消えゆく記憶の日記
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王宮を出たその足で公爵邸へ戻り、リゼットとナディアは足早に荷造りを進めていた。
月光が窓から差し込む私室で、リゼットは慣れ親しんだ部屋を見回していた。
豪奢な天蓋付きのベッド、母から受け継いだ象牙の化粧台、窓辺に置かれた枯れかけの白薔薇——そのすべてが、もう自分のものではなくなる。明日にはこの部屋に別の誰かが住むのかもしれない。あるいは、永遠に空き部屋として放置されるのか。どちらにせよ、リゼット・エヴァンシアという存在がここにいた痕跡は、やがて薄れていくのだろう。
ナディアが旅行鞄に必要最低限の衣類を詰めていく音だけが、静寂の中に響いていた。手慣れた動きは、長年仕えてきた侍女ならではのものだ。
「お嬢様、これは……お持ちになりますか」
ナディアが差し出したのは、使い込まれた革表紙の小さな本だった。抽斗の奥深くに隠されていたそれを、リゼットは震える指先で受け取る。
『第一の日記帳——私の記憶』
金箔の押された文字は色褪せ、角は擦り切れている。十二年分の歳月が、その傷みに刻まれていた。
「……持っていくわ。これだけは」
「第一の日記帳……十二年前からの、ですね」
「ええ。私の記憶そのものよ。この日記がなければ、私は自分が誰なのかすら分からなくなっていたかもしれない」
リゼットは静かに表紙を開いた。最初の頁には、まだ幼さの残る丸い文字が並んでいる。インクの色は褪せ、紙は黄ばんでいたが、そこに刻まれた言葉は今も鮮明に読み取れた。
「……最初の頁は、確か」
ナディアが言いかけた言葉を、リゼットが引き継ぐ。
「今日、マリアベル様にお手を触れていただいた。とても優しかった。『お姉様』と呼んでくださって、とても嬉しかった。でも翌日、お母様が私を見て『あなた誰?』と仰った……私のことを忘れてしまったみたい。どうしてだろう。とても悲しい」
幼い字は所々滲んでいた。涙の跡だ。八歳の少女が、理解できない恐怖に震えながら書いた文字。
「八歳のお嬢様が……泣きながら書かれたのですね」
「この日から……すべてが変わったのね」
リゼットは頁を指でなぞった。当時の恐怖が、まるで昨日のことのように蘇る。
「幼い字が所々滲んでいるでしょう? 当時の私がどれほど怖かったか、今でも思い出せるわ」
ナディアが手を止め、主人の横顔を見つめる。月明かりに照らされた銀灰の髪が、悲しいほど美しく輝いていた。
沈黙が部屋を満たす。リゼットは日記を膝に置き、ゆっくりと白い手袋を外した。
「……見せてもいいかしら。この紋章を」
「はい」
ナディアの声は静かだった。彼女はこの紋章を知っている。十二年間、ずっと見守ってきたのだから。
左手の甲に、蔦が絡まるような複雑な紋様が浮かんでいる。月光の下で、それは微かに脈打つように明滅していた。まるで生きているかのように。禍々しく、そして残酷なほど美しい。
「この呪いは八歳の時から。触れた者は、私に関する全ての記憶を失う。名前も、顔も、共に過ごした時間も——何もかも」
リゼットの声は、驚くほど淡々としていた。何度も反芻してきた事実。けれど声に出すのは、おそらく初めてだった。
「お嬢様はあの日から、誰にも触れないよう生きてこられた」
静かな声だった。責めるでもなく、憐れむでもない。ただ、事実を共有する者としての重みがあった。
「お母様のことは……仕方なかったの。私が抱きついてしまったから」
「あれはお嬢様のせいではありません。熱が下がって嬉しかっただけ。八歳の子供が母親に抱きつくのは当然のこと」
