第187話
プログラムは、そのまま二年生の騎馬戦へ突入。
ここで、美月が不意に席を立つ。しかも僕の服の袖を引っ張りながら。
「なになに? どうしたの?」
「沼田さんがちょっと気になって。兎和くんも付いてきて」
皆に断りを入れて席を離れ、小走りでグラウンドの外周を移動しつつ理由を聞く。
先ほどまで青団陣営の最前列で声援を送っていた沼田さんが、スマホを確認した直後に神妙な顔つきで校舎の方へ駆け出していったらしい。
もしやトラブルだろうか……と心配が胸をかすめた、その矢先。
グラウンド脇の裏にある備品保管スペースを指さして、美月が「あそこにいた!」と声を上げる。
見れば、沼田さんのそばに健太郎くんの姿もあった。二人は、ひときわ豪華で背の高い『得点板』の前で何やら相談中みたい。
「智美ちゃん。何かあったの?」
「あれ、美月ちゃん。それに白石兎和も。もしかして、心配してきてくれたの? ごめんね、ちょっとトラブルが……」
「よかったら事情を聞かせてもらえる? 私たちにもお手伝いさせてちょうだい」
背後から近づき、美月が真っ先に声をかけた。
そのまま何があったのか聞けば、沼田さんが「実は……」と目の前の得点板を指差す。促されてよく確認すると、上部がごっそり破損していた。
「これは、総合発表で使う特別な得点板なの。最近雨が多かったから校舎内で保管していて……お昼休みにこっちへ運んできたんだけど、そのときにガッツリぶつけちゃったみたい。で、手の空いていた私が修繕を請け負ったってわけ」
なるほど、それは大変だ……総合発表といえば、体育祭のフィナーレ。しかしこの特別な得点板が損傷したままでは、どうにも締まりが悪い。
これじゃあ3年生たちの思い出にケチがつく……すなわち、青春の傷に他ならない。だったら、絶対にどうにかしないと。
「……よし、直そう。僕も手伝うよ。健太郎くんだって、そのつもりだったんだろ?」
「当然だ。沼田、指示をくれ」
「みんな……ありがとう。凄く助かる」
「ううん。こちらこそありがとう、沼田さん。誰もやりたがらない実行委員を引き受けてくれたんだもの。このくらい、私たちにもお手伝いさせて」
美月の言う通り。クラス委員を決めたときもそうだけど、沼田さんは誰もやりたがらない役割を率先して引き受けてくれている。おかげで、2年A組の雰囲気は最高だ。
去年の文化祭でも思ったけど、本当にいい人だよな。
「沼田さん、やっぱりキミはすごい! よく知る前は、ただの筋肉フェチ(プロレスマニア)で欲望に忠実なヤバい奴だと思ってたけどさ!」
「白石兎和……垂直落下式ブレーンバスターかますぞコラ!」
サムズアップしながら褒めたのに、なんか怒られた……健太郎くんにもジト目を向けられる。
続けて美月が気を取り直すように「さあ、始めましょう」と合図を出し、作業が開始された。
とはいえ、完璧に修繕するには時間も材料も足りない。そこで、軽く補強した後に水性ペンキで塗装し、損傷部を可能な限り目立たなくする方針がとられた。これも美月の提案だ。
実際に刷毛を持ったのは、沼田さん。
絵心に溢れた彼女が、脚立に乗って丁寧に作業を進めていく。下で支えるのは、僕と健太郎くんの役目。美月はペンキの缶を運んでくれている。
やがて、得点板の損傷は目立たなくなった。
この完成度なら、総合発表に使っても問題はなさそう。十分カモフラージュできている――と僕がホッと息を吐いた、その瞬間。
「うわ、ごめ――よけてっ!」
沼田さんが健太郎くんに、青のペンキ缶を受け渡そうとしていた。だが、うっかり手元が滑ってしまったらしい。体勢がやや不安定なせいもあっただろう。
目測を誤り、まあまあな高さから落ちてくるペンキ缶。
タイミング悪く、その直下にいたのは美月――反射的に体が動いていた。脚立から手を放し、僕は彼女を抱きしめるようにして覆いかぶさる。
ほんの僅かな間を空け、バシャリ。
生暖かい液体が背中を伝っていく感触に続き、軽い音を立てて缶が足元に転がった。
「……兎和くん、大丈夫!? 怪我はない?」
「あ、うん。ぜんぜん問題ないっぽい。美月こそ、ペンキ被ってない?」
「しぶきひとつ飛んできてないわ。かばってくれて本当にありがとう」
すぐに距離を取り、お互いに無事を確認する。
咄嗟の勢いとはいえ抱きついてしまった。鼓動がちょっとヤバい……背を向けて、胸に手を当てつつ気持ちを落ち着かせる。
しかし再び美月の悲鳴めいた声が響き、またも心臓が小さく跳ねた。
「ちょっと兎和くん、背中が大変なことになってる! ぜんぜん大丈夫じゃない!」
「うわっ、ちょ!? 引っ張るなって!」
背後からぐいっとプラシャツを引っ張られる。
何事かと首をひねって確認すると、背中に付着した青のペンキが視界の端に映る。この美月の反応からするに、全面がこの状態らしい。
それならば、と僕はプラシャツを脱いで上半身ハダカになる。
思った通り、真っ青だ。水性ペンキだから洗えばまた使えるかな。
ついでに腕を回し、背中に直接触れてみれば……べチャリとした感覚が。うっかり手の平も真っ青。いつものクセで、自分の体にこすりつけて拭ってしまった。
