八
半年ぶりに会った母はかなりやつれていた。ここ数年に起こった出来事……特に今回のことは、小さい会社でも社長夫人だった女には、耐えられないことだろうな、と想像はつく。
あの黄色い壁の大きな家の花壇を手入れしていた頃には、穴の開いたプラスチック板ごしに娘と向かい合う日が来るなんて、思ってもみなかっただろう。
たった半年で親子は他人になるのだろうか。会ったらどんな気持ちになるだろうと思っていたのに、なんの感慨も浮かばないまま、梓は冷めた目で母を観察した。
「ごめんね、梓。本当にごめんなさい。ママも苦しかったのよ、許してちょうだい」
母はぼんやりとした目で言った。ヤドカリの目ではなかった。許してと言いつつ、もう諦めているように見える。
「パパは小学生の頃から、私をレイプしてたよね」
低い声で言うと、母の目に少しの感情が戻ったように見えた。梓は静かに続ける。
「ママが見てたの、知ってた。でも、ママは何も言わなかった。パパが死んだら、リョウが来て、リョウも私をレイプした。ママに見られて……その時はママ、怒ったでしょ」
梓は淡々と話した。日に灼けた黒い肌の看守が聞き耳を立てたのがわかる。母は膝の上の手を揉み合わせながら、ゆっくりと体を横に振った。いやいやをする子供のようだと思う。
「お前なんか産むんじゃなかったって言った。私はもう要らないんだって思ったから、死のうと思っただけ。それだけなの。大好きだよ、ママ。あの日もそう言ったじゃない」
梓が言うと、母は嗚咽を漏らして机に突っ伏した。そうじゃない、とか、ごめんなさい、と小声で繰り返している。「ばばあのくせにキモ。死ねばいいのに」といつか言ったのは恵梨だったか。
薬を飲んで瀕死だった梓は、いつも部屋を覗き込んでくる大学生によって救出された。病院はすぐに性犯罪を疑って警察に連絡をし、梓は事情を聴くためにやってきた婦警に陽介の安否を尋ねた。
不審がる婦警に陽介の生徒手帳を見せて、陽介が居なくなった日に何故か家の前に落ちていた、家に来たのかもしれない、と言った。
恐らく、藤間家に恨みを持つ者のリストに、母は入っていたのだろう。警察はすぐにアパートの部屋を調べ、ごみ袋の中から泥の付いた服と、ご丁寧に住所まで書かれたキーホルダーの付いた鍵、そして切り抜かれた雑誌を見つけた。
陽介が救い出されたのは、梓が彼を土に埋めてから二十四時間ほど後のことだったという。物置小屋の中からはリョウの精液や、母の毛髪などが発見された。まもなく、母はパート先で、リョウはパチンコ屋で逮捕された。
二人は今も容疑を否認しているが、証拠がそろい過ぎている。何より、陽介が二人の犯行だと証言した。
「でも、それはいけないことなんだって。私はママに怒らないといけないんだって」
母はもう何も聞いてはいまい、と思いながら梓は続けた。ずっとそうだった、自分に都合の悪いことは見えないし、聞こえない人なのだ。
「ママを嫌いにはなれない。だから、私にはママはいないと思うことにしたの。だから、ママにも娘は居ない。そう、思ってください」
梓は看守に視線を送る。もういいんですか? 聞かれて頷いた。
「梓、本当のことを言って。あなたなんでしょう? ねえ、ママを助けて」
母は縋るような目で梓を見る。梓の携帯には二人の虐待の様子が動画で保存されていた。彼氏が行方不明になったことで心の支えを失い、虐待に耐えることができなくなって致死量の睡眠薬を飲んだ女子高生。母とリョウが何を言っても、梓が疑われることは無かった。
「さようなら、ママ」
梓はまっすぐに母の目を見返す。一滴の涙も出なかった。梓は静かに立ち上がり、母に背を向ける。灰色の面会室を出て、長い廊下を歩いた。
「うそつき! 悪魔! お前なんて生むんじゃなかった! ねえ、私じゃないんですよ。あいつが、全部あいつが!」
母の叫ぶ声が、ををん、ををん、とコンクリートの廊下に木霊した。
塀の高い建物の外に出ると、春の日差しが優しかった。汚れたコンクリートの壁に寄りかかっていた陽介が、梓を見つけて走り寄ってきた。彼が犬なら尻尾が揺れているだろうと思う。
「梓、大丈夫だった?」
「うん、案外平気だった。ありがと」
梓は陽介の腕に手を絡める。
「全部、陽介のおかげ」
「あんときはマジで死ぬかと思ったし」
「ごめんって何度も言ってるでしょ」
ただでさえ甘かった陽介の親は、ひどい目に合った息子の希望ならば、と何でもかなえてやるようになった。梓は今、陽介が親に買い与えられたマンションから高校に通っている。もちろん、二人の交際が続いていることは、陽介の親にも周囲にも内緒だ。二人しか知らない、何の証拠もないことだ。
ぶうん、とミツバチが飛んできて、梓が居ることに驚いたようにして逃げていった。自分も、陽介も、別に死んでもかまわなかった。だが、こんなにいい天気の日に気持ちよく散歩ができるのだから、死ななくてよかったという気もする。
陽介とて、もし死んでいたら代わりの男を見つければいいだけだったが、これほどの優良物件を探すのは難しいように思われる。お金を持っていて、それなりの顔立ちで、何より梓に従順だ。隣の大学生では携帯代を払うくらいが関の山で、就職したとしても今のような生活はさせてはもらえないだろう。見た目も汚らしいし、どことなく偉そうなのも気に入らない。
こっちで良かった、と思う。甘ったれの陽介はちゃんとした社会人にならないかもしれないし、親の会社だっていつどうなるかわかりはしない。だが、そのときはそのときだ。
「帰りなんか食ってくか」
「えー、なんか作るからいいよ。帰ろう」
「梓は将来、厳しい奥さんになりそうだよな」
奥さん、と言われてヤドカリの目をした母が浮かんだ。通りの商店のガラスに映る自分を見る。ヤドカリの目をしていた。返事をしない梓を陽介がちらりと見たので、梓はにっこりと微笑んだ。
「このお店、ちょっと見たいな」
「話、聞いてないのかよ」
「ごめん」
笑ながら立ち止まった二人の横を、赤いランドセルを背負った少女が走って追い抜いて行った。その後ろを二人の中学生が、春風にスカートをもて遊ばれて笑いあいながら歩いていく。
――パパ、ごめんなさい。昨日先生にパパと私がしてること話しちゃったの。これってセックスって言うんだって。でね、先生が今度パパと話をしたいんだって。
ゆらゆらと揺れて遠ざかる少女たちを見ながら、そういえばあのヤドカリの黄色い貝は一体どこに行ったんだろう、と梓は思った。