第六十八話「火急の事態」
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エテメンアンキに立ち込める暗雲
音もなく書院の扉を開けて中に入ってきたのは、褐色の肌に銀色の長髪、その鍛え抜かれた肉体の大半を露出した長身の女性であった。
「凍子」
特段驚いた様子もなく新たな訪問者、瀛洲寺凍子の名を呼ぶ秋隆に対して、双葉は予想外の事態に少なからず狼狽する。
「あ、貴女はたしか久坂卿の、一体どこから……!」
「……見たことないお方ですね。斯様な姿で兄上様の前に出るなど不遜の極み、時代が時代なら閉門蟄居もあり得ますよ?」
「辞めろ綾音。彼女は私の師匠、瀛洲寺凍子だ」
「兄上様の、師匠?」
師匠と言う言葉に、綾音は微かに顔を上げ、凍子が座の末席に着く様子を見守る。
「ええ、わたくしは瀛洲寺凍子、截教の仙女、以後お見知り置きを……」
畳の上に正座し、緩やかな動作で頭を下げる凍子。その流れるような所作はまさに一流と呼ぶに相応しいもの、綾音ですら文句がつけられないほどに完璧な動きであった。
ともあれ、名乗られた以上は返礼をせねばならない。
綾音は凍子が頭を上げ、一呼吸ほど落ち着いたタイミングを見計らい、洗練された動きで頭を下げ、自身の名を名乗る。
「久坂綾音と申します。四道将軍家の娘で、久坂杏一郎様の妹です」
こちらも映像に残したいほどに見事な作法、武士の子女らしい無駄のない動きであった。
「久坂、綾音……」
綾音が頭を上げる僅かな間、凍子は聞いたばかりの名前を口の中で反芻する。
続いて合点が行ったとばかりに嘆息を漏らすと、その鋭い瞳を綾音に向けた。
「……そう、卿が五龍の姫と呼ばれた五龍久坂家の令嬢、綾音姫ですのね」
意外過ぎる言葉に綾音だけでなく秋隆や豊輝も驚愕の表情を浮かべる。
こうして会うのは初めてでも凍子は以前から綾音のことを知っていたらしい。
「凍子、私の妹のことを知っているのですか?」
秋隆の質問に対して、凍子はすぐさま頷いて見せた。
「ええ、眠りにつくより前に、卿が話してくれましたわ」
どうやら凍子は今から四千年前、秋隆が封神霊廟に赴く前に綾音のことを聞いていたらしい。
考えてみればかつての秋隆は自身の父親の話も凍子にしていたのだから、綾音のことを話していてもおかしくはないだろう。
「……なるほど、真に警戒すべきはあの童女ではなく貴女と言うことでしょうか?」
そこで何事かを察したのか、綾音は微かに表情を険しくすると、射抜くような目で凍子を見据えた。
まるでカエルを睨みつける蛇のごとき鋭い眼差し、並みの覚悟ではそのまま意識を奪われそうなほどの威圧感である。
しかしこれを受けるのは五万年を生きた百戦錬磨の仙女、このままということはしない。
「それに関してはお互い様、と言うべきでしょう。五龍姫」
凍子は一度として目を逸らすことはせず、正面から綾音を睨み返した。
お互い人が殺せそうな視線による応酬、戦場もかくやと言うほどの緊迫感である。
あまりにも張りつめた空気に秋隆が苦言を呈しようとしたその刹那、突如として凍子が破顔した。
「もっとも、今は手を携え、我が弟子の家門を盛り立てねばなりませんわね」
「……ええ、全ての決着はひと段落してから、そう言うことです」
凍子の言葉を聞いて、綾音もまた嫋やかな笑みを見せる。
「わかっているようですわね。妹殿」
「そちらとは末長く親しくしたいものです。師父殿」
「ふふふふふ」「ほほほほほ」などと互いに笑い声をこぼす二人であったが、その目は変わらず鋭いものであり、全く気を許してなどいないことは誰の目にも明らかだ。
「……ま、お二人さんの話し合いはまた後でやってもらうとして……」
豊輝は凍子と綾音の二人を一瞥してから前に進み出ると、真剣な表情で口を開く。
「今はもっと差し迫ることから、だ」
半ば強引に場の空気を変えつつ、豊輝は凍子の方に顔を向けた。
「凍子の姐さんは、頭中将殿が身を隠すのに反対なのか?」
「ええ、そのことでしたわね」
凍子としてもこれ以上綾音とやりあうのは時間の浪費にしかならないことは理解していらしく、一度だけ喉を鳴らすと秋隆に向き直る。
「詳しい話をここでするつもりはありませんが、もし姿を隠していたずらに時を浪費した場合、必ず後悔することになると思いますわ」
「どういう意味、ですか? もしやエテメンアンキで何か……」
秋隆の口からエテメンアンキと言う単語が漏れた瞬間、双葉の顔が凍り付いた。
しかしそのようなことには一切構うことはせず、凍子は言葉を続ける。
「この先を詳しく聞きたいのであるならば、直ちに桔梗城に戻ることです」
何とも要領の得ない説明に普段ならば師父の言うことに忠実な秋隆も思わず眉をひそめた。
否、彼ばかりではなく、ルドヴィカを始めこの場にいる人間は全員難しい顔をしている。
「ここでは出来ぬような話しなのですか?」
「……出来なくはないですが、あまりにも危険過ぎる話題です」
凍子が一瞬だけ下座に座る双葉に目を向けたのを見て、秋隆は何が危険なのかをなんとなく察した。
「……なるほど、大体のことはわかりました」
恐らくは双葉、というよりかは魔族陣営に聞かせたくない話題なのであろう。
そして、その内容はエテメンアンキで何事かが起こったということ。
秋隆は前後の情報と仮説を組み合わせて、凍子が何を話したいのかを推測した。