「でも、結果は同じよ。お母様は私を見て叫んだわ。『あなた誰? この子は誰なの?』って」
リゼットは目を閉じた。あの日の光景が、鮮明に蘇る。
マリアベルに触れられた翌朝のことだった。その夜は高熱に苦しみ、うなされ続けたが、翌朝になってようやく熱が下がった。目を覚ました時、最初に見たのは母の泣き顔だった。嬉しかった。心配してくれたのだと思った。幼いリゼットは、ベッドから身を起こすなり、母の首に抱きついた。
その瞬間だった。左手の甲が、焼けるように熱くなった。
そして——母の瞳から、光が消えた。
「……はい。私も、あの日のことは忘れません」
ナディアの声が、回想から引き戻す。
「必死に呼んだの。『お母様、私よ! リゼットよ!』って。何度も、何度も」
「奥様は……最後まで思い出されることはありませんでした」
「ええ。お母様の瞳から、私という存在が消えていくのを見たわ。あの恐怖は、言葉にできない」
母は抱きついてくる小さな体を、困惑した様子で引き剥がした。見知らぬ子供を見るような目で、リゼットを見つめた。あの目を、リゼットは生涯忘れることができない。
「旦那様が駆けつけられて……」
「お父様はすぐに分かったのでしょうね。私の手の紋章を見て、一言だけ仰ったわ。『リゼット、今後は誰にも触れてはならない』と」
「理由も、説明もなく……」
「幼い私には何も分からなかった。分かったのは、お母様がもう私を見てくれないこと。そしてお父様も、私を抱きしめてはくれないこと」
その日から、リゼットの世界は硝子の壁で覆われた。触れられない。触れてはいけない。その呪縛は、十二年経った今も解けていない。
「旦那様もまた……お嬢様の記憶を失いたくなかったのでしょう」
「今なら分かるわ。でも、当時は……ただ冷たい父親だと思っていた。誰にも愛されていないのだと」
リゼットは日記の頁をめくった。八歳から始まった記録は、やがて別の日記帳へと続いていく。鞄の中から、もう一冊を取り出す。
『第三の日記帳——殿下との日々』
「だからこそ、殿下との婚約が決まった時、嬉しかったの。誰かに愛されるかもしれないと思った。でも同時に、絶望もした」
「殿下に触れられないから……」
「殿下を忘れたくなかった。だから触れなかった。私が触れれば、殿下は私との全てを忘れてしまうから」
「三年間……ずっと」
「この第三の日記帳に、全部書いたわ。殿下との日々を、一日も欠かさず」
日記を開く。十七歳の春、婚約が決まった日の記述。金色の髪と青い瞳が、陽光の中で眩しかった。幸せだった。でも同時に、絶望した。
「今日、殿下が私に手を差し伸べてくださった……あの日の殿下のお姿を、私も覚えています」
「ダンスの誘いだったわ。断るしかなかった。殿下は傷ついた顔をされた。でも、理由は言えなかった」
「なぜ……呪いのことをお話しにならなかったのですか」
ナディアの問いに、リゼットは静かに首を振った。
「呪われた女と知れば、殿下は義務感で傍にいてくださったでしょう。そんな愛は要らなかった」
「お嬢様は……殿下の愛を試されたかったのではなく」
「ただ、対等でありたかっただけよ。憐れみでも、義務でもなく、私という人間を愛してほしかった。……高望みだったわね」
頁をめくる。インクの滲みが増えていく。涙の跡だ。
「日記のインクの滲み、増えていくでしょう? 涙の跡よ。触れられないなら、せめて文字で残そうと思った。私の想いを。殿下との思い出を」
「いつか全てを忘れてしまう日が来ても、日記があれば思い出せるから……と」
「ええ。でも結局、殿下は私を『冷たい女』だと断じた。触れないことを愛情の欠如だと」
ナディアの目に涙が滲んだ。
「殿下は何も分かっておられなかった。お嬢様がどれほど——」
