↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
一文字違いの契約書を見抜く私が、無口な辺境伯と水の都を守ります  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/20

無口な人が初めて話した夜

 水門が開いたあとも、領主館の大広間には人が残っていた。


 流れ始めた水の音は、厚い壁を越えてかすかに響いている。けれど、誰もがその音を聞きながら、王都の使者が持ってきた封筒から目を離せずにいた。


「本日の確認は終わりです」


 使者は立ち上がった。


「監査の結果と、共有水利憲章の効力については、王立契約院へ報告します。裁定が下るまで、水路の管理権を変更してはならない。ただし、現行契約に基づく商会の権利も、停止されたわけではありません」


「つまり、どちらとも決まっていないということですか」


 セレネが尋ねた。


「法は、感情で急いだりしない」


「水は、法が急ぐのを待ってくれません」


 使者は眼鏡の奥で目を細めた。


「だからこそ、余計な混乱を避けるため、今夜の集会と署名は記録しておきます。発言の一つひとつが、後の判断材料になるでしょう」


 脅しのようにも聞こえた。


 住民たちは顔を見合わせた。せっかく水が流れたのに、また取り上げられるかもしれない。誰かがそう思った瞬間、大広間の空気は冷えた。


 ラウルは、窓の外を見ていた。


 水路を走る流れは、月明かりを細く映している。三年前、彼が署名した契約によって止まった水。その水が、今夜だけは町の中心へ戻ってきた。


「閣下」


 使者が呼んだ。


「ご判断を。住民には、これ以上の集会を控えさせた方がよいでしょう。王都の裁定を待つ間、余計な署名を重ねれば、かえって契約関係が複雑になります」


 ラウルは返事をしなかった。


 セレネは彼の横顔を見た。いつもなら、必要なことだけを短く言う。危険が迫れば命令し、判断が済めば黙る。それで十分だと思っていた。


 だが今、彼の指は固く握られていた。


 やがてラウルは、広間の中央へ歩いた。


「私は、王都の裁定を待つ」


 人々が息をひそめる。


「それまで、水路を勝手に変えない。鍵と記録は七人で管理する。商会にも、住民にも、同じ記録を渡す」


 使者が口を挟もうとしたが、ラウルは続けた。


「ただし、集会を禁じない。水を使う者が、水の決まりを理解するために話し合うことは、契約を妨げる行為ではない」


「辺境伯閣下。王立契約院の手続きに異議を唱えるおつもりですか」


「異議ではない」


 ラウルは静かに答えた。


「手続きを、住民から隠さないだけだ」


 その言葉に、井戸守が深くうなずいた。宿の女主人も、書き終えたばかりの帳面を胸に抱えた。


 使者は不満そうに封筒を閉じた。


「発言は記録しました。明朝、出立します」


 商会の代理人も立ち上がり、黒い手袋を直した。


「裁定が下れば、あなた方は思い知るでしょう。古い約束など、数字の前では無力だ」


「数字にも、書き方があります」


 セレネが言った。


「一つの数字が、誰の負担を示すのか。誰の利益を示すのか。読む人に説明されない数字は、契約の中で簡単に刃物になります」


「小娘が」


「小娘でも、刃物は見えます」


 代理人は言い返さず、使者の後を追って出ていった。


 扉が閉じると、大広間に残った人々は、ようやく息を吐いた。


 ノエルが帳面を抱えたまま、ラウルの前に立った。


「閣下。明日も、みんなに読んで聞かせます」


「頼む」


「それから、鍵の記録も教えてください。七人で管理するなら、僕は見習いでも書けるようにならないと」


「分からない文字があれば、聞けばいい」


 ラウルはそう言って、セレネを見た。


 その視線に気づき、セレネは少し驚いた。


「私に?」


「君に頼みたい」


 ほんの数語だった。


 けれど、ラウルが自分から誰かに頼むのを、セレネは初めて見た。


 夜更け、住民たちが帰ったあと、二人は水門のそばに残った。石造りの堤に腰を下ろし、月の光が流れへ落ちていくのを眺めていた。


「今日は、よく話しましたね」


 セレネが言うと、ラウルは水面を見たまま答えた。


「必要だった」


「それだけですか」


「……それだけではない」


 水の音が、二人の間を埋めた。


 ラウルは長い間、言葉を探しているようだった。戦場で敵を見据えるよりも、契約書の前で署名を拒むよりも、難しい顔をしている。


「私は、話せば責任が増えると思っていた」


「話さなくても、責任は消えません」


「分かっている」


 彼は低く息を吐いた。


「だが、私が何を言っても、身分のある者の命令に聞こえる。だから黙って、結果だけを引き受ければいいと思った」


 セレネは黙って聞いた。


「三年前も、私は住民に説明しなかった。商会との契約を、私が処理すれば済むと思った。水路を守るためなら、誰かに任せるのが正しいと」


 彼の声がわずかに震えた。


「だが、黙ることは中立ではなかった。私が黙った分だけ、商会の言葉が町を覆った」


 ラウルは拳をほどいた。


「セレネ。私は、あの契約を止めてくれた君に感謝している」


 名前を呼ばれた。


 それだけのことなのに、胸の奥が熱くなる。


「礼なら、もう何度も聞きました」


「違う。今までの礼では足りない」


 彼は、まっすぐに彼女を見た。


「君がいなければ、私はまた黙って署名していた。君が隣にいると、言葉にしなければならないと思う」


「それは、私がうるさいからでしょう」


「そうかもしれない」


 ラウルの口元が、ごくわずかにゆるんだ。


 セレネは思わず笑った。


 水路の向こうで、夜番の鐘が鳴った。遠く、町のどこかで人の声がする。水が戻ったことを知らせているのだろう。


「私も、怖かったんです」


 セレネは流れを見ながら言った。


「あなたの隣に立つたび、私は平民で、あなたは辺境伯だと、何度も思い知らされました。もしこの騒ぎが終わったら、私は王都へ戻されて、あなたは別の人と……」


 そこまで言って、口を閉じた。


 ラウルは急かさなかった。


「身分の差は、消えません」


「はい」


「だが、君の言葉を低く扱う理由にはならない」


 セレネは彼を見た。


「それは、契約に書けますか」


「書かない」


「どうして?」


「契約にしなくても、守るからだ」


 風が吹いた。


 水面の月が細かく揺れ、赤い校正線の残光が、セレネの指先から消えていく。


 ラウルは続けた。


「君が王都へ戻るとしても、私は君の意思を聞く。ここに残るとしても、君の意思を聞く。私の立場で決めない」


 セレネの喉が詰まった。


「……あなたは、初めてこんなに話しましたね」


「そうだな」


「もう一度、聞かせてください」


「何を」


「私の名前を」


 ラウルは少しだけ目を伏せ、それから言った。


「セレネ」


 水の都の夜に、彼の声が初めて深く響いた。


 その一言には、命令も条文も、領主の印もなかった。ただ、呼びたいと思った人を、呼びたい名前で呼ぶ意思だけがあった。


 セレネは微笑んだ。


「はい。ラウル」


 今度は彼女が、彼の名を呼んだ。


 返事の代わりに、ラウルは静かに隣へ手を置いた。触れるか触れないかの距離だった。


 けれど、その距離を縮めるかどうかは、どちらにも委ねられていた。


 夜の水路は、町のすべてを映しながら流れていく。


 朝になれば、王都から新しい裁定が届く。商会も、契約院も、きっと黙ってはいない。


 それでも今夜だけは、二人の間に、誰かが書いた条文はなかった。


 ただ、互いの声を聞いたという事実が、消えない署名のように残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。