一ミリ(1)
馨民の母、釈来の助手である酉惟の一人称です。
全2話。
心がゴリゴリと削られていく。
想いが募るほど、削れていく。
けれど、これは自ら選んだ道だ。誰に強制されたでもない。
望まれないだろうが、こうするしか──言えないのだから。決して。
許される方法など、ないのだから。
とはいえ、こんな日がいつかくると──悠畝前君主が亡くなったときから、漠然と思っていた。
配置換えが発表された。
君主が不在になってから充忠くんが人事も行うようになり、それから数年が経ったころだった。
「え……」
思わず出た声は、釈来さんの耳にも届いてしまったようで、
「まぁ! おめでとう!」
聞きたくない、祝いの言葉を言われてしまった。
心持ちの整理を行う時間が、数日間必要だった。
唯一の方法を失ったと打ちのめされても、時間は過ぎていって。感情を無理に呑み込み、業務終了後に荷物を整理していると、
「いつかこんな日がくると思っていたの……ずい分遅かったけどね」
なんて、釈来さんがしんみりと言った。
いつの間にか、ふたりだけになっていて、気が緩みそうになる。
口を開けばここに残りたいと駄々をこねそうで──だんまりを決め込んでいると、
「うれしくないの?」
『自分の研究室が持てるのよ』
いくつも──聞きたくない言葉が耳に入ってくる。
俺は、そういう意味では悠畝前君主と同じだったんだろう。
生活の為に職を手にしただけで、生まれが克主研究所だったというだけだ。
他の場所も職も、知ろうと思ったこともなかっただけ。
たまたま周囲が研究員だけで。幼い俺が生きていけるようにと、自然と教えてくれただけで。
敷かれたレールに乗ってきただけだった。
そこに意味が加わったのが、釈来さん──だった、ただそれだけだ。
「うれしくなんて……ないですね」
施行される人事をうれしいだなんて思えたのは、『それだけ』と研究員になる理由を言えたころまでだろう。
そもそも、俺は自ら志願して今の職になり、留まっていたわけで。それを悠畝前君主が理由を明確化した。
悠畝前君主は、人事だけを君主の申し送り事項にしたと言っていた。忒畝君主も知っていた。
忒畝君主が、君主の申し送り事項をもらすとは考えにくい。それならば、充忠くんの判断だ。──彼は君主ではない。だから、申し送り事項は継承するとしても、守る必要はないと考えたのかもしれない。
思い返せば、俺の今の立場を昔から理解しがたいと遠回りに言われたことが何度もあった。
現職に留まるために、俺が悠畝前君主に言った理由を充忠くんに言えるかと言えば──それは否で。
「酉惟さん、結婚しよっか」
さすがに驚いた。
釈来さんからこんな言葉を言われる日がくるとは、微塵も思ってもいなくて。
何を考えていたか──どころか、呼吸の仕方も吹き飛んでしまった。
困った。
まばたきの仕方も忘れてしまったようで、不自然な動きを自分がしているように感じる。
でも、何とか返事をしなくては。
必死になって言えた言葉は──。
「いえ……できません。無理です」
荷物は片付け途中だ。机の上は、いつになく散らかっている。
どう片付けるかなんて、判断が付かない。いや、それよりも、どうして釈来さんがあんなことを言ったのかが、わからない。
パニックとは、今みたいなことを言うんだろう。
こんなことは、人生で二回目だ。
ガタリと席を立つ。
荒れた机の上を見て、何とかしようとは思う。けれど、無理だ。こんな状態で釈来さんとふたりきりなんて、いられない。
荷物は早朝にでもまとめよう。
「お疲れ様です」
逃げるように俺は退室した。
人事異動は発令から執行までの間、もういつ異動してもいい。
翌朝、始業時間よりもはるかに早く職場へ行き、散らかった荷物をガラクタのように箱に入れ、異動をした。
わざわざ来なければ、ここに来ることは──釈来さんに会うことは、滅多にないだろう。
果たしてそれでいいのか。
俺の罪の意識は低下しないか。
釈来さんに会っていない方が苦しいのか、会っている方が辛いのか──今はまだ、わからない。
なんて、考えていたのに。
「あら、酉惟さん。となりいい?」
わざわざ探しているのかと聞きたくなるくらい、食堂で釈来さんに出会う。
「どうぞ」
無愛想と自覚があるが、そのまま言い視線まで逸らすのに──釈来さんは通常運転で、いつものように突き抜けるくらい明るい。
釈来さんがこのくらい明るくなったのは、聖蓮さんがいなくなってからのような気がする。
初めは悠畝前君主を励ます為だったんだろう。釈来さん自身の思考も感情も、吹っ切る為だったんだろう。
あのころの悠畝前君主は──。
俺が特に話さずとも、返答を返さずとも、釈来さんは釈来さんのままであり続ける。
釈来さんは人の感情に振り回されない、強い人だ。
話したくないわけじゃない。
でも、この間のように誤解されるようなことを言いたくないだけだ。あの断り方はまるで──。
「でもね、酉惟さん。あの断られ方は、さすがに傷付いたわ」
ですよね。
俺も、そう思っていました。
「すみませんでした」
ただ、謝ったところで弁明はできない。
だから席を立つ。
短いあいさつをして、新任した職場へと戻る。
そうしても結局、食堂で釈来さんと会う日々は三ヶ月も続いた。
だから、言いたくもない言葉が──次々に重なっていく。
「何ですか、もう上司でもないんですから、関係ないでしょう」
「あるわよ! 腐れ縁っていうか……」
そうだ。確かにそうだ。
俺と釈来さんは、『いつから知り合いだったか』なんて、お互いにわからないくらいだ。
「そんな縁なら、ない方がよかったですね」
嘘を言った。
また席を立つ。
釈来さんと出会わなかった人生なんて、考えられもしないくせに。




