月下の邂逅
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この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています
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月明かりが街道を青白く照らしていた。
リゼットは馬車を降り、ヴェルナーの後を追って歩き始めた。ナディアが素早く主人の傍らに並び、警戒の眼差しを漆黒の髪の男に向けている。
「お嬢様、本当によろしいのですか」
「分かっています、ナディア」
リゼットは震えそうになる声を必死に抑えた。白い手袋に包まれた手を、無意識に握りしめる。
先ほど馬車の窓越しに告げられた言葉が、まだ頭の中で響いている。
——「妹があなたに何をしたか、私は知っている」
その言葉の意味を、リゼットはまだ完全には理解できていなかった。だが、この男の目に嘘がないことだけは分かった。
ヴェルナーは振り返りもせず、闇の中を歩み続けている。その背中を見つめながら、リゼットは心の中で問いを巡らせていた。
——妹君が私に何をしたというのだろう。あの慈愛に満ちた聖女様が、私に?
復讐か。それとも妹に代わっての追い討ちか。どちらにせよ、今の自分には失うものなど何もない。
街道から少し外れた場所に、その廃教会はあった。
かつては旅人の憩いの場だったのだろう。今は屋根の半分が崩れ落ち、蔦が石壁を這い、月光だけが壊れたステンドグラスから差し込んでいる。
三人は荒れた聖堂の中に足を踏み入れた。ナディアが警戒を解かぬまま主人の傍らに控え、ヴェルナーは崩れかけた祭壇の前で立ち止まった。
「十二年前」
ヴェルナーの声が、静寂を切り裂いた。
「妹はある邪法を習得した。触れた者の記憶を操作する力だ」
「記憶を……操作する?」
ナディアが息を呑む。リゼットは黙ったまま、血の気が引いていくのを感じていた。
「あなたの呪いと同根の術。触れた相手の記憶を消す——あるいは、書き換える」
「まさか……」
ヴェルナーが振り返り、リゼットを真っ直ぐに見据えた。その紫紺の瞳に、偽りの色はない。
「あなたへの呪いは、妹が嫉妬からかけたものだ」
頭の中が真っ白になった。膝が崩れそうになるのを、リゼットは必死に堪えた。
十二年間。母の記憶を奪い、父と距離を置き、愛する人に触れることもできなかった十二年間。その全ての元凶が、あの慈愛に満ちた聖女だったというのか。
「聖女様が……私に?」
声が掠れた。信じられない。信じたくない。だが同時に、心のどこかで腑に落ちる感覚があった。
あの日。幼いマリアベルが無邪気な笑顔で手を差し伸べてきた、あの瞬間——
「嘘……嘘よ。だって、あの方は……神殿に認められた聖女で……私を断罪した被害者で……」
「信じられないのは分かる。だが事実だ」
ヴェルナーは淡々と続けた。
「私は七年前にこの事実を知った。以来、解呪の研究を続けてきた。そして一つの可能性を見出した」
リゼットは呆然と男を見上げた。七年。この男は七年もの間、たった一人で妹の罪と向き合い、見知らぬ被害者のために研究を続けてきたというのか。
「可能性……?」
ヴェルナーが動いた。何の前触れもなく、彼の手がリゼットの左手に伸びる。白い手袋の縁を掴み、引き剥がそうとする。
「——っ! 触れないで!」
全身の血が逆流するような恐怖。反射的に手を引こうとする。
「お嬢様の手袋を! 何をするのです!」
ナディアが叫ぶ。だが、遅かった。
手袋が外れる。ヴェルナーの指が、リゼットの素肌に触れた。
左手の紋章が激しく明滅する。淡い光が二人を包み、リゼットは恐怖で目を固く閉じた。
「やめて……お願い、やめて……! 貴方まで、私を忘れて……」
また、消えてしまう。この男の記憶から、私が消える。全ての説明も、希望も、何もかも——
しかし。
何秒経っただろうか。リゼットは恐る恐る目を開けた。
ヴェルナーは変わらずそこにいた。紫紺の瞳が、静かにリゼットを見下ろしている。混乱も、困惑も、そこにはない。彼女を認識している、明確な意思がある。
「……あれ?」
ナディアが呆然と呟いた。
「私を……覚えているのですか?」
リゼットの唇が震えた。信じられないものを見るように、自分の手と、そこに触れている男の指を見つめる。
「覚えている」
ヴェルナーの声は、あくまで静かだった。
「そんな……どうして……紋章は確かに光ったのに……」
「呪いの術者の血縁は、その呪いの影響を受けない。私なら、あなたに触れられる」
「血縁……聖女様のお兄様だから……」
「ああ」
その言葉が、リゼットの心の奥深くまで染み渡っていく。
触れられる。この男になら、触れても——消えない。
十二年だった。八歳のあの日から、今日この瞬間まで。母の腕の中に飛び込むことも。父に抱きしめてもらうことも。愛する人の手を握ることすら。全てを諦めて、独りで生きてきた。