「いいのよ、ナディア。仕方のないことだわ。見えないものを信じろというほうが酷な話」
「お嬢様は、ずっとお一人で……」
「一人じゃなかったわ」
リゼットは微笑む。悲しいほど穏やかな笑みだった。
「貴女がいた。この日記があった。それだけで、生きてこられた」
「……お嬢様」
ナディアの声が震える。リゼットは彼女を見つめ、首を横に振った。
「泣かないで。貴女まで泣いたら、私の涙が枯れてしまうわ」
「申し訳ありません……でも、私は……ずっと、お嬢様のお傍にいられて幸せでした」
「私もよ。さあ、行きましょう。荷造りは終わった?」
「はい。……お嬢様、玄関に旦那様がいらっしゃいました」
「お父様が? こんな夜更けに……」
荷造りを終え、リゼットとナディアは私室を後にした。深夜の廊下は静まり返っていた。使用人たちはもう寝静まっている。誰にも見送られず、誰にも気づかれず——それが、公爵令嬢の最後の夜だった。
しかし、玄関ホールに足を踏み入れた時、リゼットは足を止めた。
月明かりが差し込む広間に、一人の男が立っていた。銀灰の髪。厳格な面持ち。五十を過ぎてなお衰えぬ威厳を纏った男——アルベルト・エヴァンシア公爵。
「リゼット」
父の声が、かすれていた。
「お父様……」
「……すまなかった」
「……え?」
「すまなかった、リゼット」
たった一言だった。けれどその一言に、十二年分の想いが込められていた。
「お父様……」
「触れてやれなかった。抱きしめてやれなかった。お前が泣いていても、手を差し伸べることすらできなかった」
「お父様のせいではありません」
「……分かっていたのだ。お前が孤独だと。愛されていないと思い込んでいると。それでも、記憶を失いたくなかった。お前という娘を、忘れたくなかった」
父の目に、リゼットが見たことのない光があった。苦悩。後悔。そして、言葉にできない愛情。
「……はい」
「不器用な父を、許してくれ」
リゼットは静かに首を振った。
「お父様……呪いをかけられたのは私です。触れられないのも私。お父様は、私の記憶を守ろうとしてくださっただけ」
父は何も言わない。言いたいことが山ほどあるのに、言葉が出てこないのだろう。そんな父を見て、リゼットは初めて——父の不器用な愛情を理解した。
「今なら分かります。お父様の不器用な愛情が。だから、謝らないでください」
「リゼット……」
「行ってまいります、お父様」
深々と一礼する。触れることはできない。抱きしめてもらうこともできない。けれど、これが精一杯の別れだった。
「……どこへ行く」
「まだ分かりません。でも、王都にはいられませんから」
「必要なものがあれば、何でも言え。金も、人も、用意する」
「ありがとうございます。でも、今はナディアがいれば十分です」
「……そうか」
「お元気で、お父様」
リゼットは背を向け、歩き出した。振り返らなかった。振り返れば、きっと涙が溢れてしまうから。
アルベルトは、娘の背中が闇に消えるまで、その場に立ち尽くしていた。握りしめた拳が、微かに震えていた。
馬車が走り出してから、どれほど経っただろう。
「お嬢様……旦那様の拳が震えておいででした」
「見ていたわ。……お父様も、ずっと苦しんでいたのね」
「旦那様なりの愛情だったのですね。触れられない代わりに、せめて言葉で伝えようと」
「十二年遅かったけれど……でも、聞けてよかった」
揺れる車内で、リゼットは窓の外を見つめていた。月明かりに照らされた街道が、後ろへと流れていく。王都の灯りが、少しずつ遠ざかっていく。
膝の上には、三冊の日記帳が重ねられていた。十二年分の記憶。それだけが、今の自分に残されたすべて。
「お嬢様……少し、お休みになられては」
