第10話 パトカーの安堵と、冷たいメロンソーダ
「……嘘をつくなら、署でゆっくり聞かせてもらおうか」
パトカーの後部座席。
冷たいビニールシートに沈み込みながら、俺は両手に食い込む冷たい金属の感触をぼんやりと感じていた。
窓の外では、赤色灯が薄暗い駅前のロータリーを不気味に照らしている。
遠くの方で、警察官に事情聴取を受けているA子、B子、C子の三人の姿が見えた。
彼女たちの顔は怒りと軽蔑に歪み、時折こちらを指差して何かをわめいている。
全身からは、便所の水と泥、そして俺自身の脂汗が混ざり合った強烈な悪臭が放たれていた。 惨めだ。
エリートパイロットを気取り、複数の女を同時に転がす「神」だったはずの俺が、今はただの下着泥棒の結婚詐欺師として、ドロドロの安全靴を履いたまま手錠をかけられている。
だが、俺の心の中には、絶望と同時に『奇妙な安堵感』が広がっていた。
(……終わった。やっと、あの地獄から解放される……)
逮捕されて刑務所に入る方が、あの薄気味悪い「スマホの暴走」や、画面の向こうから俺を嘲笑う『見えない視線』に怯え続けるより何百倍もマシだ。
警察にスマホも押収された。
もう、あの忌まわしい通知音を聞くこともない。
俺は深く息を吐き出し、疲労困憊した体をシートに預けて、ゆっくりと目を閉じた。
パトカーが静かに走り出す。
――その時だった。
『ポンッ』
閉じたまぶたの裏側に、真っ白な光が焼き付いた。
押収されて手元にないはずのスマホの通知音が、俺の『脳内』に直接響き渡ったのだ。
【 読者がページをスクロールしました。 】
【 バッドエンド(逮捕)を回避するため、セーブポイントからやり直します。 】
【 ――ターゲットの記憶を引き継いだまま、物語をリセットします。 】
「は……?」
目を開けた瞬間。
俺の視界を満たしていたのは、パトカーの暗い車内でも、警察官の背中でもなかった。
安っぽいオレンジ色の照明。ざわめく客の話し声。
そして、鼻を突くハンバーグと揚げ物の油の匂い。
「……え?」
俺は、駅前の安っぽいファミレスのソファー席に座っていた。
手には、薄いメロンソーダに刺さったプラスチックのストローが握られている。
両手首に手錠はない。
下半身は便所の水で濡れておらず、足元には乾いた泥だけがこびりついた『安全靴』がある。
「な、なんだこれ……夢か? 俺はさっきまでパトカーに……」
混乱する頭でテーブルの上のスマホを見ると、そこには見覚えのある画面が開かれていた。
『本当にフライトお疲れ様です!私、谷口さんに会えるのずっと楽しみにしてました!』
出会い系アプリのメッセージ。相手はA子。
送信日時は、一ヶ月前の、まさに『今日』だ。
背筋に、氷柱を叩き込まれたような悪寒が走った。
馬鹿な。そんなことあり得るわけがない。
あの日から一ヶ月、俺は女たちを騙し、金を巻き上げ、そしてついさっき、あの便所で全てを失ったはずだ。
あの絶望も、手錠の冷たさも、はっきりと肌が覚えている。
だが、現実として俺は今、あの『始まりの日』のファミレスに座っている。
「あ、あの……谷口さん、ですか……?」
ふいに頭上から、上擦った細い声が降ってきた。
顔を上げると、パツパツのピンクのワンピースを着た女が立っていた。
少し小太りで、緊張のあまり顔はテカテカに脂ぎっている。A子だ。
あの便所の前で、俺の顔面に濡れたハンカチを叩きつけ、「この変態の底辺男!」と唾を吐き捨てたあのA子が、頬を赤らめて俺を上目遣いで見つめている。
(ヒッ……!!)
喉の奥から、悲鳴が込み上げた。
逃げなきゃ。こいつに関わったら、またあの地獄の修羅場に一直線だ。
「人違いです」と言って、今すぐこの店を飛び出さなきゃならない!
俺は口を大きく開き、全力で否定の言葉を叫ぼうとした。
「ちが――」
だが、俺の喉は空気を吐き出すだけで、音にならなかった。
いや、違う。体が、俺の意志を完全に無視して動き始めたのだ。
俺の顔の筋肉が、勝手に『エリートパイロットの爽やかな微笑み』を作り上げる。
そして、俺の口が、俺の意志とは全く無関係に、あの日の『セリフ』を勝手に紡ぎ出した。
「初めまして、A子ちゃん……だよね? あ、ごめん。いきなりで悪いんだけど……」
(やめろ! 言うな!! その言葉を言ったら終わりだ!!)
俺は心の中で血の涙を流しながら絶叫した。
だが、声帯は滑らかに、あの魔法の呪文を唱え切った。
「……めちゃくちゃ俺のタイプだな。ごめんね、こんなこと言って」
A子の顔が、茹でダコのように真っ赤に染まった。
彼女の潤んだ瞳は俺の顔だけを真っ直ぐに捉え、テーブルの下にある『ドロドロの安全靴』など、見ることはなかった。
俺の視界の端で、スマホの画面がチカチカと点滅し、一文が浮かび上がった。
【 読者は、あなたが何度同じ過ちを繰り返すのか、楽しみにしています。 】
地獄の第2ラウンドが、強制的に幕を開けた。
続く




