第3話 便所のフライトと二度のドタキャン
休日の昼下がり。
池袋にある高級デパートの男子トイレの個室で、俺は息を潜めていた。
周囲からは、上品な服を着た客たちが手を洗う水音や、小便をする音が絶え間なく聞こえてくる。
俺は洋菓子店の紙袋から、シワだらけのペラペラなパイロット制服と、ツバがひしゃげた安物のパイロットキャップを引っ張り出した。
自分のカビ臭いアパートなんかで自撮りしたら、背景の汚さで一発で底辺だとバレる。
かといって外の自然光に当てれば、三千円の安物の生地が透けてしまう。
だからわざわざ、照明が明るくて壁が綺麗なデパートのトイレの個室に籠っているのだ。
便器の横の狭いスペースで、窮屈な思いをしながらヨレヨレのジャケットを羽織る。
3日に1回しか洗わないベタつく髪を隠すように、型崩れしたパイロットキャップを深く被り込んだ。
「よし……」
スマホのインカメラを起動し、背景のタイルが一番「空港のラウンジ」っぽく見える角度を探す。
ひしゃげたキャップのツバを指で真っ直ぐに直すフリをしながら、顔にエリートらしい余裕の笑みを貼り付け、シャッターを切った。
隣の個室から流れてくるウンコの臭いに顔をしかめながら、俺は最高の「奇跡の一枚」をアプリに送信した。
『今、フランクフルトの空港に着いたところだよ。フライト疲れがキツイけど、君からのメッセージを見ると癒されるよ』
送信相手は、あの男日照りの30代女だ。
数分後、すぐに女から返信が飛んできた。
『谷口さん、お疲れ様です!制服も帽子も、すごくお似合いでカッコいいです……!私なんかとやり取りしてくれて、本当にありがとうございます』
「ヒヒッ……馬鹿が。他人のウンコ嗅ぎながら撮ったコスプレ写真とも知らねえで」
便座に座り込みながら、俺は声を殺して下品に笑った。
この数週間、俺は女の警戒心を解くために、ネットで拾い集めた「パイロットの孤独」や「真面目な君の美しさ」みたいなコピペ文章を毎日毎日送り続けていた。
「こんなエリートが、どうして私なんかを?」という女の不安は、いつの間にか「私だけが彼を癒せるんだ」という狂った依存に変わっている。
そして俺は、ここからさらに女を沼の底へ引きずり込むための「仕上げ」に入った。
『来週の金曜、やっと日本に帰れる。もしよかったら、少しだけ会えないかな?』
女の返信は、画面越しに興奮と緊張が伝わってくるほどの長文だった。
服を買います、美容室に行きます、と舞い上がる女。
だが、約束の金曜日の夜。
俺は待ち合わせ場所のオシャレなカフェには行かなかった。
代わりに、鹿浜のボロアパートで半額のカップ麺をすすりながら、こう打ってやったのだ。
『本当にごめん!急な機材トラブルで、フライトが延びちゃって……今、まだロンドンなんだ。君に会えなくて本当に辛いよ』
一時間後、女から届いたのは怒りのメッセージではなく、気遣いに満ちた健気な言葉だった。
『気にしないでください!お仕事ですから仕方ないです。谷口さんが無事に帰ってこられるのを、ずっと待ってますから!』
「……くぅ〜っ、たまんねえな!」
ズルズルと安いカップ麵をすすりながら、俺はスマホの画面に唾を飛ばして笑った。
わざとドタキャンする。これを二回繰り返した。
女は綺麗にメイクして待ちぼうけを食らうたびに、「彼は世界を飛び回る忙しいエリートなんだ」と自分を納得させ、逆に俺への執着を深めていった。
二回目のドタキャンの後なんて、「私、谷口さんに会えるなら何時間でも、どこででも待ちます!」なんて重苦しいメッセージまで送ってくる始末だ。
もう、完全に俺の手の平の上だ。警戒心なんか微塵も残っちゃいない。
あとは実際に会って、適当な理由をつけて金をむしり取るだけだ。
「さて……そろそろ、エサ食いに行くか」
鼻糞をほじりながら、俺は三度目の正直となる待ち合わせの日程を送信した。
自分が、「休日のエリート」を気取った時代遅れの私服に、うっかりいつものドロドロの『安全靴』を履いたまま女の前にノコノコと現れ、そこから地獄のドミノ倒しが始まることなど、この時の俺は知る由もなかった。
続く




