表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/3

消えゆく記憶の日記

【お知らせ】

この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています

あらかじめご了承の上、お楽しみください

王宮を出たその足で公爵邸へ戻り、リゼットとナディアは足早に荷造りを進めていた。


月光が窓から差し込む私室で、リゼットは慣れ親しんだ部屋を見回していた。


豪奢な天蓋付きのベッド、母から受け継いだ象牙の化粧台、窓辺に置かれた枯れかけの白薔薇——そのすべてが、もう自分のものではなくなる。明日にはこの部屋に別の誰かが住むのかもしれない。あるいは、永遠に空き部屋として放置されるのか。どちらにせよ、リゼット・エヴァンシアという存在がここにいた痕跡は、やがて薄れていくのだろう。


ナディアが旅行鞄に必要最低限の衣類を詰めていく音だけが、静寂の中に響いていた。手慣れた動きは、長年仕えてきた侍女ならではのものだ。


「お嬢様、これは……お持ちになりますか」


ナディアが差し出したのは、使い込まれた革表紙の小さな本だった。抽斗の奥深くに隠されていたそれを、リゼットは震える指先で受け取る。


『第一の日記帳——私の記憶』


金箔の押された文字は色褪せ、角は擦り切れている。十二年分の歳月が、その傷みに刻まれていた。


「……持っていくわ。これだけは」


「第一の日記帳……十二年前からの、ですね」


「ええ。私の記憶そのものよ。この日記がなければ、私は自分が誰なのかすら分からなくなっていたかもしれない」


リゼットは静かに表紙を開いた。最初の頁には、まだ幼さの残る丸い文字が並んでいる。インクの色は褪せ、紙は黄ばんでいたが、そこに刻まれた言葉は今も鮮明に読み取れた。


「……最初の頁は、確か」


ナディアが言いかけた言葉を、リゼットが引き継ぐ。


「今日、マリアベル様にお手を触れていただいた。とても優しかった。『お姉様』と呼んでくださって、とても嬉しかった。でも翌日、お母様が私を見て『あなた誰?』と仰った……私のことを忘れてしまったみたい。どうしてだろう。とても悲しい」


幼い字は所々滲んでいた。涙の跡だ。八歳の少女が、理解できない恐怖に震えながら書いた文字。


「八歳のお嬢様が……泣きながら書かれたのですね」


「この日から……すべてが変わったのね」


リゼットは頁を指でなぞった。当時の恐怖が、まるで昨日のことのように蘇る。


「幼い字が所々滲んでいるでしょう? 当時の私がどれほど怖かったか、今でも思い出せるわ」


ナディアが手を止め、主人の横顔を見つめる。月明かりに照らされた銀灰の髪が、悲しいほど美しく輝いていた。


沈黙が部屋を満たす。リゼットは日記を膝に置き、ゆっくりと白い手袋を外した。


「……見せてもいいかしら。この紋章を」


「はい」


ナディアの声は静かだった。彼女はこの紋章を知っている。十二年間、ずっと見守ってきたのだから。


左手の甲に、蔦が絡まるような複雑な紋様が浮かんでいる。月光の下で、それは微かに脈打つように明滅していた。まるで生きているかのように。禍々しく、そして残酷なほど美しい。


「この呪いは八歳の時から。触れた者は、私に関する全ての記憶を失う。名前も、顔も、共に過ごした時間も——何もかも」


リゼットの声は、驚くほど淡々としていた。何度も反芻してきた事実。けれど声に出すのは、おそらく初めてだった。


「お嬢様はあの日から、誰にも触れないよう生きてこられた」


静かな声だった。責めるでもなく、憐れむでもない。ただ、事実を共有する者としての重みがあった。


「お母様のことは……仕方なかったの。私が抱きついてしまったから」


「あれはお嬢様のせいではありません。熱が下がって嬉しかっただけ。八歳の子供が母親に抱きつくのは当然のこと」


「でも、結果は同じよ。お母様は私を見て叫んだわ。『あなた誰? この子は誰なの?』って」


リゼットは目を閉じた。あの日の光景が、鮮明に蘇る。


マリアベルに触れられた翌朝のことだった。その夜は高熱に苦しみ、うなされ続けたが、翌朝になってようやく熱が下がった。目を覚ました時、最初に見たのは母の泣き顔だった。嬉しかった。心配してくれたのだと思った。幼いリゼットは、ベッドから身を起こすなり、母の首に抱きついた。


