鬼の門番(1)
馨民の母、釈来の助手である酉惟がメイン。
全2話。
仕事に呑まれる──なんてことは、ここ何年もなくなった。それはここの室長の釈来も同じだったのに、どうしたことか。
──珍しいな……。
この研究室の『鬼の門番』こと酉惟は、書類を手に受付を離れる。
年に何回か巡ってくる締切りの重なる日。ただ、そんなことはスケジュールが頭に入っていれば逆算できるもので。
室長の助手を長年勤めている酉惟は何ヶ月も前から当然気付いていて、段取りに抜けはないはずだった。
それなのに──こともあろうか、釈来のデスクが渋滞を起こしている。
「何を手伝いますか?」
こっそり抜いていた手のかかる書類の仕上げた物を渡し、問う。すると釈来は一瞬目を見開いたが、すぐに分厚いファイルを一冊持ち上げた。
「ありがとう。じゃあこれ、適当にわけておいてくれる?」
「はい」
酉惟が受け取るころ、周囲で釈来の『適当』という言葉にザワついていた。確かに、数年しか付き合いのない者たちからすれば、指示が曖昧すぎるのだろう。
けれど、酉惟からすれば造作のないこと。受付に戻ると華麗な手さばきで書類をわけていく。
釈来の手順を考え、並び替えを行う。──何十年の付き合いどころか、酉惟の師だ。釈来の癖はしみついている。
そんなふたりの関係性を毛頭知らない者からすれば、こうも言いたくなったか。
「酉惟さんって、釈来さんのことが好きですよね?」
小休憩中、今年この研究室に配属になった新人が、軽率なことを言った。
「君に答えることじゃない」
酉惟にとっては通常運転。
ただし、付き合いの浅い者にとって酉惟の無愛想は、冷たい態度として度々取られる。
この新人も、そんな数多いひとりだった。数秒固まり、息を吹き返したかと思えば、釈来へと一直線だ。
酉惟はそんな後ろ姿を目で追って、ため息をひとつ。そうして浮かべる疲労感には、諦めが強く滲んでいた。
新人の荒い声が響く。
「あんな人と一緒に仕事できません。この職場、空気が悪くないですか?」
折角コミュニケーションを取ろうと思ったのに──なんて言葉が聞こえそうな勢いだ。
けれど、釈来は勢いで返さない。ゆるりと視線で新人を捉える。
「酉惟さんはただ、『私を恋愛対象として見ていない』なんて、あからさまに言えなかっただけじゃないかしら?」
つい、酉惟の顔が上がった。
「彼は確かに人見知りなところがあるけれど、彼なりに周囲には気遣った言動をしていると……したと私は思っているのよね。だって、もしよ? 私が『あなた、あの人のことが好きなんでしょ』なんて大声で言ったら、返答に困らないかしら」
にっこりと微笑む釈来に、酉惟は──こういう人だから個人的な感情を変えられないのだと、強く思い知る。
仕事の定刻を迎え、順調に研究室からほとんどの者が退室していった。ちょうど釈来とふたりだけになったタイミングで、酉惟は口を開く。
「何か、あったんですか」
ポツリと落とした呟きはきちんと釈来に届き、けれど釈来は苦笑いを浮かべた。
「結婚、することにしたんですって」
「誰がです?」
すぐに聞いてしまったからか、『あはは』と釈来は楽しそうに笑った。
「馨民よ。……充忠くんとね」
少ししんみりと言った釈来の気持ちが、手に取るように酉惟にはわかってしまった。
釈来のひとり娘の馨民は、ずっと現君主を想っていた。それこそ、物心がつく前からで、母と娘で恋の話に花を咲かせていたのをよく知っている。
だからと言って、釈来の娘が『決めた』と言うのなら、酉惟に言える言葉はひとつしかない。
「おめでとうございます」
『はは』と軽い笑いを釈来がする。
よく知っている。釈来は、現君主の父を──それこそ、物心がつくようなころからずっと、想っている。
だからこそ、娘には一途な想いが叶えばいいと想っていたのかもしれない。いや、もしかしたら、娘と話していて『結婚できる人を選び直せばよかった』と思ったのかもしれない。
「そうよね……うん。ありがとう、酉惟さん」
ズキズキと酉惟の胸は痛む。
「あの……残業をするなら、俺もしますよ」
ふいに釈来が目元をこする。
「酉惟さんって……やさしいわよね」
気付かないふりをしようと酉惟はしたが、そうできないほど釈来が同じ動作を繰り返す。
「前言撤回します。俺がやるんで、釈来さんはあがってください」
釈来が酉惟を見るが、酉惟は目を合わせないよう視界から釈来を外す。
「駄目よ、そんなの」
「駄目とかいいとか、そういうんじゃないんで」
受付から釈来の机まで来た酉惟は、一瞥して一山の書類を両手で持ち上げた。
「ただし、できるところまでしかできないですから。今日はもうメンタル調整に全振りして、明日からまたカラッと晴れた状態で室長してください」
視線を向けずに淡々と酉惟は言ったが、視界の端で申し訳なさそうに釈来がうつむいた。
だから酉惟は行動を変える。
「お疲れ様でした」
書類を抱え、研究室を後にした。
気丈な釈来があれだけ泣いたのだ。すぐには部屋に戻れないだろう。
それにもしかしたら、部屋に戻った方が馨民と話す環境になってしまうかもしれない。
酉惟の作戦勝ちと言うべきか、翌日の釈来は感服するほどの仕事ぶりで。的確に書類を裁き、いつの間にか自らの研究に着手していた。
そうして、後日。
今度は酉惟が目を丸くする。
「酉惟さん、バージンロード……一緒に歩いてくれる?」
青天の霹靂だった。
「え……」
まさか馨民にこんなお願いをされる日がくるとは、想像もしていなかった。
「私からもお願い。酉惟さんが嫌でなければ」
更には釈来まで。──これには、うまい断り文句が浮かんでこない。
だから思わず、こんなことを言ってしまった。
「嫌ではないですが……すみません。少し考えさせていただけますか」
『鬼の門番』と言われるようになったのは、もう二十年近く前のこと。片目を怪我して弱視になって。片眼鏡をしてもなかなか慣れず。
『かわいい』と言われていた噂が何年かして消え、代わりに付いたような呼び名だ。
酉惟は、そんなことを思い出しながらとある場所へ赴き、祈るように手を合わせる。
しばらくし、背後から足音が聞こえて鼓動が高ぶる。意を決して振り返ると、そこには──。