「……(そうなると、エテメンアンキで、魔族にとって楽しくはない出来事が起きたということか?)」
それが具体的に何なのかはわからないが凍子の様子を見るに相当差し迫った状況なのであろう。
意を決し、秋隆は下座にて趨勢を見守る双葉に瞳を向けた。
「双葉、すまないが一旦エテメンアンキ、桔梗城に戻らせてもらっても構わないだろうか?」
「え? そ、それは大丈夫ですが帰るのに時間が……」
秋隆の発言に双葉は平静さを装っているが、その瞳の奥に宿る光は微かに揺れ、少なからず動揺しているらしいことがわかる。
どうやら双葉としてはもう少し秋隆らに幽都に滞在していて欲しいようだ。
「すまない、この埋め合わせはいずれ必ずさせてもらう」
双葉が何か話す前に秋隆は鼈甲霊亀を右手で握り、座から立ち上がろうと腰を起こす。
「申し訳ございません兄上様、一つだけよろしいでしょうか?」
後は書院から出て時空捻転現象を用いて桔梗城に戻るだけなのだが、秋隆が座を立つ前に綾音が口を開いた。
「どうした?」
完全に出鼻をくじかれた形ながらも秋隆は不快感を表に出すことはせず、跪居の態勢のままで綾音が言葉を紡ぐのを待つ。
どうやら綾音としても土壇場で秋隆を引き留めることになってしまったため申し訳なさそうな表情だ。
「本来ならば同行したいところなのですが、此方はしばらくクリシアに残ろうかと思います」
「ああ、確か色々な準備が必要なのだったか?」
綾音の言葉を聞いて秋隆は先ほど彼女が言っていたことを思い出す。
クリシアで片付けるべき何らかの用事があり、正式に秋隆と合流するのその後になるという話だ。
当然秋隆としては一度承知した話のため、改めて許可を取る必要はない。
「それもあるのですが、今気になるのは半機械戦獣とやらことです」
半機械戦獣、その単語に秋隆は一旦、跪居を辞めその場に座り直す。
「かの魔獣を派遣した勢力がどこなのかを突き止められない限り、今回と同じことが繰り返されることになると思います」
そう、凍子の登場で完全に忘れ去っていたのだが、綾音の言うように今回の襲撃事件については根本的な解決を見てはいない。
もし彼女の仮説通り此度の襲撃が秋隆を狙ったものであるならばエテメンアンキに帰って以降も危険に晒され続けることになるのだ。
「それ故、一旦クリシアに居残り、可能な限りの調査を行うつもりです」
「……一人で大丈夫か? 相手はゼデキアの兵器を保有するような勢力、相当危険な調査になると思うが……」
心配そうな秋隆に対して綾音はにこやかな笑みを浮かべる。
「危険は承知の上です。されど郎党の数が著しく不足しているこの状況で、これ以上兄上様の周辺を手薄にするわけにも参りません」
しばし秋隆は唇を引き結び、綾音を見つめながら沈思黙考に耽った。
正体も狙いもわからないような存在を相手にするのは、深い霧の中で戦うほどに危険な行為である。
しかしこの一件を何らかの形で解決せねば今後常に後ろを気にして戦わねばならない。
「……わかった」
時間にして十秒程度の逡巡、険しい表情のまま秋隆は綾音に向かって頷いた。
「クリシアのことに関してはそなたに任せる」
「ありがとうございます。兄上様」
「ただし」
満足そうに微笑む綾音に対して、秋隆は無理をしないように釘を刺す。
「無理は控え、自分の身体が著しく脅かされると判断した場合、迷わず離脱するようにせよ」
記憶が戻っていないとはいえ綾音は秋隆にとって唯一と言っても良い身内、心配するに越したことはない。
「承りました。そのお言葉、しかと胸に刻ませていただきます」
綾音は笑みを絶やし神妙な面持ちで右手を胸に当てると、面白くなさそうにこちらを見つめるルドヴィカに瞳を向けた。
「……師父殿にそこの童女、此方がいないからと言って羽目を外さぬように……」
「なっ! あんたに言われる筋合いはないわよ!」
ほぼ条件反射的に反駁するルドヴィカであったが、静かな口調で綾音はこれをたしなめる。
「あります。此方は兄上様の妹、家中の風紀に関してはこちらの職分です」
「むぐっ!」
「それでは兄上様、一旦失礼いたします」
「ああ、八咫烏とともにあれ」
最後にもう一度だけ秋隆に向かって一礼すると、綾音は静々とした動作で立ち上がり、書院を後にした。
「……さて、では我らも桔梗城に向かうか」
緩やかな動作で今度こそ座を立つ秋隆を見て、双葉が顔を上げる。
「急ぎ帰りの船を手配いたします」
「いえ、それには及びませんわ」
平静を装いつつ、立ち上がろうとする双葉であったが、その前に凍子が右手を上げこれを制した。
続いて彼女が指を鳴らすと、書院の中央に小規模な白い光のドーム、時空捻転現象が出現する。
「っ!」
「では双葉、陽華殿によろしく頼む」
秋隆らが順次光の中に入り消えていくのを見て、慌てた様子で声をかける双葉。
「く、久坂卿、お待ちを……!」
双葉が手を伸ばすのもむなしく、秋隆らは光の中に消えた。
「ま、まさか、このようなことになるなんて……」
書院の中に一人取り残された双葉は懐から一枚の書簡を取り出し、その内容を確かめる。
毛筆で書かれた達筆なその文書は、秋隆とルドヴィカの二人を当面幽都に逗留させる旨が書かれた命令書であった。
「……(久坂卿……)」
徐々に明るくなっていく書院の中、双葉の表情をうかがい知れる者はいない。