ナディアが毛布を掛けてくれた。
「……ナディア」
リゼットは窓から視線を外さず、静かに問うた。
「私は、これからどこへ行けばいいのかしら」
「……まずは王都を離れましょう。それから考えても遅くはありません」
「そうね。行く当てなどないけれど……少なくとも、ここにはいられない」
返答はなかった。ナディアにも、分からないのだ。行く当てなどない。実家には戻れない。父の立場を危うくする。かといって、頼れる親戚もいない。呪いのことは秘密にされていたから、誰も事情を知らない。
「きっと、道は開けます。お嬢様には、その価値がありますから」
「……ありがとう、ナディア」
そう言いかけた時だった。
馬車が急停止した。
「きゃっ!」
二人は座席から投げ出されそうになる。御者の慌てた声が聞こえた。
「な、何者だ! 道を開けろ!」
「お嬢様、馬車が——!」
「何事……?」
ナディアが身を乗り出す。
「誰かが道を塞いでいます。お嬢様、お下がりください」
リゼットは身を起こし、窓の外を覗いた。
月明かりに照らされた街道の真ん中に、一人の男が立っていた。
漆黒の髪。深い紫紺の瞳。感情の読めない冷厳な面持ち。
「……あの人は」
「お嬢様?」
「漆黒の髪に、紫紺の瞳……間違いないわ。ヴェルナー辺境伯よ」
ナディアの顔色が変わる。
「辺境伯……! 聖女様のお兄様ではありませんか。なぜこんな場所に」
「分からないわ。でも……」
リゼットは眉をひそめた。北方辺境伯といえば、社交界では「氷の辺境伯」と恐れられる人物。聖女マリアベルの兄でありながら、王都の華やかな場にはほとんど姿を見せない。なぜそのような人物が、こんな夜更けに、断罪された令嬢の馬車を止めるのか。
男が馬車に歩み寄り、窓越しにリゼットと目を合わせた。
「エヴァンシア嬢」
低く、冷たい声。けれど、敵意はない。
「……辺境伯閣下。お顔と噂は存じ上げております」
ナディアが主人を庇うように身を乗り出す。
「お嬢様、お気をつけください。この方は——」
「分かっているわ、ナディア。……閣下、こんな夜更けに、このような場所で、私に何の御用でしょう」
ヴェルナーの表情は変わらない。月光に照らされた紫紺の瞳が、じっとリゼットを見つめている。
「……馬車を降りてもらいたい。立ち話で済む内容ではない」
「お嬢様を害するおつもりなら——」
「害さない。むしろ、その逆だ」
「……逆、とは」
ヴェルナーの唇が、かすかに動いた。
「妹があなたに何をしたか、私は知っている」
その瞬間、リゼットの呼吸が止まった。
「——っ」
「お嬢様……?」
左手の紋章が、かすかに脈打った。月明かりの下、二つの視線が交錯する。
「……閣下。それは、一体どういう意味でしょうか」
「この場で話すには長い。ついて来い」
ナディアが必死に止める。
「お嬢様、これは罠かもしれません」
「……かもしれないわね。でも」
「でも……?」
「この方の目は、嘘をついていない。少なくとも、今は」
ヴェルナーの表情が、ほんのわずかに緩んだように見えた。
「……聡明だな」
「お褒めに預かり光栄ですわ、閣下。……参りましょう。貴方の話を聞かせていただきます」
「お嬢様……」
「大丈夫よ、ナディア。行く当てもない私たちに、選り好みをする余裕はないでしょう?」
ヴェルナーが踵を返す。
「こちらだ」
リゼットは馬車を降り、その後を追った。左手の紋章が、先ほどより強く脈打っている。
この男の前に立つと、何かが動き始める予感がする。
「お嬢様、何か仰いましたか」
「いいえ、何も。……行きましょう」
月明かりの街道を、三つの影が進んでいく。
何かが、確実に動き始めようとしていた。




