第19話 もう一波乱起きる予感
「――くん、お――どう――とわ――ん、兎和くん、大丈夫?」
パチンと音が鳴り、柔らかくて冷たい感触が両頬に触れる。
次の瞬間、椅子に座ったまま虚無の淵を彷徨っていた僕の意識が帰還を果たす――同時に、美月の綺麗な顔で視界が埋まった。それも、至近距離。
甘くて透き通ったような香りが鼻に届く。そこで自分の顔が、彼女の両手でむにゅっと挟み込まれているのに気づく。
「うぉえ……美月? あれ、ミーティングは?」
「とっくに終わったわ。まったく生気を感じられなかったけれど、ちゃんと生きてる? もしかして体調が悪い?」
「あ、いや……その……」
スタメン落ちしてキミの期待を裏切った、ごめん――なんて言って頭を下げれば、優しい美月はきっと許してくれる。
けれど、それは違う気がする。さんざん世話になっているくせに失敗したのだから、きちんと罰を受けないと。
「そう。じゃあ、落ち着くまでここにいましょうか」
美月は両手を離し、おもむろに隣の席へ腰掛けた。続けて視聴覚室の前方へ顔を向け、「私が付き添うので、山田くんたちは戻っていてください」と告げる。
僕もつられて視線を動かすと、少し真面目な顔の玲音と目が合う。周囲には、彼と仲がいいチームメンバーたちが揃っている。
さらに視線を後ろの廊下へ飛ばす。こちらの様子をうかがう白石くん派閥の面々の姿が見えた。
「わかった、ここは神園に任せる。兎和も何かあったら遠慮なく連絡してくれ。俺は味方だということを忘れるな」
僕の心情に配慮してくれたのか、ありがたくも玲音は皆を連れて場を離れようとしてくれた……ところが、すかさず待ったの声がかかる。
「――いやいや、二人だけを残すのはマズいだろ。神園に何かあったらどうする」
集団より進み出てきて異を唱えたのは、もう一人の白石くんだ。
意中の超絶美少女が、自分以外の男と二人きりになるのを許せないのだろう。もっとも、相手が僕であれば取り越し苦労でしかないが。
「おいおい。シロタカよ、そりゃあ野暮だろ。だいたい兎和は、ヤリチンのお前と違って誠実なんだ。別に二人をここに残したって、そうおかしな話にはならねえよ」
「はァ!? 誰がヤリチンだ……! つーか、関係ないヤツがしゃしゃり出てくんな!」
「俺は兎和の相棒だぜ? バリバリ関係者だ。で、お前はどうだ? そっちの理屈でも、引っ込むのはお前の方だろ」
「テメエ……黙れ。俺には、チームの代表者として見届ける責任がある! 不祥事があれば全体の問題だ」
対峙してにらみ合う二人。
身長180センチ近い玲音が、やや背の低い白石くんを見下ろす形となる。
空間を裂いて交錯する視線。瞬時に緊張感が高まり、場に居あわせたメンバーは息を潜めて成り行きを見守った。
身内贔屓かもだが、玲音の瞳には燃えるような闘志が宿っているように思えた。
一方、白石くんも負けじと威圧感を放つ……が、少し戸惑いが見られる。
無理もない。あの南米ハーフイケメンには謎の凄みがある。僕なんて、初めて会話したときに何かの能力者ではないかと勘ぐったほどだ。
すると直後、玲音は口端を上げて不敵に笑う。余裕のある態度を示し、心理的なプレッシャーをかけたのだ。
そこで、ついに白石くんの肩が下がる。あわせてふっと息を吐き、視線を逸らす。
「……まあ、今は見逃してやる。絶対に変なことすんなよ」
渋い表情を浮かべた白石くんは、派閥メンバーを連れて廊下の向こうへと消えていく。玲音もこちらに向かってサムズアップを送り、やはり仲間たちと共にその場を離れた。
こうして、視聴覚室に残ったのは僕たち二人だけ。
「あれが男の戦いなのね。なんか、迫力満点だったわ」
珍しいものを見られた、と美月はご満悦。しかしすぐに引き締まった表情でこちらへ向き直るや、優しく「何があったの?」と問いかけてきた。理知的な輝きを秘めた青い瞳に射抜かれる。
どう伝えたらいいのか迷い、視線をそらす……とはいえ、僕なんかの小細工が通じる相手ではない。無言だったにもかかわらず、あっさり内心を悟られてしまう。
「もしかして、スタメンに選ばれなかったから落ち込んでいるの?」
「…………僕を罵ってくれ。できるだけ汚い言葉で、二度と立ち直れないくらいに。何なら、そのへんのイスを使ってぶん殴ってくれたら嬉しい」
「また変なこと言いだしたわね。私を犯罪者にでもしたいのかしら」
