断罪の夜会
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王宮の大広間には、千のシャンデリアが星のように煌めいていた。
クリスタルの輝きが磨き上げられた大理石の床に反射し、絹のドレスと宝石を纏った貴族たちの姿を一層華やかに彩っている。弦楽四重奏の優雅な旋律が空気を満たし、給仕たちが銀の盆に載せた琥珀色のシャンパンを運ぶ。社交界の華やかな一夜——誰もがそう信じていた。
その均衡が崩れたのは、第二王子セルジュ・ラ・ヴァロワが突如として音楽を止めさせた瞬間だった。
「リゼット・エヴァンシア」
金糸のように艶やかな髪を持つ王子の声が、シャンデリアの煌めく大広間に響き渡った。弦楽四重奏の旋律が唐突に途切れ、千もの視線が一点に集まる。碧い瞳には冷たい光が宿り、かつて婚約者に向けていた柔らかな眼差しの面影はどこにもない。
貴族たちが左右に割れ、その視線の先に淡い銀灰色の髪を持つ令嬢が姿を現した。
「殿下、お呼びでしょうか」
淡い銀灰色の髪が揺れ、冬の湖を思わせる薄青の瞳が静かに王子を見上げた。白い手袋に包まれた両手を淑やかに重ね、リゼットは会場の中央へと歩を進める。その足取りには、一片の乱れもなかった。
セルジュは一歩踏み出し、会場の全員に聞こえるよう声を張り上げた。
「お前との婚約を、本日をもって破棄する」
広間がざわめいた。貴婦人たちが扇で口元を隠し、紳士たちが眉を顰める。公衆の面前での婚約破棄——これほどの屈辱があるだろうか。
リゼットの表情は、しかし、微塵も変わらなかった。
セルジュの傍らで、蜂蜜色の巻き毛を持つ少女が小さく身を震わせた。マリアベル・ヴェルナー——神殿に見出された聖女。その翠の瞳から真珠のような涙が一筋こぼれ落ちる。その儚げな姿に、周囲の視線が同情の色を帯びた。
「私のせいで……」
儚げな声が漏れる。セルジュが庇うようにマリアベルの肩に手を置いた。その自然な仕草を、リゼットは静かに見つめていた。触れること。それがどれほど当たり前で、どれほど遠いものか。
「違う、マリアベル。悪いのはお前ではない」
王子の視線が、再びリゼットを射抜く。
「三年の婚約期間——お前は一度たりとも、私に触れようとしなかった」
セルジュの声には、積もり積もった怒りが滲んでいた。碧い瞳が冷たく光り、かつて婚約者に向けていた柔らかな眼差しの面影はどこにもない。
「触れることすらなかったと……?」
貴族の一人が囁く。別の貴婦人が扇の陰で応じた。
「それは確かに異常ですわね」
「ダンスに誘えば、体調を理由に断る。手を差し伸べれば、視線を逸らす」
一歩、また一歩と、セルジュがリゼットに近づいていく。リゼットの白い手袋の下で、指先がかすかに震えた。だが、それを見た者は誰もいない。
「その冷たさ、その傲慢さに——私はもう耐えられない」
リゼットの脳裏に、不意に記憶が蘇った。
——二年前の夏。月明かりの下で、二人きりの庭園。
『なぜいつも距離を置くのだ、リゼット』
セルジュの声には、傷ついた響きがあった。
『申し訳ございません、殿下。私は——』
『私は、お前のことを』
彼が手を伸ばした瞬間、リゼットは身を引いた。セルジュの指先が空を切る。彼の悲しげな表情を、リゼットは今も覚えている。
——あの夜のことを、日記に何度書いただろう。殿下の手を取りたかった。抱きしめたかった。でも、できなかった。触れてしまえば、殿下は私のことを忘れてしまうから。
「殿下……もうおやめになって。リゼット様も、お辛いでしょうから」
マリアベルの慈愛に満ちた声が響く。その繊細な指がセルジュの袖に触れると、王子の表情がわずかに和らいだ。その光景を、リゼットは瞬きもせずに見つめていた。
