↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
一文字違いの契約書を見抜く私が、無口な辺境伯と水の都を守ります  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/20

ひとつの水路、三つの約束

 領主館の大広間には、朝から人が集まっていた。


 北門の水番、古井戸を守る老女、染物工房の職人、旧水車小屋の粉挽き、東の堤で畑を耕す農夫、鐘楼下の宿の女主人。帳面に記された役目を持つ者たちが、互いに顔を見合わせながら、長机の周りに座っている。


 王都から来た使者と商会の代理人は、正面の席に並んでいた。使者は銀縁の眼鏡をかけ、細長い封筒を膝に置いている。商会の代理人は、黒い手袋をした指で杖の柄を叩いていた。


「辺境伯閣下。王立契約院の監査命令により、当該水路の管理権について、ただちに確認を行います」


 使者が読み上げた。


「商会との契約には、すでに双方の署名があります。これ以上、住民を惑わせる必要はありません」


「惑わせているのは、誰でしょう」


 セレネが言った。


 使者の視線が、平民の服を着た彼女へ向いた。


「君は王立契約院の職員かね」


「校正士です。署名の前に、条文の意図と効力が一致しているかを確かめます」


「署名は、もう済んでいる」


「だからこそ、済んだ署名が何を意味したのかを、全員が確かめる必要があります」


 商会の代理人が鼻で笑った。


「水路を使いたければ、定められた料金を払えばいい。難しい話ではありません」


 その言葉に、ノエルが立ち上がった。


「水番は料金を取る仕事じゃない!」


 声は震えていたが、大広間の隅まで届いた。


「誰がどの時間に水を使うかを決めて、水門が壊れたら知らせて、井戸が濁ったら止める。水を買えない人にも、飲める水が残るようにする。それが水番だ」


「見習い風情が口を挟むな」


「見習いだから、覚えていることを話しているんです」


 ノエルは胸元から、昨日写し取った帳面の頁を取り出した。


「ここに書いてある。初代水番は、北門の鍵を預かる者。井戸守は、地下水の深さを測る者。七人は、水路を所有する人じゃない。水路をみんなのために守る人です」


 ざわめきが広がった。


 セレネは机の上に羊皮紙を置いた。古い文字の横には、彼女が書き直した現代の言葉が並んでいる。


「共有水利憲章の一部です。今から、三つの約束に分けて読みます」


 彼女は一つ目の文を指で示した。


「第一の約束。水路と井戸は、誰か一人の財産ではなく、町に住む人が共同で使うものとする」


 老いた井戸守が、ゆっくりとうなずいた。


「二つ目。管理を任された者は、鍵、記録、修繕の決定を一人で抱えず、住民に公開する」


 粉挽き職人が机を叩いた。


「だから、古い帳面には水車の時間まで書いてあったのか」


「そうです。隠さず、後から確かめられるようにするためです」


 セレネは最後の文へ手を置いた。


「第三の約束。水路の使い方を変えるときは、影響を受ける人へ内容を説明し、理解した人が自分の意思で署名する。署名できない人には、読み上げと証人を用意する」


 大広間が静まった。


 商会の代理人が立ち上がる。


「古い紙切れに、現在の契約を覆す力があると?」


「力を持つのは紙ではありません」


 セレネは彼を見た。


「そこに書かれた約束を、誰が、何を理解して引き受けたかです」


「契約は形式で成立する」


「形式だけなら、あなたは今、住民の前でこの契約を読み上げられますか」


 代理人の手が止まった。


「水路の所有権を商会へ移す、と書かれています。ですが、辺境伯の署名欄には『管理を委ねる』と読める文があり、別の箇所には一文字だけ、所有権を示す言葉に変えられている。しかも、その違いは本文の説明にありません」


 赤い校正線が、契約書の上に浮かび上がった。


 人々が息をのむ。


「これは、署名前なら見抜ける線です。けれど、署名した人が何を理解していたかを確かめることは、署名の後でもできます」


 ラウルが前へ出た。


 彼は大広間の全員を見渡した。いつものように黙っていれば、話は別の誰かに任せられた。だが、彼は封筒の中の監査命令にも、商会の圧力にも目をそらさなかった。


「三年前、私は南堤の修繕のため、商会との契約に署名した」


 誰かが小さく息を吸った。


「私は、水路の管理を一時的に任せる契約だと思っていた。だが、結果として、商会は水門の鍵を取り上げた。私は間違いを認めず、返還を求めるだけで、住民に説明しなかった」


 彼の声は低かった。それでも、ひとことごとに広間の空気を押し広げていく。


「私の判断で、水を使えなくなった人がいた。私は領主として、その責任を負う」


 農夫が立ち上がった。


「なら、今度は何をする」


 ラウルは答えた。


「今日ここで、私の権限だけでは決めない。共有水利憲章を現行の制度に接続し、住民が確認できる記録を作る。そのために、七つの役目を持つ者と、町の人々の署名を集める」


「商会が邪魔をしたら?」


「そのときも、隠れない」


 ラウルはセレネへ視線を向けた。


「この町の水路は、一つだ。だが、守る約束は三つある。共同で使うこと。管理を公開すること。説明を受け、意思で署名することだ」


 宿の女主人が、帳面の前へ歩み出た。


「私は文字を多く読めない。でも、今の説明は分かった。旅人にも水を分ける。決まりを隠さない。私の署名を、ここに残す」


 彼女は震える手で、帳面に名を書いた。


 続いて、井戸守が印を押した。染物職人が名を記した。粉挽き職人、農夫、水番も続く。


 最後に残った欄は、領主のためのものだった。


 ラウルは羽根ペンを取った。けれど、すぐには書かなかった。


「この署名は、血筋の証明ではない。私が七人目の役目を引き受ける意思の証明だ」


 そう言って、彼は自分の名を記した。


 赤い線が、帳面の七つの記号から伸び、ひとつの輪になった。


 封じられていた文字が、紙の上でゆっくりと浮かび上がる。


 《水は、持つ者のためだけに流れない》


 セレネはその文を読み上げた。


 窓の外で、水門が開いた。


 乾いた水路の底を、細い流れが走っていく。最初はためらうように、やがて町の中央へ向かって、確かな音を立てながら。


 王都の使者は、閉じた封筒を見下ろしていた。商会の代理人は、もはや杖を叩かなかった。


 まだ、戦いは終わっていない。王立契約院が何を裁定するかも、商会がどんな手を使うかも分からない。


 それでも、この日、三つの約束は住民の言葉になった。


 そして言葉になった約束は、もう誰かの余白へ隠すことができなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。