下手くそなボディペイントをまとった僕を見て、美月が「なにやってるの!?」と目を丸くする。
「兎和、スマン!」
「ごめん、私のせい! 美月ちゃん、大丈夫だった? 白石兎和はどう……相変わらずいい筋肉ね」
ふと欲望を覗かせる沼田さん……やめてよね。せっかく心配してくれていた健太郎くんが、すごい顔で見てくるじゃないか。彼の恋の行方が気になるところだ。
それはさておき、校内のシャワー室でペンキを洗い流してこようかな。
事情を話せば、先生も使用を認めてくれるはず。着替えは、部室に予備があるから問題ない――そう美月に伝えて移動しようとしたが、生憎とそんな時間はないらしい。
『団別対抗リレー・二年生の部の出場者は、所定の待機エリアに集合してください』
アナウンスが流れ、次の競技の招集がかかった。
つまり、僕の出番だ……ここで一人遅れて、プログラム進行を妨げるわけにはいかない。
それこそ先輩たちに迷惑がかかる。ましてや、ちょっとペンキを被っただけ。走るのに支障があるわけでもなし。
「美月、ちょっといってくる!」
「ちょ、うそでしょ!? せめて私の服を……」
そりゃ無理だ。どう考えてもサイズが合わない。しかも美月が上半身ハダカになってしまう……いや、絶対にダメだろ。
そもそも、僕はもう慣れきっている。イベントの度になぜか脱がされてきたせいか、逆に落ち着くほどだ。なんなら、全裸でも問題ないくらい。スクールライフが終わるから、最後の一線は死守するつもりだけれども。
「まあ、仕方ないか……あ、兎和くんストップ! 頭を低くしてちょうだい」
集合場所へ向かうべく足を動かそうとしたら、急に美月に引き止められた。続いて、ちょいちょいと手で少しかがむよう指示される。
いったい何を……と不思議に思いながら従ってみれば、少し背伸びした彼女が腕を伸ばしてきて、するりと僕のハチマキが外される。額が空気に触れ、汗が乾く。
「これって……もしかして、去年と一緒?」
「そう、去年と一緒」
言って、ポケットから取り出した自分の青のハチマキを広げる美月。
続けて、息が触れそうな距離まで互いの顔が近づく。その細い指先が僕のこめかみをなぞり、後頭部にゆっくり結び目を作っていく。
「去年もハチマキを交換して勝ったでしょ? だから、勝利のおまじない。怪我なく一番で戻ってきてね」
「他の人の影響もあるから、確約はできないけど……もしトップを狙えそうな順位でバトンがまわってきたら、僕がゴールテープを切るよ。応援頼む」
「ふふ。よくできました、100点ハナマルね! 私もすぐに戻って、最前列で応援するから」
去年はただハチマキを交換しただけだ。けれど今年は、こうして巻いてもらえた……どんなエールよりも、よっぽど力が湧いてくる。かなり気恥ずかしくてすぐに離れてしまったものの、おかげでアンカーの重圧を闘志が凌駕し始めた。
「じゃあ、今度こそいってくる」
「うん、いってらっしゃい」
柔らかく微笑む美月に見送られ、僕はその場を離れる。
沼田さんと健太郎くんも、背後から『頑張れ!』とエールを送ってくれた。あえて振り向かず、サムズアップを返す。
すぐにリレーの待機エリアへ到着する。こちらは応援席の前だ……そのせいで、多くの生徒に『またハダカだ!』と指をさされて大笑いされた。案の定の反応である。
そんな騒ぎの中、呆れたような顔をした小俣くんが歩み寄ってくる。
「お前、なんでいつもハダカなんだ? しかも下手くそなボディペイント……きったねえし、意味わかんねーよ」
「あ、小俣くん。ちょっとトラブルがありまして……」
「ほーん……まあいいや。それより、勝負するためにわざわざアンカーを譲ってもらったんだ。覚悟しておけよ。今日ひとつ勝って、まずは神園に俺という存在を見せつけてやる」
勝負をふっかけてきた段階でわかってはいたが、あからさまに美月を意識している……だったら、余計負けるわけにはいかない。
リレーは個人競技じゃないから、他の走者次第なところがある。だとしても、自分が勝負を決めるつもりでしっかり走ろう。
「小俣くん。お互い全力を尽くそう」
「はっ、そうやって調子に乗っていられんのも今のうちだ。いずれ部のエースの座も俺がいただいてやる」
小俣くんは捨て台詞を残し、赤団の仲間の元へ戻っていく。
僕は気持ちを切り替え、リレーの待機エリアに立つ。それから美月が巻いてくれたハチマキにそっと触れつつ、コースへ視線を向ける。
リレーのアンカーはグラウンドを一周する。距離にして、およそ200メートル。本当の得意は短距離だが、わがままも言っていられない。
コース反対の待機エリアの様子をうかがうと、加賀さんの姿が。あちらは運営本部前からスタートだ。きっと彼女は、トップを狙える位置でバトンを繋いでくれる――僕はそう強く信じている。
軽く体を動かしてアップしながら、集中力を高めていく。青団の他のリレーメンバーも付き合ってくれた。優勝を目指すチームの士気は高い。
僕は深呼吸をして、再びコースへ目を向けた。
絶対に負けられない戦いが、ここにある。
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