第188話
パアン、と。
スターターピストルが薄曇りの空へ向かって撃ち鳴らされ、大歓声を背に受けて第一走者がスタートを切る。
ついに団別対抗リレー、2年生の部が始まった。
急速に高まる緊張感を口から逃しながら、私――加賀志保は、序盤の展開をうかがう。
好スタートを切ったのは、青団と赤団。それを追う白団と黄団。声援が降り注ぐ中、それぞれが真剣な顔でグラウンドを駆け抜ける。
観客の生徒だけじゃなく、待機エリアで出番を待つ私たちも大盛りあがりで、思わず手の平をぐっと握り込んでしまうほどの熱量が渦巻いていた。
「赤団と青団、いきなり競ってるじゃん。これ、いい感じのタイミングでうちらにバトン回ってくるかも。志保、勝負は忘れてないよね?」
「麻衣……忘れてないよ。私が勝ったら、自主練にもきっちり付き合ってもらうから。覚悟してよね」
私がリレーの展開を見守っていると、同じ女バスのメンバーの『橋本麻衣』が長い髪を揺らしながら近寄ってきて、声をかけてきた。彼女は走順が一緒で、例の勝負を持ちかけてきた相手だ。
元々の仲は悪くなかった。同じ部のメンバーとして、たまにお昼を一緒に食べるような関係で……けれど、私がバスケを頑張りたくなった頃から、何かと衝突するようになった。
確かに、こっちがしつこく居残り練習に誘ったせいもある。それにしても、ちょっとやり過ぎ。聞こえるように陰口を叩くし、校内で軽くハブってくるなんてありえない。
とはいえ、麻衣も本来はここまで悪い子じゃない。ただ今は、ギスっているせいであんな感じに……だから、このリレー勝負で変えるの。
私が勝ったら仲直りして、ちゃんとバスケをやってもらうんだから。それで、本気で公式戦に挑んでもらう。試合で、真剣に勝ち負けを競うんだ。
「本当に、志保も頑固だよね。前は楽しくやってたじゃん。もう高2なんだから、変なこだわりは捨てて現実見なよ。バスケに打ち込んでも、何も起こらないから。今さらだよ……」
何か言い足りなさそうに視線を外し、麻衣は赤団の仲間の元へ戻っていく。
今さら、か……正直、自分でもこだわりすぎってわかっている。それでも、諦められない。だって、今のままの自分では兎和くんに程遠い。
何より、私にはきっと無理。
美月ちゃんみたいに、青春の全部をかけて彼を支えるなんて。
だからこそ、バスケを頑張りたいの。居残り練習はきついし、走るのも、筋トレも、別にそこまで好きじゃない。食事制限とかもう最悪。
それでも、もし本気で何かに打ち込めたら、もし同じように汗だくになれたら……兎和くんの青春の1ページに、私も一緒に映してもらえるんじゃないかって期待してしまう。
同じフィールドには立てなくても、同じ放課後を生きている――そう胸を張って言える自分に変われる気がした。
結局は、ただのわがまま……巻き込まれる方はいい迷惑よね。けれど、何もしないまま遠くで眺めているだけなんてもう嫌なの。
それに、部活に対するモチベーションは自由のはず。まして今回は、相手から勝負を持ちかけてきた。願ってもないチャンスね。
私が全力を尽くすには、十分すぎる理由が揃っている。
このリレーで走るコースは、兎和くんの世界へと続く道なんだ。どうにかして、最高の結果とバトンを一緒に繋ぎたい――そんな私の思いに応えるみたいに、絶好の展開がリレーでも繰り広げられていた。
走順が巡るにつれ、先行した青団と赤団がリードを着実に伸ばしていく。両団はそのままデッドヒート状態。その後を白団が追走し、黄団は大きく遅れを取ってしまっている。
このままいけば、一騎打ちにもつれ込む。