『羨ましい』
その感情を、彼女は日記に何度書いただろう。聖女がセルジュに触れている。当たり前のように、何の躊躇いもなく。
「エヴァンシア嬢に弁明の機会を与えるべきでは」
貴族の一人が声を上げた。だがセルジュは首を横に振る。
「弁明? 三年間、私が何度問いかけても、彼女は何も答えなかった。今更何を聞くというのだ」
その言葉に、リゼットの唇がわずかに震えた。答えなかったのではない。答えられなかったのだ。この呪われた手のことを、どう説明すればよかったというのか。
「何か申し開きはあるか、リゼット」
問いかけの形をした最後通告だった。リゼットは深く息を吸った。日記に書き綴った三年分の想い、毎晩震える指で記した彼への愛——その全てを、喉の奥に押し込めて。
「仰せのままに」
ただ一言。それだけを返した。会場が静まり返る。その短い言葉の中に秘められた感情を読み取れる者は、この場には一人もいなかった。
「……それだけか」
セルジュの声に、わずかな動揺が混じる。
「殿下のご判断に、異論はございません」
セルジュの瞳に、一瞬だけ何かが揺れた。怒りか、失望か、あるいは——かつての想いの残滓か。だが、それも一瞬のこと。
「出ていけ」
氷のような声だった。リゼットは深々と一礼した。銀灰色の髪がさらりと揺れ、シャンデリアの光を反射する。その仕草は完璧で、どこまでも優雅だった。
「リゼット様……どうか、お体にお気をつけて」
追い打ちのような慈愛の言葉。マリアベルの翠の瞳には、涙に濡れた無垢な光があった。だが、その奥に潜む何かに気づく者は——この広間には、ほとんどいなかった。
会場の隅、柱の影に身を寄せる漆黒の髪の男がいた。深い紫紺の瞳が、二つのものを交互に見つめている。去りゆくリゼットの白い手袋と、涙を流す妹の姿を。
ヴェルナー・クラウス・ヴェルナー。北方辺境伯。「氷の辺境伯」と恐れられる寡黙な男は、妹の涙が美しいことを知っていた。誰もがその純粋さを信じ、その慈愛に心を寄せる。だが彼には分かっていた——あの涙が、どれほど計算されたものであるか。
「殿下、これは——」
赤毛の騎士が声を上げかけた。オスカー・デュマ。騎士団副団長にして、セルジュの側近。
「何か問題があるか、オスカー」
「……いえ。失礼いたしました」
赤毛の騎士は言葉を飲み込んだ。だが、その琥珀色の瞳には拭いきれない疑念が宿っていた。証拠もなく、公衆の面前での断罪。これが、本当に正しい裁きなのだろうか。
リゼットは一度も振り返ることなく、大広間の扉へと向かった。背中に突き刺さる無数の視線、囁き声、嘲笑。その全てを、彼女は三年分の記憶と共に、白い手袋の下に閉じ込めていた。
「氷の令嬢が、ようやく消えましたわね」
「殿下も長い間、ご苦労されたことでしょう」
扉が閉まる直前、リゼットの薄青の瞳が一瞬だけ揺れた。振り返りたい衝動を、渾身の力で押し殺す。——振り返らない。もう、振り返らない。
月光に照らされた廊下。リゼットの足音だけが、静寂の中に響いていた。高い天井から差し込む蒼白い光が、大理石の床に長い影を落とす。
「……終わった」
小さく呟いた言葉が、虚空に消えていく。涙が、不意に溢れた。今まで必死に堪えていたものが、決壊したかのように。リゼットは立ち止まり、白い手袋で顔を覆った。
愛していた。三年間、ずっと。
触れられないからこそ、その分だけ想いを募らせた。日記に書くことで、記憶を繋ぎ止めてきた。彼のことを一瞬たりとも忘れないように。彼に私のことを忘れさせないように。
——なのに。
結局、彼女の献身は届かなかった。「冷たい」「傲慢」——それが、三年間の評価だった。
