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一文字違いの契約書を見抜く私が、無口な辺境伯と水の都を守ります  作者: 銀細工ナギ


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10/20

条文の裏に埋められた七つの署名

 北門の地下室から持ち出した羊皮紙は、朝の光にさらすと、さらにいくつもの細い線を浮かべた。


 セレネは領主館の書庫で、窓を閉め切ったまま紙を机に広げていた。古い紙は乾ききっている。少しでも強く押さえれば、ひび割れた繊維が崩れてしまいそうだった。


 ラウルは向かいに立ち、ノエルは机の端で記録用の紙を整えている。


「七つの署名は、銅板の裏に刻まれていました。けれど、羊皮紙には名前がない」


「名前を隠したのではなく、別の場所に記したのかもしれません」


 セレネは監査印の傷をなぞった。


 赤い線は、銅板の裏から羊皮紙へ、さらに書庫の床下へ伸びている。昨日まで見えなかった線だった。改ざんされた記録と、消された署名が近くにあるときだけ、彼女の魔法は過去の意図を拾い上げる。


 床板を外すと、古い帳面が一冊見つかった。


 表紙には何も書かれていない。革は水気を失って固くなり、留め金には王都の紋章が刻まれていた。


「契約院の帳面でしょうか」


 ノエルが尋ねた。


「紋章だけでは断定できません。でも、これは領主館で保管するものではないはずです」


 セレネが表紙に触れると、赤い線が留め金の隙間へ入り込んだ。


 開く。


 最初の頁には、七つの名前が並んでいた。


 銅板に刻まれた署名と同じだ。だが、名前の横にはそれぞれ別の記号があり、その下に小さな文が書かれている。


 初代水番――北門の鍵を預かる者。


 井戸守――地下水の深さを測る者。


 染物職人――川へ流す水を清める者。


 粉挽き職人――水車の使用時間を記録する者。


 川辺の農夫――堤の異変を知らせる者。


 宿屋の女主人――旅人にも水の決まりを伝える者。


 領主――すべての記録を住民に開く者。


「役目が署名の代わりになっている」


 ラウルが呟いた。


「いいえ。役目を引き継ぐ人が、署名を確認するための手がかりです。名前だけではなく、何を守ると約束したのかまで残している」


 帳面の後半には、代替わりの記録が続いていた。初代水番の名の下に、二代目、三代目と継承者の名前が書かれている。井戸守も、染物職人も、粉挽き職人も同じだ。


 だが、七つ目だけは途中で頁が破られていた。


「領主の継承記録だけがない」


 ノエルが言った。


 ラウルは破れた頁を見つめたまま、しばらく動かなかった。


「私の家が、故意に捨てたのかもしれない」


「ラウル」


「父は水路の決定を領主の権限だと考えていた。私も、それを疑わなかった」


 彼の声は低く、いつもより長く続いた。


「三年前、南堤が崩れた。修繕費を集めるため、商会の提案を受け入れた。水路の管理を一部委ねれば、すぐに直せると言われた」


「その契約が、今回のものですか」


「ああ。私は条文を読んだ。読んだつもりだった。商会が水路を所有するとは書かれていなかった。だから、住民の生活を守るための一時的な措置だと思った」


 ラウルは拳を開いた。


「だが、署名のあと、彼らは水門の鍵を持っていった。私は返還を求めた。商会は、管理権を譲った証拠があると言った。私の署名が、そう読める形になっていた」


 セレネは赤い線を見た。


「一文字だけ、意味を変えた」


「私は抗議した。だが、すでに住民へ説明した後だった。領主が自分で署名した契約を、間違いだったとは言えなかった」


「だから、黙ったのですか」


「ああ」


 書庫に、紙の擦れる音だけが響いた。


 セレネは帳面の頁へ視線を戻した。責める言葉なら、いくつも浮かんだ。署名をする前に、もっと疑うべきだった。住民の前で読み上げるべきだった。間違いを認めるのが遅すぎた。


 けれど、赤い校正線は彼の過去を直してはくれない。


「私は、身分のある人が間違いを認めることなどないと思っていました」


 ラウルが顔を上げた。


「王都では、平民の読み方など信用できないと言われ続けました。だから、誰かの署名を止めるたびに、私が余計なことをしているのではないかと考えていた」


「君は余計なことをしていない」


「まだ、そう言い切れません。私が見抜いても、署名した人が理解していなければ、契約は変わらない」


「それでも、見抜いたことには意味がある」


 ラウルは帳面の七つの記号を指した。


「この人たちは、名前を残しただけではない。後の者が確かめられるように、役目まで残した。君が見つけた赤い線も、同じだ」


 セレネは息を止めた。


 机の上で、帳面の記号が淡く光る。


 七つの線が、それぞれ別の場所へ伸びていった。北門、古井戸、染物工房、旧水車小屋、東の堤、鐘楼下の宿、そして領主館の奥。


 最後の線だけが、ラウルの背後にある壁へ向かっている。


 ラウルが壁の木張りを調べると、一枚だけ釘の位置が違っていた。外すと、小さな空間から封筒が落ちる。


 封蝋は割れていた。


 中には、短い紙片が一枚だけ入っていた。


 《領主の署名は、血筋では継承されない。住民の前で、過去の判断と現在の意思を明らかにした者だけが、七人目の署名者となる》


 ラウルは紙片を読み終えると、目を閉じた。


「私には、資格がない」


「まだ署名していません」


「資格を得るには、住民の前で話せということだ」


「なら、話せばいいのです」


「簡単に言うな」


「簡単ではありません。でも、条文はあなたを許すために書かれていない。住民が判断するために書かれている」


 ラウルは紙片を折り、セレネへ差し出した。


「君は、厳しいな」


「校正士ですから」


 彼の口元が、ほんのわずかに緩んだ。


 そのとき、階下から鐘が鳴った。


 続いて、門番の声が響く。


「王都から使者です! 商会の代理人も同行しています!」


 ノエルが窓辺へ走った。通りには王立契約院の紋章を掲げた馬車と、黒い旗を立てた商会の荷車が並んでいる。


 セレネは帳面を閉じた。


「七つの署名を探していることが知られました」


「なら、先に住民へ伝える」


 ラウルは扉へ向かった。


「商会より先に、王都より先に?」


「ああ。彼らが何を言うかではなく、私たちが何を見つけたかを、理解できる言葉で話す」


 ラウルは振り返った。


「セレネ。君も来てくれ」


「もちろんです」


 机の上で、七つの記号が最後に一度だけ光った。


 隠されていた署名は、まだ誰のものでもない。


 だが、探すべき人々の場所は、もう明らかになっていた。

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