まるでドラマや小説のような流れ……とにかく、状況は理想的。他の青団の仲間たちと一緒に、大声でランナーを応援する。
やがて、私の走順が巡ってくる。
鼓動のテンポは最高潮。内側のレーンのスタート位置につき、口からまた緊張感を深々と吐き出す。
「やっば……マジでこれ、ほとんどタイマン状態じゃん。お互い責任重大だね、志保。勝っても負けて恨みっこナシね」
「うん……お互いにね」
同じ走順の麻衣が、右隣のレーンに立って話しかけてくる。
つい返事がそっけなくなる……悪いけど、今はそれどころじゃない。さっきまで頭にあったごちゃごちゃした考えも、緊張のあまりすっかり吹き飛んでしまった。
私って、こういう目立つ舞台にあんまり強くないみたい。
リレーに選抜されたのなんて初めてだし、おまけに勝負の重圧が……絶対にミスはできないし、したくない。
再び背後へ顔を向けたときには、バトンを持ったランナーがコーナーを曲がってこちらへ迫ってきていた。青団が若干トップを先行し、赤団がそれに食らいつく。やや距離を空けて白団、黄団と続く。
いよいよ勝負の時がきた。
深く呼吸しながら、少し待って……前走者の男子と視線が合ったその瞬間、私は足に力を込めてスタートを切る。
ほぼ同時に、隣のレーンの麻衣も駆け出していた。テイクオーバーゾーンで肩を並べる。
そして、後ろから「はいっ!」とバトンパスの掛け声が飛んでくる――そのとき、ふらりと麻衣が体を寄せてきた。
危ない、と声を上げる間もなく。
どん、と。
「わっ――!?」
私の右肩と、麻衣の左肩が接触。
予期せぬ衝撃を受け、体は大きく外へ傾く。
それでもどうにか踏みとどまれたのは、日頃から運動していたおかげだろう。
だけど、後ろへ伸ばしていた手の平は『ぱちん』と乾いた音を立て――反射的に振り返った私の視界には、青いバトンが人工芝の上に落ちる光景が酷くゆっくり映っていた。
「――私が拾うっ!」
前走者の男子に触れないよう声をかけ、大急ぎでバトンを拾って再び駆け出す。
やっちゃった。こんな大事なところで、失敗しちゃった……絶対に失敗したくないって思っていたのに!
幸いすぐにリカバリーできたから、先を走る麻衣との距離はそこまで離れていない。ひとつ後ろの白団にも抜かれていない。けれど、そう簡単に取り返せる差でもなく……もう、なんで私はこんなッ!
すっと歓声が遠のく。途端に瞳が熱くなってきて、前を向いて走ることができなかった。
悔しくて、情けなくて……自分のせいで負けるのだと思ったら、このままゴールせずにどこかへ消えたくなってきて。
とうとう足を動かす度に、雫が頬を伝っていき――そのときだった。
「加賀さんッ、顔を上げて! まだ負けちゃいない、僕はここにいるぞ!」
最終コーナーを駆け抜けながら、弾かれたように顔を上げる。
雲の切れ間から落ちる一条の光の中に、アンカーの兎和くんが佇んでいた。
私の胸がきゅんと音を立てた――この恋は、きっと一生に一度だ。
だって、上半身ハダカのうえに妙なボディペイントをまとってリレーに参加する人なんて、兎和くん以外にいるはずがないんだから!
***
「なんで、裸なのっ! はいっ――」
「――はい! ペンキ被っちゃったんだ!」
「兎和くん、ごめん……!」
「大丈夫、僕に任せろッ!」
テイクオーバーゾーンで足を動かしながら、僕はしっかりとバトンを受け取る。
正面を向く視界には、先行する赤団の小俣くんの背が――加賀さんは泣いていた。このまま負けたら、きっと自分のことを責めるだろう。
この体育祭が、つらい記憶として刻まれてしまう。そんなの僕は絶対に嫌だ。大切な友人にそんな思いをさせたくない!
