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一文字違いの契約書を見抜く私が、無口な辺境伯と水の都を守ります  作者: 銀細工ナギ


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3/20

校正士は水の都へ連れていかれる

 月のない街道を、二人は並んで歩いた。


 宿から北の丘までは、馬車なら半刻ほどの距離だった。けれど、街道を外れた途端、道は草に埋もれ、車輪の跡も消えた。ラウルが先に立ち、手にしたランタンで足元を照らす。セレネは地図を胸に抱え、赤い線の気配を追った。


 線は、目の前に見えるものではない。


 紙に残った文字の意図と、文字が現実へ及ぼす結果。そのずれが、署名前の契約書では赤い光となって現れる。だが今夜の赤い線は、地図に書かれていない場所を示していた。誰かが消した文字の跡。契約ではない記録にも、意思の痕跡は残るらしい。


「止まってください」


 丘の斜面で、セレネは足を止めた。


 ランタンの明かりの先に、崩れた石垣があった。苔に覆われた石の一つへ、細い溝が刻まれている。水の流れを示す印だ。


 ラウルは膝をつき、指で苔を払った。


「古い」


「でも、溝の底が濡れています」


 セレネが触れると、指先に冷たい水がついた。


 枯れた土地のはずなのに、石垣の下からかすかな水音がする。二人で石を動かすと、土の奥から細い流れが現れた。水は黒く濁っていたが、確かに生きていた。


 その先には、半ば崩れた石柱が立っている。刻まれた文字は風雨に削られ、ほとんど読めない。


「何と書いてある?」


 ラウルが訊いた。


「……第一井戸へ送る水路。これより先、すべての家に開く」


「すべての家」


 ラウルの声が低くなった。


 セレネは石柱の裏へ回った。表からは見えない位置に、さらに小さな文字が並んでいる。


 ――水を分ける者は、名を残す。

 ――水を奪う者は、名を失う。


 最後の一行だけ、削り取られていた。


「ここに、別の記録があります」


「読めるか」


「全部ではありません」


 セレネは石柱へ手を添えた。赤い光が、削られた文字の跡から浮かび上がる。失われた一文字が、闇の中で何度も形を変えた。


 譲る。

 守る。

 貸す。


 どれも似ている。けれど、効力はまったく違う。


「誰かが、ここから文字を削ったのです。契約院の印もあります」


「契約院が、領の水路を管理していた?」


「少なくとも、記録の確認をしていたはずです」


 ラウルは石柱から手を離し、丘の下を見た。


 谷の底には、暗い町が広がっている。家々の屋根の向こうに、二本の貯水塔が立っていた。塔の上の水輪だけが、月明かりを受けて鈍く光っている。さらにその奥には、幾筋もの水路が町を縫っていた。


 王都で見た地図より、ずっと多い。


「水の都、と呼ばれていた」


 ラウルが言った。


「ヴァイスレイが?」


「昔はそうだ。七つの貯水塔と、九つの共同井戸。旅人が水を求めれば、門番は誰にでも柄杓を渡した」


「今は?」


「井戸のいくつかは封じられた。水路は商会の倉庫へ向かい、町の外れには水売りの列ができている」


 セレネは町を見下ろした。


 水があるのに、乾いている。


 それは水不足よりも恐ろしいことだった。流れが止まったのではない。流れの行き先を、誰かが変えたのだ。


 丘を下る途中、ラウルは突然、道の脇へ進んだ。枯れ草をかき分けると、古い木の板が現れる。板には、かすれた文字で「第一井戸」と記されていた。


 しかし井戸は、厚い板と鉄鎖で塞がれている。


 ラウルが鎖に手をかけた。


「壊しますか」


「それでは、明日にはこちらが罪人になる」


「でも、水は下にあります」


「わかっている」


 彼は鎖を握ったまま動かなかった。


 その横顔に、馬車の中で聞いた言葉がよみがえる。止められなかった。破棄すれば、返せなかった。


 ラウルは、目の前の鎖よりも、その先にある人々の生活を恐れているのかもしれない。


 セレネは板に記された文字を見た。鎖の留め具に、小さな紙片が挟まっている。引き抜くと、薄暗い中でも赤い線が浮かんだ。


 《この井戸は、領主の許可なく使用してはならない》


 だが、その下に別の文字が重なっている。


 《ただし、命を守るための水を拒んではならない》


 後半は墨で塗りつぶされ、効力を失っていた。


「ラウル様。これは禁止文ではありません」


「違うのか」


「例外を消して、禁止だけに変えています。元の条文は、困窮した人が水を取る権利を認めていた」


 ラウルの目が細くなった。


「誰が消した」


「わかりません。でも、消された文字は地図と同じです」


 そのとき、丘の下から物音がした。


 二人が振り返ると、灯りが一つ、草むらを揺らしながら近づいてくる。ラウルは反射的にセレネの前へ出た。腰の剣へ手を伸ばしたが、抜かなかった。


 現れたのは、痩せた少年だった。肩に空の桶を二つ提げている。十七歳ほどに見える。こちらを警戒しながら、少年は井戸の鎖を見た。


「領主様……?」


 ラウルが答えるより先に、少年はセレネへ視線を移した。


「契約院の人ですか」


「そうです。あなたは?」


「ノエル。水番見習いです」


 少年は空の桶を下ろした。


「その井戸を開けるなら、早くしてください。朝までに南の塔へ運ばないと、病人の分がなくなります」


「封鎖されているのに、使っているのですか」


「夜だけ。見つかれば罰を受けます。でも、罰を受けるほうが、水を飲めずに死ぬよりましです」


 ノエルは胸元から、折り畳まれた布を取り出した。布には、いくつもの名前が縫い取られている。文字は不揃いで、幼い筆跡も混じっていた。


「この井戸を守ってきた人たちの名です。昔の水番が、読めない人の代わりに縫いました」


 セレネは布を受け取った。


 一番端に、赤い線が走る。


 その線は名前から名前へつながり、最後には布の外へ伸びていた。町の中央、七つの塔のうち、閉ざされた一つを指している。


「そこに、何がありますか」


 セレネが尋ねると、ノエルは首を振った。


「水番しか知らない場所です。でも、三日前から商会の人間が探しています」


「何を?」


「昔の憲章だと、先代の水番は言っていました。水は誰かのものではなく、町のものだと書いた紙」


 ラウルが静かに息を吸った。


 遠くで、鐘が鳴った。


 乾いた音だった。水の都の夜を告げる鐘なのに、ひび割れた音は警告のように谷へ響いた。


 ノエルが急いで桶を拾う。


「ここに長くいられません。商会の見張りが来ます」


「町へ案内してくれ」


 ラウルが言った。


「領主様が自分で?」


「水路を見たい」


 ノエルは迷ったが、やがて頷いた。


 セレネが歩き出すと、ラウルが隣に並んだ。丘を下る道の先で、ヴァイスレイの水路が暗く光っている。


 水は流れていた。


 ただ、その行き先を決める文字が、誰かによって書き換えられていた。


 セレネは赤い光を追いながら、知らない町へ足を踏み入れた。そこには、消された井戸の名前と、まだ消されていない人々の署名が待っていた。

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