校正士は水の都へ連れていかれる
月のない街道を、二人は並んで歩いた。
宿から北の丘までは、馬車なら半刻ほどの距離だった。けれど、街道を外れた途端、道は草に埋もれ、車輪の跡も消えた。ラウルが先に立ち、手にしたランタンで足元を照らす。セレネは地図を胸に抱え、赤い線の気配を追った。
線は、目の前に見えるものではない。
紙に残った文字の意図と、文字が現実へ及ぼす結果。そのずれが、署名前の契約書では赤い光となって現れる。だが今夜の赤い線は、地図に書かれていない場所を示していた。誰かが消した文字の跡。契約ではない記録にも、意思の痕跡は残るらしい。
「止まってください」
丘の斜面で、セレネは足を止めた。
ランタンの明かりの先に、崩れた石垣があった。苔に覆われた石の一つへ、細い溝が刻まれている。水の流れを示す印だ。
ラウルは膝をつき、指で苔を払った。
「古い」
「でも、溝の底が濡れています」
セレネが触れると、指先に冷たい水がついた。
枯れた土地のはずなのに、石垣の下からかすかな水音がする。二人で石を動かすと、土の奥から細い流れが現れた。水は黒く濁っていたが、確かに生きていた。
その先には、半ば崩れた石柱が立っている。刻まれた文字は風雨に削られ、ほとんど読めない。
「何と書いてある?」
ラウルが訊いた。
「……第一井戸へ送る水路。これより先、すべての家に開く」
「すべての家」
ラウルの声が低くなった。
セレネは石柱の裏へ回った。表からは見えない位置に、さらに小さな文字が並んでいる。
――水を分ける者は、名を残す。
――水を奪う者は、名を失う。
最後の一行だけ、削り取られていた。
「ここに、別の記録があります」
「読めるか」
「全部ではありません」
セレネは石柱へ手を添えた。赤い光が、削られた文字の跡から浮かび上がる。失われた一文字が、闇の中で何度も形を変えた。
譲る。
守る。
貸す。
どれも似ている。けれど、効力はまったく違う。
「誰かが、ここから文字を削ったのです。契約院の印もあります」
「契約院が、領の水路を管理していた?」
「少なくとも、記録の確認をしていたはずです」
ラウルは石柱から手を離し、丘の下を見た。
谷の底には、暗い町が広がっている。家々の屋根の向こうに、二本の貯水塔が立っていた。塔の上の水輪だけが、月明かりを受けて鈍く光っている。さらにその奥には、幾筋もの水路が町を縫っていた。
王都で見た地図より、ずっと多い。
「水の都、と呼ばれていた」
ラウルが言った。
「ヴァイスレイが?」
「昔はそうだ。七つの貯水塔と、九つの共同井戸。旅人が水を求めれば、門番は誰にでも柄杓を渡した」
「今は?」
「井戸のいくつかは封じられた。水路は商会の倉庫へ向かい、町の外れには水売りの列ができている」
セレネは町を見下ろした。
水があるのに、乾いている。
それは水不足よりも恐ろしいことだった。流れが止まったのではない。流れの行き先を、誰かが変えたのだ。
丘を下る途中、ラウルは突然、道の脇へ進んだ。枯れ草をかき分けると、古い木の板が現れる。板には、かすれた文字で「第一井戸」と記されていた。
しかし井戸は、厚い板と鉄鎖で塞がれている。
ラウルが鎖に手をかけた。
「壊しますか」
「それでは、明日にはこちらが罪人になる」
「でも、水は下にあります」
「わかっている」
彼は鎖を握ったまま動かなかった。
その横顔に、馬車の中で聞いた言葉がよみがえる。止められなかった。破棄すれば、返せなかった。
ラウルは、目の前の鎖よりも、その先にある人々の生活を恐れているのかもしれない。
セレネは板に記された文字を見た。鎖の留め具に、小さな紙片が挟まっている。引き抜くと、薄暗い中でも赤い線が浮かんだ。
《この井戸は、領主の許可なく使用してはならない》
だが、その下に別の文字が重なっている。
《ただし、命を守るための水を拒んではならない》
後半は墨で塗りつぶされ、効力を失っていた。
「ラウル様。これは禁止文ではありません」
「違うのか」
「例外を消して、禁止だけに変えています。元の条文は、困窮した人が水を取る権利を認めていた」
ラウルの目が細くなった。
「誰が消した」
「わかりません。でも、消された文字は地図と同じです」
そのとき、丘の下から物音がした。
二人が振り返ると、灯りが一つ、草むらを揺らしながら近づいてくる。ラウルは反射的にセレネの前へ出た。腰の剣へ手を伸ばしたが、抜かなかった。
現れたのは、痩せた少年だった。肩に空の桶を二つ提げている。十七歳ほどに見える。こちらを警戒しながら、少年は井戸の鎖を見た。
「領主様……?」
ラウルが答えるより先に、少年はセレネへ視線を移した。
「契約院の人ですか」
「そうです。あなたは?」
「ノエル。水番見習いです」
少年は空の桶を下ろした。
「その井戸を開けるなら、早くしてください。朝までに南の塔へ運ばないと、病人の分がなくなります」
「封鎖されているのに、使っているのですか」
「夜だけ。見つかれば罰を受けます。でも、罰を受けるほうが、水を飲めずに死ぬよりましです」
ノエルは胸元から、折り畳まれた布を取り出した。布には、いくつもの名前が縫い取られている。文字は不揃いで、幼い筆跡も混じっていた。
「この井戸を守ってきた人たちの名です。昔の水番が、読めない人の代わりに縫いました」
セレネは布を受け取った。
一番端に、赤い線が走る。
その線は名前から名前へつながり、最後には布の外へ伸びていた。町の中央、七つの塔のうち、閉ざされた一つを指している。
「そこに、何がありますか」
セレネが尋ねると、ノエルは首を振った。
「水番しか知らない場所です。でも、三日前から商会の人間が探しています」
「何を?」
「昔の憲章だと、先代の水番は言っていました。水は誰かのものではなく、町のものだと書いた紙」
ラウルが静かに息を吸った。
遠くで、鐘が鳴った。
乾いた音だった。水の都の夜を告げる鐘なのに、ひび割れた音は警告のように谷へ響いた。
ノエルが急いで桶を拾う。
「ここに長くいられません。商会の見張りが来ます」
「町へ案内してくれ」
ラウルが言った。
「領主様が自分で?」
「水路を見たい」
ノエルは迷ったが、やがて頷いた。
セレネが歩き出すと、ラウルが隣に並んだ。丘を下る道の先で、ヴァイスレイの水路が暗く光っている。
水は流れていた。
ただ、その行き先を決める文字が、誰かによって書き換えられていた。
セレネは赤い光を追いながら、知らない町へ足を踏み入れた。そこには、消された井戸の名前と、まだ消されていない人々の署名が待っていた。




