあった。
一軒家に一人で住む退屈。人恋しさ。あるいは、誰かを救える人間でいたいという見栄。
「身の回りのことしてくれるなら、住んでもいい」
それが条件だった。
女は何度も頭を下げ、翌日には台所を磨き、洗濯をし、妙に甘い香水の匂いを家中に残した。
最初の一週間は、うまくいっていた。
二週間目には、財布の中身が減り始めた。
三週間目には、財布ごと消えた。
一ヶ月目には、男はようやく現実を知った。
薬物依存者と、同じ屋根の下で暮らすべきではない。
問い詰めた夜、女は泣きながら否定し、次の瞬間には玄関へ走った。
「待て!」
男が腕を掴み損ね、女は三和土で足を滑らせた。
身体が横に崩れ、頭が下駄箱の角へぶつかる鈍い音がした。
女はそのまま動かなくなった。
男はしばらく立ち尽くしていた。
救急車を呼べばいい。それくらい分かっていた。
だが、頭の中には別の計算ばかりが巡っていた。
薬物。警察。事情聴取。近所の目。面倒。
自分まで巻き込まれるのは御免だった。
女を部屋へ運び、布団へ寝かせ、水だけ枕元に置いた。
朝になれば目を覚ますかもしれない。そう思うことにした。
だが翌朝、女の身体は冷たかった。
男は何も感じなかった。
感じないようにしていた。
庭の片隅に穴を掘った。
雨上がりの土は柔らかく、妙に掘りやすかったのを覚えている。
誰にも知られず、何事もなかったように、土を戻した。
それから半年。
ズリ……。
ズリ……。
あのとき埋めた場所は、今も庭の隅にある。
男の額から汗が落ちた。
雨の冷たさとは違う汗だった。
暗い廊下の先で、ライターの火が小さく灯る。
その橙色の向こうに、濡れた髪の女の輪郭が、ゆっくりと浮かび上がった。




