無口な辺境伯は、署名を三日延ばした
ラウル・エルグレンの馬車は、王立契約院の正門前で待っていた。
黒塗りの車体に、水門を抱く黒狼の紋章。王都の役人たちは遠巻きにそれを眺め、誰も近づこうとはしなかった。辺境伯という身分は、敬意より先に警戒を呼ぶらしい。
セレネは小さな鞄を抱え、馬車の前で足を止めた。
「本当に、私も?」
「君が必要だ」
ラウルはそれだけ言った。
必要だ、と言われたことが、妙に胸へ残った。校正士としてなら、これまで何度も必要とされた。けれどそれは、誤字を直す手が必要だという意味だった。セレネという人間を見て言われた気がしたのは、初めてだった。
「三日しかありません」
「わかっている」
「王都からヴァイスレイまでは、馬を替えても二日かかります。着いてすぐ調べなければ、戻って署名を止める時間がなくなります」
「だから急ぐ」
ラウルは御者へ合図した。
セレネが乗り込むと、向かいの席に彼が座った。車内には地図と書類が積まれている。水路の流れを描いた古い地図、貯水塔の修繕記録、商会から届いた見積書。どれも丁寧に整理されていたが、肝心の水利権に関する記録だけが抜け落ちている。
セレネは書類を一枚ずつめくった。
「この記録、二年前のものですね」
「そうだ」
「水路の崩落が始まった時期と一致します」
「その年の冬、北側の堤が崩れた。春には三つの水門が動かなくなった」
「修繕費は?」
「領で出せる額ではなかった」
短い返事のたび、ラウルの視線が窓の外へ逃げる。
セレネは見積書の端に目を止めた。商会が提示した金額は、修繕だけにしては高すぎる。だが、水路を所有できるなら安すぎた。
「この契約を、あなたはどう聞いていたのですか」
ラウルはすぐには答えなかった。
馬車が石畳の継ぎ目を越え、車内が大きく揺れる。彼の手が机の縁をつかんだ。指の節に、古い傷がある。
「水路を直す。十年間、商会が管理する。その後は領へ戻る」
「誰から説明を?」
「契約院の使者だ」
「文書ではなく?」
「口頭で」
セレネは眉を寄せた。
「なら、あなたも知らされていなかったのですね」
「知らなかったことが、免罪になるとは思わない」
声が低く沈んだ。
「領主は、署名する前に読むべきだった」
「読んでも、効力の変化までは見抜けない人がほとんどです。契約魔法は、文字の並びを利用します。意図と結果がずれていても、書かれたほうを正しいものとして扱う」
「それでも署名するのは私だ」
その言葉には、自分自身への厳しさがあった。
セレネは手元の書類を閉じた。ラウルは、単に無口なのではない。話せることを選び、話せないことを自分の中へ押し込めている。
「あなたは、過去にも同じような契約を?」
「一度」
「どんな契約ですか」
「堤防の使用権を、一部の商人へ与えた」
彼は窓の外を見たまま続けた。
「洪水のあとだった。領民を助けるために、急いで決めた。だが商人たちは、堤防を通る荷車に料金をかけた。貧しい者は遠回りを強いられた」
「契約を破棄しなかったのですか」
「破棄すれば、修繕に出された金を返せなかった。領はさらに貧しくなる」
セレネは何も言えなかった。
契約は、正しいか間違っているかだけではない。正しいとわかっていても、選べない状況がある。だからこそ、署名前にすべてを明らかにしなければならないのだ。
夕方、馬車は街道沿いの宿で一度止まった。ラウルは食事を取らず、地図を広げていた。セレネが薄いスープを口にしていると、彼は地図の一点を指で示した。
「ヴァイスレイは、ここだ」
山々に囲まれた谷の中央に、幾筋もの青い線が走っている。
「水路が多いですね」
「昔は川を分け、町全体へ流していた。貯水塔は七つ。今、使えるのは二つだけだ」
「共有水利の記録は?」
「代々の領主が管理していた。だが、父の代から散逸した」
ラウルは地図の端を押さえた。
「私が領主になったのは五年前だ。就任した時には、すでに商会との交渉が始まっていた」
「あなたが始めたのではない?」
「止められなかった」
彼の言葉が、夜の宿に落ちた。
そのとき、セレネの視界に赤い線が浮かんだ。
地図の上、町の北側。誰も記していない細い水路が、赤く脈打っている。地図には空白しかない場所だ。けれど、その空白の下に、消された文字の影が見えた。
――第一井戸、共同使用。
セレネは立ち上がった。
「ラウル様。ここに、何かあります」
彼が顔を上げる。
「何が」
「地図にはない水路です。北側の丘から、町へ続いている」
「北側は枯れた土地だ」
「そう書かれているだけです」
セレネは指先で赤い線をなぞった。線は地図の外へ伸び、彼女の手の甲に触れた。
「誰かが、存在ごと消したのかもしれません」
ラウルはしばらく地図を見つめた。それから、外套を取った。
「行く」
「今夜ですか?」
「朝まで待つ理由がない」
無口な辺境伯は、初めて自分から急いだ。
二人は宿を出て、月のない街道へ踏み出した。遠い山の向こうで、乾いた風が鳴っている。
ヴァイスレイには、消された水路がある。
そしてその水路には、誰かが守り続けた名前が残されている。