その瞬間だった。左手の甲が、焼けるように熱くなった。


そして——母の瞳から、光が消えた。


「……はい。私も、あの日のことは忘れません」


ナディアの声が、回想から引き戻す。


「必死に呼んだの。『お母様、私よ! リゼットよ!』って。何度も、何度も」


「奥様は……最後まで思い出されることはありませんでした」


「ええ。お母様の瞳から、私という存在が消えていくのを見たわ。あの恐怖は、言葉にできない」


母は抱きついてくる小さな体を、困惑した様子で引き剥がした。見知らぬ子供を見るような目で、リゼットを見つめた。あの目を、リゼットは生涯忘れることができない。


「旦那様が駆けつけられて……」


「お父様はすぐに分かったのでしょうね。私の手の紋章を見て、一言だけ仰ったわ。『リゼット、今後は誰にも触れてはならない』と」


「理由も、説明もなく……」


「幼い私には何も分からなかった。分かったのは、お母様がもう私を見てくれないこと。そしてお父様も、私を抱きしめてはくれないこと」


その日から、リゼットの世界は硝子の壁で覆われた。触れられない。触れてはいけない。その呪縛は、十二年経った今も解けていない。


「旦那様もまた……お嬢様の記憶を失いたくなかったのでしょう」


「今なら分かるわ。でも、当時は……ただ冷たい父親だと思っていた。誰にも愛されていないのだと」


リゼットは日記の頁をめくった。八歳から始まった記録は、やがて別の日記帳へと続いていく。鞄の中から、もう一冊を取り出す。


『第三の日記帳——殿下との日々』


「だからこそ、殿下との婚約が決まった時、嬉しかったの。誰かに愛されるかもしれないと思った。でも同時に、絶望もした」


「殿下に触れられないから……」


「殿下を忘れたくなかった。だから触れなかった。私が触れれば、殿下は私との全てを忘れてしまうから」


「三年間……ずっと」


「この第三の日記帳に、全部書いたわ。殿下との日々を、一日も欠かさず」


日記を開く。十七歳の春、婚約が決まった日の記述。金色の髪と青い瞳が、陽光の中で眩しかった。幸せだった。でも同時に、絶望した。


「今日、殿下が私に手を差し伸べてくださった……あの日の殿下のお姿を、私も覚えています」


「ダンスの誘いだったわ。断るしかなかった。殿下は傷ついた顔をされた。でも、理由は言えなかった」


「なぜ……呪いのことをお話しにならなかったのですか」


ナディアの問いに、リゼットは静かに首を振った。


「呪われた女と知れば、殿下は義務感で傍にいてくださったでしょう。そんな愛は要らなかった」


「お嬢様は……殿下の愛を試されたかったのではなく」


「ただ、対等でありたかっただけよ。憐れみでも、義務でもなく、私という人間を愛してほしかった。……高望みだったわね」


頁をめくる。インクの滲みが増えていく。涙の跡だ。


「日記のインクの滲み、増えていくでしょう? 涙の跡よ。触れられないなら、せめて文字で残そうと思った。私の想いを。殿下との思い出を」


「いつか全てを忘れてしまう日が来ても、日記があれば思い出せるから……と」


「ええ。でも結局、殿下は私を『冷たい女』だと断じた。触れないことを愛情の欠如だと」


ナディアの目に涙が滲んだ。


「殿下は何も分かっておられなかった。お嬢様がどれほど——」


「いいのよ、ナディア。仕方のないことだわ。見えないものを信じろというほうが酷な話」


「お嬢様は、ずっとお一人で……」


「一人じゃなかったわ」


リゼットは微笑む。悲しいほど穏やかな笑みだった。


「貴女がいた。この日記があった。それだけで、生きてこられた」


「……お嬢様」


ナディアの声が震える。リゼットは彼女を見つめ、首を横に振った。


「泣かないで。貴女まで泣いたら、私の涙が枯れてしまうわ」


「申し訳ありません……でも、私は……ずっと、お嬢様のお傍にいられて幸せでした」


