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一文字違いの契約書を見抜く私が、無口な辺境伯と水の都を守ります  作者: 銀細工ナギ


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4/20

余白に消された井戸の名前

 町へ下りる坂道は、夜の水路に沿っていた。


 石造りの溝を流れる水は、塔の影を細長く揺らしている。けれど、家々の前に置かれた桶はどれも空だった。水路のそばに住む人々でさえ、勝手に柄杓を入れることは許されていないらしい。溝の上には、ところどころ鎖が渡され、黒い札が吊られていた。


 《許可なき採水を禁ずる》


 同じ文句が、何度も繰り返されている。


「この札は、いつから?」


 セレネが尋ねると、ノエルは歩きながら答えた。


「去年の冬です。商会が水路の修理費を出してから、急に増えました」


「修理費を出したから、水を売る権利を得た?」


「そう言われています。でも、昔から水路を直していたのは町の水番です。商会がしたのは、入口に鍵を付けたことだけです」


 セレネは札を見上げた。


 契約魔法の効力は、文字の意味だけでなく、誰が読んだかにも左右される。住民が内容を理解し、納得して署名したなら、契約は強い。だが、知らされないまま掲げられた文は、命令に似ていても、正しい合意にはならない。


 札の端に、見覚えのある印があった。


「契約院の確認印……」


 セレネが指を近づけると、印の周囲に薄い赤い線が浮かんだ。札そのものではない。札を貼る許可証の記録が、別の場所にある。


 線は水路を越え、東側の倉庫へ伸びている。


「あそこです」


 ラウルが目を向けた。


 倉庫は三階建てで、周囲の家より明らかに大きかった。門の脇には商会の紋章が刻まれ、屋根の上には水路から引いた管が何本も並んでいる。水が倉庫へ吸い上げられるたび、地下から重い音が響いた。


 ノエルが声を潜める。


「あそこに、閉じた井戸があります」


「倉庫の中に?」


「建物ができる前は、第二井戸と呼ばれていました。今は商会の貯水槽です」


 ラウルの足が止まった。


「井戸を埋めたのか」


「埋めたことになっています」


 ノエルは布の端を握りしめた。


「でも、水番は知っています。井戸は残っています。商会は上に床を張っただけです」


 セレネは倉庫の壁に手を添えた。


 冷たい。


 石の向こうから、かすかな水の気配が伝わってくる。セレネの目には、壁の隙間を縫うように赤い線が現れた。線は床の中央で輪になり、消えた文字を形作っていく。


 第二井戸。


 その名の下に、もう一つの名前があった。


 エダ。


 そして、マルク。リサ。トーマ。五つ、六つ、七つ。人の名前が、井戸の底から浮かび上がるように連なっている。


「これは井戸の名前ではありません」


「水番の名か?」


「たぶん。いえ……違います」


 赤い光が、名前の間を行き来した。


「井戸を掘った人、修理した人、渇いたときに水を分けた人。その記録です。井戸は場所の名前だけでなく、守った人の名前を持っていた」


 ラウルは黙って壁を見ていた。


 やがて、低い声で言った。


「それを消すために、建物をかぶせた」


「名前を消せば、誰が権利を持つかも消せます」


 セレネは自分の言葉に、胸の奥が冷えるのを感じた。


 契約書の余白から一文字を消せば、譲渡と保管が入れ替わる。石碑から井戸の名前を消せば、その井戸が誰の記憶に属していたのかさえ、なかったことにできる。


 文字は人を縛る。


 同時に、人を守る。


 だからこそ、誰かが読めない場所で書き換えてはならない。


「中へ入る」


 ラウルが言った。


「見張りがいます」


「正面から行けば、止められる」


「では、裏から?」


「いや。領主として入る」


 ノエルが驚いて顔を上げた。


「商会と揉めれば、町への水が止められます」


「すでに止められている」


 ラウルは倉庫の門へ歩き出した。


 門番が二人、槍を交差させる。


「ここは商会の管理地です。用件を」


「ヴァイスレイ辺境伯、ラウル・エルグレンだ。地下水路の調査をする」


「許可証は」


「私が許可する」


 門番たちは顔を見合わせた。片方が笑いかけたが、その笑いは途中で消えた。ラウルの背後に立つセレネへ、契約院の徽章が見えたからだ。


「契約院の校正士も同行しています。水路管理に関する書類を確認します」


 セレネはあえて、声を張った。


「拒むなら、拒否した事実を記録します」


 門番は槍を下ろさなかった。


 そのとき、倉庫の奥で水音がした。


 誰かが走っている。


 次いで、金属の落ちる音。床板の下から、短い悲鳴が聞こえた。


 ノエルが顔を青くする。


「地下です。誰か、井戸を探しています」


 ラウルが槍の間を押し開けた。門番が止めようとしたが、辺境伯の腕はびくともしない。


「道を開けろ」


 無口だった男の声が、初めて倉庫いっぱいに響いた。


 中へ駆け込むと、積まれた樽の隙間に、床板の外れた穴があった。穴の底では、商会の男が一人、古い石蓋を持ち上げている。その足元に、破れた布と木箱が散らばっていた。


 赤い線が、木箱の蓋から立ち上がる。


 《第二井戸 共同管理者名簿》


 男はセレネを見るなり、箱を井戸へ投げ捨てた。


 ラウルが身を乗り出す。


 だが、木箱は落ちなかった。


 ノエルが片足を床板へ掛け、綱を投げたのだ。箱に綱が絡む。セレネも手を伸ばし、ラウルとともに引き上げる。


 箱の蓋が開いた。


 中には、水に濡れた紙片が重なっていた。ほとんどの文字は滲んでいる。それでも、一枚の端にだけ、はっきり読める署名が残っていた。


 ――この井戸は、エダと、マルクと、リサと、町に住むすべての人のもの。


 最後の言葉の上に、黒い線が引かれている。


 セレネの指先から赤い光が伸び、黒線をなぞった。


 消された文字が、ゆっくり戻っていく。


 すべての人。


 その瞬間、地下から水が噴き上がった。


 石蓋の隙間を押し開け、冷たい水が床を走る。倉庫の樽を倒し、門の外へ流れ出していく。町の石畳に水が広がり、乾いていた溝へと戻っていった。


 誰かが外で叫んだ。


 遠くから、別の声が重なる。


 人々が集まっている。


 セレネは濡れた名簿を胸に抱えた。紙の余白には、まだ読めない名前がいくつも残っている。


 ラウルが隣に立った。


「全部、取り戻せるか」


「わかりません」


 セレネは名簿の最後のページを開いた。


 そこには、名前を書くための空白があった。けれど空白の中央だけ、細い赤い線が遠くへ伸びている。町の中央にある、閉ざされた第七塔へ。


「でも、まだ消されていない場所があります」


 ノエルが水に濡れた頬をぬぐった。


「第七塔です。あそこは、誰も近づけません」


 ラウルは流れる水を見つめた。


「明日、行く」


 倉庫の外で、町の人々が水路を囲んでいる。誰もが驚き、怯え、それでも桶を手にしていた。


 セレネは名簿に残る名前を一つずつ指でなぞった。


 井戸の名は、場所ではなかった。


 誰かが守り、誰かが受け取り、誰かへ渡したという記憶そのものだった。


 そして記憶は、余白に押し込められても、完全には消えない。


 水が流れるかぎり。

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