何より、こっちには勝利の女神がついている――青団の陣営前を通過するその刹那、僕と美月の視線が結ばれる。
サッカーの試合のときみたいに、最前列で食い入るように見守ってくれていた。そして頭上に掲げられるは、青いタオル。
一瞬後、視界の端に映る美月が凛と情熱を込めた声を発する。
「兎和くん――ゴォォオオオッ!」
特大の声援に合わせ、タオルがひるがえる――青い風がグラウンドを吹き抜ける、そんな幻想が視界一杯に広がった。
同時に自然と全身の力が湧いてきて、僕はぐんと加速する。
わっ、と響く歓声。
空気の音を後ろに感じながら、コースをひた駆ける。
アンカーでよかった。グラウンド一周でよかった。距離が200メートルあってよかった――差し掛かった1つ目のコーナーを全力で通過し、2つ目のコーナーを過ぎた直線で半分詰め、3つ目のコーナー背後につけ、4つ目のコーナーを抜ける直前で完全に追いつく。
小俣くんは足が速い。だが、美月の応援を受けた僕の方がずっと速い!
勝負も大詰め。肩を並べたままラストの直線に突入し、ゴールテープがぐんぐん迫る。
「くっそ、兎和ぁぁぁあああああああああ――ッ!」
「負っけて、たまるかぁぁあああああああ――ッ!」
最後の力を振り絞り、乳酸でパンパンになった両足を必死に回転させる。
ほんの1センチでいい。少しでも先にゴールするため、胸を突き出したまま飛び込む――事実、僕は転がりながらゴールテープを切った。
人工芝に擦れた上体の皮膚が、カッと熱を帯びる。激しく回転していた視界は、仰向けにひっくり返ったところでようやく止まった。
空から降り注ぐ大歓声が鼓膜を震わせ、雲の切れ間に顔を覗かせた太陽がやけに眩しく見えた。
「もう、兎和くんのおバカ! ゴールに飛び込むなんて無茶しすぎ! 怪我はない?」
すぐには動けず、僕は寝転がったまま荒い呼吸を繰り返していた。そこへ観客席を飛び出してきたらしい美月がやってきて、手を差し伸べてくれる。
「ごめん、ちょっと頑張っちゃった……」
その手を取り、心配かけたことを謝りながら立ち上がる。
というか、肝心の勝敗はどうなった……美月に尋ねれば、最後は相当際どかったようで動画判定に託されたらしい。学校宣伝の資料用としてカメラを回していたのだとか。
祈るような気持ちで、そのまま待機すること数分。
ついに、待望のアナウンスが流れる。
『お知らせします。只今のリレー……厳正なビデオ判定の結果、1着は青団に決定しました!』
わあっ、と今日一番の歓声がグラウンドを包み込む。
僕は思わずほっと息を吐く。美月もぱっと笑顔をこぼし、小さく飛び跳ねて喜んでくれた――が、すぐにまた真剣な顔に戻って叱られた。
当然だ。どうしても勝ちたかったとはいえ、最後の胸ダイブは流石にやり過ぎた。上手く転がったから怪我はないが、大事な試合を控えている身でやることじゃない。
「兎和くん! 私、ごめん……足引っ張って……」
美月に反省の弁を述べていたら、加賀さんが申し訳なさそうな顔で歩み寄ってきた。
何も謝る必要なんてない。彼女は、諦めずに全力を尽くしてくれた。だから、僕は笑顔でサムズアップを返す。
「加賀さんが最後まで諦めず走ってくれたから、どうにか逆転できたよ! ナイスファイト!」
「もう、兎和くんは……ありがとうっ!」
ようやく聞きたかった言葉を聞けた。
これできっと加賀さんの状況も変わるはず。それに、個人的な勝負にもケリがついて大満足。
僕たち三人はまた言葉を交わしながら、自然と笑い合っていた。すると今度は青団のリレーのメンバーたちに囲まれ、なぜハダカなのかと盛大にイジられた。
おまけに、驚きのアナウンスが聞こえてくる。