「私もよ。さあ、行きましょう。荷造りは終わった?」


「はい。……お嬢様、玄関に旦那様がいらっしゃいました」


「お父様が? こんな夜更けに……」


荷造りを終え、リゼットとナディアは私室を後にした。深夜の廊下は静まり返っていた。使用人たちはもう寝静まっている。誰にも見送られず、誰にも気づかれず——それが、公爵令嬢の最後の夜だった。


しかし、玄関ホールに足を踏み入れた時、リゼットは足を止めた。


月明かりが差し込む広間に、一人の男が立っていた。銀灰の髪。厳格な面持ち。五十を過ぎてなお衰えぬ威厳を纏った男——アルベルト・エヴァンシア公爵。


「リゼット」


父の声が、かすれていた。


「お父様……」


「……すまなかった」


「……え?」


「すまなかった、リゼット」


たった一言だった。けれどその一言に、十二年分の想いが込められていた。


「お父様……」


「触れてやれなかった。抱きしめてやれなかった。お前が泣いていても、手を差し伸べることすらできなかった」


「お父様のせいではありません」


「……分かっていたのだ。お前が孤独だと。愛されていないと思い込んでいると。それでも、記憶を失いたくなかった。お前という娘を、忘れたくなかった」


父の目に、リゼットが見たことのない光があった。苦悩。後悔。そして、言葉にできない愛情。


「……はい」


「不器用な父を、許してくれ」


リゼットは静かに首を振った。


「お父様……呪いをかけられたのは私です。触れられないのも私。お父様は、私の記憶を守ろうとしてくださっただけ」


父は何も言わない。言いたいことが山ほどあるのに、言葉が出てこないのだろう。そんな父を見て、リゼットは初めて——父の不器用な愛情を理解した。


「今なら分かります。お父様の不器用な愛情が。だから、謝らないでください」


「リゼット……」


「行ってまいります、お父様」


深々と一礼する。触れることはできない。抱きしめてもらうこともできない。けれど、これが精一杯の別れだった。


「……どこへ行く」


「まだ分かりません。でも、王都にはいられませんから」


「必要なものがあれば、何でも言え。金も、人も、用意する」


「ありがとうございます。でも、今はナディアがいれば十分です」


「……そうか」


「お元気で、お父様」


リゼットは背を向け、歩き出した。振り返らなかった。振り返れば、きっと涙が溢れてしまうから。


アルベルトは、娘の背中が闇に消えるまで、その場に立ち尽くしていた。握りしめた拳が、微かに震えていた。


馬車が走り出してから、どれほど経っただろう。


「お嬢様……旦那様の拳が震えておいででした」


「見ていたわ。……お父様も、ずっと苦しんでいたのね」


「旦那様なりの愛情だったのですね。触れられない代わりに、せめて言葉で伝えようと」


「十二年遅かったけれど……でも、聞けてよかった」


揺れる車内で、リゼットは窓の外を見つめていた。月明かりに照らされた街道が、後ろへと流れていく。王都の灯りが、少しずつ遠ざかっていく。


膝の上には、三冊の日記帳が重ねられていた。十二年分の記憶。それだけが、今の自分に残されたすべて。


「お嬢様……少し、お休みになられては」


ナディアが毛布を掛けてくれた。


「……ナディア」


リゼットは窓から視線を外さず、静かに問うた。


「私は、これからどこへ行けばいいのかしら」


「……まずは王都を離れましょう。それから考えても遅くはありません」


「そうね。行く当てなどないけれど……少なくとも、ここにはいられない」


返答はなかった。ナディアにも、分からないのだ。行く当てなどない。実家には戻れない。父の立場を危うくする。かといって、頼れる親戚もいない。呪いのことは秘密にされていたから、誰も事情を知らない。


