第26話 ドブネズミの逃走と手ぶらの絶望
「3……2……1……!」
無慈悲な電子音がゼロを告げた瞬間、俺の頭の中で何かが弾け飛んだ。
「う、うわあああああああっ!!」
俺はアスファルトに散らばった2000万円の札束からバッと手を離し、全速力で駆け出した。
背後で「おい、君! 待ちたまえ!」という警察官の鋭い怒鳴り声が聞こえた。
さらに、周囲の野次馬たちの「うわっ、すげえ金!」「泥棒か!?」というざわめきが背中に突き刺さる。
振り返る余裕なんてない。とにかく逃げなければ。
捕まれば、結婚詐欺から何から全てが明るみに出る。俺の華麗なるエリート人生が完全に終わってしまう。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……!」
喉に血の味が滲むほど走り続けた。
大通りを避け、入り組んだ裏路地を這うように進む。
途中で右足に鋭い痛みが走った。
見下ろすと、あんなに自慢気に履いていた15万のイタリア製高級革靴が、走る衝撃で片方どこかに脱げてしまっていた。
だが、拾いに戻る暇などない。
俺は泥水が溜まるアスファルトを、高級な靴下越しに裸足で踏みしめながら、ただひたすらに逃げ続けた。
どれくらい走っただろうか。
繁華街から遠く離れた、飲食店の裏手にある薄暗く臭いゴミ置き場の陰。
そこに転がり込むように身を隠し、生ゴミの悪臭に吐き気を催しながら、俺は荒い息を整えた。
「……助かっ、た……。ま、撒いたぞ……」
仕立てのいい30万のオーダースーツは泥と汗で汚れ、見る影もない。
だが、とりあえず警察の追手からは逃げ切ったはずだ。
俺は震える手で胸ポケットに手を入れた。
ひとまずタクシーを拾って、どこか遠くへ逃げなければ――。
「……あ?」
無い。 尻ポケット、ズボンの前ポケット、ジャケットの内ポケット。
全てを狂ったように探りまくる。
「嘘だろ……財布が、無い……ッ!」
一気に血の気が引いた。
さっきパニックになって2000万円をかき集めようとした時、胸ポケットから滑り落ちたのに気付かなかったのだ。
現金はおろか、キャッシュカードも、クレジットカードも、運転免許証などの身分証明書も、全てあの財布の中だ。
俺は今朝、自らの手でボロアパートを解約し、警備員のバイトもバックレた。 帰る家はない。
身分を証明するものもない。一円の金もない。
残されたのは、泥だらけの片靴と、今まさに充電が残り15%を切ろうとしている、この忌まわしいスマホだけだ。
『ブルルルッ』
絶望の底に突き落とされた俺を嘲笑うかのように、手元の画面がチカッと光った。
【 読者に報告:ターゲットは2000万円と財布を捨てて逃亡しました。現在、一文無しの『指名手配犯』にチェンジ完了です。 】
画面の向こうから、無数の読者たちの悪意ある声がリアルタイムで流れてくる。
『全速力で逃げる姿、最高にダサかったww』
『片靴だけ脱げてるのが芸術点高い』
『自称エリート、ついに今夜からゴミ箱漁るのかな?』
『明日にはニュースで実名報道だね!おめでとう!』
「ふざけんな……俺は、俺はエリートなんだぞ……ッ!」
生ゴミの臭いに包まれた暗い路地裏で、俺は惨めな嗚咽を漏らした。
だが、震えが止まらないのはアプリへの怒りだけではない。
本当の恐怖はこれからだと気づいたからだ。
あの『最強のATM』であったC子。
彼女は実家が地主の、本物の金持ちだ。
2000万円を持ち逃げされた挙句、路上にばら撒いて逃走したと知れば、彼女がただ泣き寝入りするはずがない。
金と権力を使って、何がなんでも俺を追い詰めるだろう。
警察。ネットの特定班。
そして、怒り狂う大富豪の令嬢。
文字通り、八方塞がり。
俺は自ら退路を断ち、東京のど真ん中で逃げ場のない『ドブネズミ』に成り下がってしまったのだ。
続く