誰かに触れれば、その人の中から自分が消える。だから触れない。触れられない。氷の令嬢と蔑まれても、冷たいと責められても、本当のことは誰にも言えなかった。
なのに——
「……っ」
視界が滲んだ。熱い雫が頬を伝い、顎から零れ落ちる。止められなかった。止める術を知らなかった。
「お嬢様……お嬢様、泣いて……」
ナディアの声が震えている。
「十二年……十二年よ。お母様に触れることも、お父様に抱きしめてもらうことも……殿下の手を、握ることすら……」
リゼットは両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。
「誰かに触れるたびに、その人の中から私が消えていく。だから触れなかった。触れられなかった。独りで……ずっと、独りで……」
ヴェルナーは何も言わず、静かに手を離した。けれど、離れはしない。崩れ落ちそうな彼女の傍らに、ただ立っている。
ナディアが駆け寄り、主人の背を擦ろうとして——触れることを躊躇った。長年の習慣が、彼女の手を止める。
「お嬢様……ああ、お嬢様……」
「北の領地へ来い」
ヴェルナーの声が、リゼットの嗚咽を貫いた。
「……え?」
「そこで解呪の方法を探る。あなたの呪いを、終わらせる」
「お待ちください」
ナディアが一歩前に出た。その琥珀色の瞳には、侍女らしからぬ鋭さがある。
「信用できるのですか。貴方の妹君がお嬢様に呪いをかけた——それが事実だとして、なぜ今になって名乗り出るのです」
ヴェルナーはナディアの鋭い視線を、正面から受け止めた。
「お嬢様は断罪されたばかり。行く当てがないことにつけ込んで、何を企んでいるのです」
「信じろとは言わない。だが、彼女の呪いを解けるのは私だけだ」
それは傲慢な宣言ではなかった。ただの事実として、彼は告げている。
「それは——」
「行きます」
リゼットの即答に、ナディアが息を呑んだ。
「お嬢様!?」
「ナディア、私にはもう選ぶものがないの」
リゼットは涙を拭い、真っ直ぐにヴェルナーを見上げた。その瞳には、涙の痕と共に、確かな光が宿っていた。
「婚約も、名誉も、居場所も失った。でも、この方は私の呪いを知っていて、それでも手を差し伸べてくれた」
左手を見下ろす。さっきまで男の指が触れていた、呪いの紋章。そこにはまだ、彼の手の温もりが残っているような気がした。
「触れても消えない人が、この世界にいた。それだけで——」
言葉が詰まる。リゼットは小さく首を振り、微かに笑った。
「それだけで、私は前に進めます」
「……分かりました」
ナディアは深く息を吐き、主人の傍らに並んだ。
「ならば私もお供いたします。お嬢様をお守りするのが私の務めです。たとえ北の果てであろうと」
「ナディア……」
「ただし、辺境伯閣下」
侍女は男を真っ直ぐに睨み据えた。
「お嬢様に万が一のことがあれば、私は貴方を許しません」
「……ああ」
ヴェルナーは短く頷いた。その目にわずかな変化があったように見えたのは、気のせいだったろうか。
廃教会を出ると、街道の先に黒塗りの馬車が待っていた。ヴェルナーのものだろう。彼は街道に一人で立っていたわけではなく、自らの馬車を少し離れた場所に待機させていたのだ。
「あちらの馬車で北へ向かう。公爵家の馬車は王都へ戻すがいい」
ヴェルナーが短く告げた。リゼットは頷き、公爵家の御者に声をかけた。
「ここまでありがとう。屋敷へ戻って、お父様に無事を伝えてちょうだい」
御者は戸惑いながらも一礼し、馬車を反転させて王都への道を引き返していった。
三人はヴェルナーの馬車に乗り込み、北へと出発した。
「辺境伯閣下」
リゼットは向かいに座る男に問いかけた。
「何だ」
「なぜ、妹君の罪を償おうとなさるのですか。貴方には何の責任もないのに」
ヴェルナーは窓の外を見つめたまま、誰に言うともなく呟いた。
「……妹の罪は私が償う」
「……」
「気づけなかった。止められなかった。それは私の罪だ」
その言葉の重みを、リゼットはまだ完全には理解していなかった。だが、この男が背負っているものの一端を、彼女は確かに感じ取っていた。
「……優しい方なのですね」
「違う」
「いいえ。優しい方です。……不器用なだけで」
ヴェルナーは何も答えなかった。
自分の手を見下ろす。白い手袋を嵌め直した左手。その下に刻まれた紋章は、まだ確かに存在している。けれど——
「温かい」
「お嬢様?」
「いいえ、何でもないの。……ただ、十二年ぶりに、誰かの手の温もりを知っただけ」
ナディアの目に涙が光った。
「……お嬢様」
「行きましょう、ナディア。北へ」
馬車の軋む音に紛れて、リゼットは小さく呟いた。
十二年ぶりに、誰かの手の温もりを知った。それは、リゼットの人生の中で、最も小さくて、最も大きな奇跡だった。
窓の外では、月が静かに二人の旅路を照らしていた。北の空には、まだ見ぬ星々が瞬いている。