「違う……僕は雑魚雑魚モブヤロウなんだ。あれだけ世話になっておきながら、この体たらく。救いようがないだろ」
「もう、自虐しないの。そもそも、まだトラウマは克服中でしょ? 永瀬コーチもロングスパンで考えているわよ。それにこう言っては何だけれど、ユニティーリーグのプライオリティは高くない。あくまでU16世代の顔合わせを兼ねた育成リーグだもの」
永瀬コーチから裏で聞いたという話を、美月がゆっくり教えてくれる。
僕のことは『年内に起用できれば御の字』くらいのもので、遅くとも高校2年時の主力として機能していれば問題なし。起用の目処がまったく立たないのはさすがに困るが、今すぐ結果を求めているわけではないらしい。
そして現状、無理にスタメン出場させるメリットは見当たらない――むしろ長時間プレーした場合の精神的負荷の方が怖い、と心配されてしまった。紅白戦とは環境が違うから、と。
「焦らずやっていきましょう。大丈夫、私がついている。ていうか、サブメンバーなのだから試合に出場する可能性だってまだあるわよね?」
ユニティーリーグ東京の規定では、最大25名までの選手登録が認められている。しかしその内ベンチ入りできるのは、スタメンとサブ合わせて20名の選手に限られる(監督・コーチなどは別枠)。
では残りの5名は何かというと、怪我などの事態に備えたリザーブメンバー。調子によっては入れ替わるものの基本はベンチ外。他の登録外メンバーと応援に回る。
確かに、美月の指摘は間違っていない。サブメンバーであればベンチ入りし、試合展開によっては出番が訪れるかも……それでも、スタメン落ちの事実が重すぎて。
自分のメンタルが万全な状態だったらと、どうしても考えてしまう。きっと美月と永瀬コーチに喜んでもらえたはず。
家族以外で期待を寄せてくれたのは、この二人が初めてだったのに……こんな機会は生まれて初めてだったのに、どうして僕はこうもダメダメなんだ?
環境が変わって少し前向きにもなれたのに、結局はこのザマ。
怪我が原因であれば、まだずっとマシだった。運がなかったと諦めもつく……しかし僕は、プレー自体は可能。ただ全力を出せないだけ。
やれるのに、やれない。
進みたいのに、進めない。
心と体が噛み合わずに乖離して、魂が引き裂かれていくみたいだ。それに、こんな不甲斐ない自分に猛烈な嫌悪感を止められない。
美月はさらに言葉を尽くして慰めてくれるので、余計に後ろめたさが募る。
ありがたいのに申し訳なく感じ、僕はどう反応したらいいか困ってばかりいた。だから、ある意味助かった。
カーディガンのポケットに収まっていた彼女のスマホが、突然のバイブレーションによって存在を主張し始めたのだ。
「涼香さんだわ。このあと予定があって、車で待ってもらっているの」
「……僕はもう大丈夫だから、気にしないで行ってくれ。あまり待たせちゃ悪い」
スマホを確認した美月に予定を優先するよう告げる。これ以上、時間の浪費はさせられない。
僕も少し落ちつく時間が必要だ。このまま会話を続け、うっかり八つ当たりでもした日にはいよいよ目も当てられなくなる。
「そう……でも、何かあったらすぐに連絡して。一人で塞ぎ込んでいるとネガティブな考えばかり浮かぶものよ。通話は無理でも、メッセージはいつでも見られるからね」
「わかった。ありがとう」
心配そうに振り返りながら、視聴覚室を後にする美月。
それから僕は、5分か、10分か……ただ脱力して、その場でぼうっと過ごす。ちょっと動く気になれなかった。
だが、このまま呆けているわけにはいかない。落ち込むにしても、ここではまた誰かに迷惑をかけてしまう。ならせめて、自分のベッドまで我慢すべきだ。
溶けた鉛を飲み込んだみたいに体を引きずり、僕はひとまず部室を目指す。荷物を回収しなくては。
のろのろと階段を下り、サッカー部専用グランドと通じる渡り廊下に差しかかる――そこで、はたと足を止めた。
「よお、兎和。遅かったな。ちょっと話があるから付き合ってくれよ」
松村くんが、なぜか僕を待ち受けていた。
表情や雰囲気から察するに、もう一波乱起きる予感……それも、特大のやつだ。どうやら、受難はまだ続くらしい。
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