「きっと、道は開けます。お嬢様には、その価値がありますから」


「……ありがとう、ナディア」


そう言いかけた時だった。


馬車が急停止した。


「きゃっ!」


二人は座席から投げ出されそうになる。御者の慌てた声が聞こえた。


「な、何者だ! 道を開けろ!」


「お嬢様、馬車が——!」


「何事……?」


ナディアが身を乗り出す。


「誰かが道を塞いでいます。お嬢様、お下がりください」


リゼットは身を起こし、窓の外を覗いた。


月明かりに照らされた街道の真ん中に、一人の男が立っていた。


漆黒の髪。深い紫紺の瞳。感情の読めない冷厳な面持ち。


「……あの人は」


「お嬢様?」


「漆黒の髪に、紫紺の瞳……間違いないわ。ヴェルナー辺境伯よ」


ナディアの顔色が変わる。


「辺境伯……! 聖女様のお兄様ではありませんか。なぜこんな場所に」


「分からないわ。でも……」


リゼットは眉をひそめた。北方辺境伯といえば、社交界では「氷の辺境伯」と恐れられる人物。聖女マリアベルの兄でありながら、王都の華やかな場にはほとんど姿を見せない。なぜそのような人物が、こんな夜更けに、断罪された令嬢の馬車を止めるのか。


男が馬車に歩み寄り、窓越しにリゼットと目を合わせた。


「エヴァンシア嬢」


低く、冷たい声。けれど、敵意はない。


「……辺境伯閣下。お顔と噂は存じ上げております」


ナディアが主人を庇うように身を乗り出す。


「お嬢様、お気をつけください。この方は——」


「分かっているわ、ナディア。……閣下、こんな夜更けに、このような場所で、私に何の御用でしょう」


ヴェルナーの表情は変わらない。月光に照らされた紫紺の瞳が、じっとリゼットを見つめている。


「……馬車を降りてもらいたい。立ち話で済む内容ではない」


「お嬢様を害するおつもりなら——」


「害さない。むしろ、その逆だ」


「……逆、とは」


ヴェルナーの唇が、かすかに動いた。


「妹があなたに何をしたか、私は知っている」


その瞬間、リゼットの呼吸が止まった。


「——っ」


「お嬢様……?」


左手の紋章が、かすかに脈打った。月明かりの下、二つの視線が交錯する。


「……閣下。それは、一体どういう意味でしょうか」


「この場で話すには長い。ついて来い」


ナディアが必死に止める。


「お嬢様、これは罠かもしれません」


「……かもしれないわね。でも」


「でも……?」


「この方の目は、嘘をついていない。少なくとも、今は」


ヴェルナーの表情が、ほんのわずかに緩んだように見えた。


「……聡明だな」


「お褒めに預かり光栄ですわ、閣下。……参りましょう。貴方の話を聞かせていただきます」


「お嬢様……」


「大丈夫よ、ナディア。行く当てもない私たちに、選り好みをする余裕はないでしょう?」


ヴェルナーが踵を返す。


「こちらだ」


リゼットは馬車を降り、その後を追った。左手の紋章が、先ほどより強く脈打っている。


この男の前に立つと、何かが動き始める予感がする。


「お嬢様、何か仰いましたか」


「いいえ、何も。……行きましょう」


月明かりの街道を、三つの影が進んでいく。


何かが、確実に動き始めようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