『続けてお知らせします。先ほどの団別対抗リレーにおいて、テイクオーバーゾーンでのレーン妨害が確認されました。よって、赤団は失格となります』
落胆の悲鳴と喜びの声がグラウンドに飛び交う。
赤団はかなり点数をのばしていたので、2着でも総合優勝を狙える位置につけるはずだった。しかし失格となれば、致命的な足踏みとなる。
「話が違うじゃん! 体が当たったくらいじゃ反則にならないって!」
「ち、ちげーだろ!? ちょっと体を入れて駆け引きしろって――」
「アンタが指示したんでしょ!」
僕たちが盛り上がりながら観戦席に戻る途中、赤団のリレーメンバーの陣営から何やら不穏な会話が……人の隙間から様子をうかがうと、小俣くんと女子二人が揉めている。しかも片方の髪の長い女子は、加賀さんと衝突した生徒だ。
どうやら良からぬ企みがあったらしく、周囲からも非難轟々だ。
さらにそこで、急に姿を現した白石(鷹昌)くんがトドメをさす。
「颯太、お前……そういうところだぞ、モテないの。加賀にちゃんと謝ってこいよ」
「鷹昌、本気で今は黙っててくれ……」
白石くんの発言に同意するみたいに、『最低』だの『卑劣』だのとヒソヒソ声が聞こえてくる。陰口みたいで気分はよくないが、きちんと反省してほしい。
もちろん僕も怒っている。下手すれば加賀さんが転んでいたかもしれないし、体育祭の思い出が台無しになるところだった。
とにかく、小俣くんのせいで場の空気は最悪に……だが、その直後。
不穏な空気を変えるみたいに、こちらの陣営の誰かがポロッと呟く。
「ていうか、兎和のアレ。上半身ハダカにめちゃくちゃなボディペイントって、完全に蛮族の王様のスタイルじゃね?」
「つまり……兎和はやっぱり、モブ王だったってこと?」
いや、ボディペイントじゃないんだが……しかし不意の雑談から生じたしょーもない発想は波紋のように広がり、瞬く間に観戦席を駆け抜ける。
やがて生徒たちの盛り上がりは天井を突破したようで、こぞって腕を振り上げながらくだらない異名をコールし始めた。
『モブ王! モブ王! モブ王! モブ王! モブ王! モブ王――』
おい、今年も結局それかよ!?
なんかもう、一周回って好きになってきちゃったよ。とりあえず僕も両腕を振り上げ、雄叫びを発して全力でノッておいた。すかさず大爆笑が起きた。
観戦席に戻ってからも手荒い祝福は続いた。並行して僕の『上半身ハダカ』を巡る審議が行われたけれど、去年に続き体育祭実行委員長の「面白いのでオーケー!」という一言で丸く収まった。
以降もプログラムは順調に進んでいく。
そして三年生たちの団別対抗リレーを経て、穏やかな暮れの中でフィナーレを飾る閉会式が実施された。昼過ぎまでの曇り空が嘘のようだ。
『それでは、総合結果を発表します。今年の優勝は――白団に決まりました!』
わああああっ、と大歓声がグラウンドを震わせる。
アナウンスに合わせ、沼田さんを中心に修繕した得点板がお披露目された。青団も健闘したものの、総合二位にとどまった。
まあ、そりゃそうだって感じ。今年の白団には、サッカー部の部長である堀先輩をはじめ、玲音や拓海くん、大桑くん、池谷くん、小川くん、後輩の寿輝くんなど、多くのサッカー部メンバーが名を連ねていた。要するに、総合力で圧倒的だったのだ。
こうして、高校に入って二度目の体育祭は、熱気が冷めやらぬうちに閉幕した。
個人的にも本当に楽しめた。最後の最後に、優勝を逃してふくれっ面をする美月まで拝めたのだから、もう言うことナシである。
また一つ、忘れられない素敵な思い出が増えた。
夢の青春スクールライフにも、間違いなく近づけた――そんな充実感を、僕はそっと噛みしめるのだった。
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