「お嬢様」
馴染み深い声が、廊下の奥から響いた。栗色の髪を実用的にまとめた女性が、影から姿を現す。そばかすの愛らしい侍女は、何も言わず、リゼットの傍らに寄り添った。
「ナディア……見ていたの」
「はい。全て」
ナディアの目に、一瞬、激しい怒りの光が走った。だが侍女は何も言わなかった。今、主人が必要としているのは言葉ではないと、十五年の付き合いで知っていたから。
「……情けない姿を見せてしまったわね」
「いいえ。お嬢様は立派でした。誰よりも」
リゼットは涙を拭い、顔を上げた。月明かりが、彼女の頬を濡らしていた跡を照らす。その薄青の瞳に、わずかな決意が灯り始めていた。
「ナディア、荷造りを。今夜中に屋敷を出ます」
「承知いたしました」
ナディアは深く頷いた。当然のことのように、まるでこの展開を予期していたかのように。
「あなたは残りなさい。断罪された女に付き従う必要はないわ」
「お断りいたします」
「ナディア」
「十五年間、お仕えしてまいりました。今更、離れるつもりはございません」
侍女の声は穏やかだが、揺るぎない決意に満ちていた。リゼットの瞳から、再び涙がこぼれた。だが今度は、悲しみの涙ではなかった。
「……ありがとう、ナディア」
「お嬢様の価値を知らないのは、あの王子殿下だけですわ」
小さく、けれど確かな怒りを込めて、ナディアは呟いた。リゼットは微かに苦笑し、再び歩き出した。その背筋は真っ直ぐで、もう揺らぐことはなかった。
王宮の門を出る直前、リゼットの左手が不意に熱を帯びた。白い絹の手袋の下で、呪いの紋章が淡く脈打っている。
「……また」
「お嬢様、紋章が……」
「大丈夫よ。いつものこと」
リゼットは無意識に左手を右手で包み込んだ。八歳の時に発症したこの呪い。触れた相手から、自分に関する全ての記憶を消してしまう忌まわしい力。その発端を、彼女は今も鮮明に覚えていた。
——優しい手が、幼い彼女の手を取った。
——「リゼット様、一緒に遊びましょう」
——蜂蜜色の髪を持つ少女の、無邪気な笑顔。
——そして翌日、母が彼女を見て言った言葉。
——「あなた、誰?」
「八年……長うございましたね」
ナディアが静かに言った。
「ええ。でも、もう終わったわ」
「お嬢様……」
「触れることを恐れなくていい。触れるふりをしなくていい。それだけで……少し、楽になれる気がするの」
それは歪んだ安堵だった。愛する人を失った代償に得た、奇妙な解放感。ナディアは何も言わず、ただ主人の傍に寄り添って歩いた。
王宮の門を出ると、夜風が頬を撫でた。冷たく、だが、どこか清々しい風だった。リゼットは一度も振り返ることなく、夜の王都へと歩み去った。
その背後、王宮の柱の影から、紫紺の瞳が静かに見送っていた。
「……妹の罪は、私が償う」
漆黒の髪の男は、誰にも聞こえない声で呟いた。そして、月明かりに照らされた廊下を、静かに歩き出した。
夜空には満月が輝き、王都は静かに眠りについていた。だが物語は、まだ始まったばかりだった。
馬車の車輪が石畳を鳴らす中、リゼットはふと自分の左手を見下ろした。白い手袋の下で、呪いの紋章がまだ淡く脈打っている。
三年間、この手で殿下に触れることを恐れてきた。触れれば、彼は私との全てを忘れてしまうから。
その恐怖から解放された今、残ったのは空虚だけだった。
——それとも。
リゼットは窓の外に目を向けた。月明かりに照らされた王都の街並みが、ゆっくりと後方へ流れていく。
——これは、終わりではなく、始まりなのかもしれない。
手袋の下の紋章が、また一度、強く脈打った。まるで何かを告げるように。




