37:別れの時
「もう、いいよ」
富岡が言った。
「ばあちゃん、満喫した?」
「ああ、ありがとね。久しぶりに穏やかな気持ちになったよ」
富岡はチラリとカグヤを横目で見る。
カグヤは頷いた。
ざあ、と風が吹いて、富士山も、湖も、全て桜の花びらで埋め尽くされていく。
そして、花びらが過ぎ去った後には、中庭の桜の木が目の前に立っていた。
「コウキ、少しカグヤと二人にしとくれ」
コウキが驚いた顔をしたが、すぐに頷いてその場を離れる。
声は聞こえないくらいの場所まで行くと、その場のベンチに腰掛けた。
「あんたには、一つ言っとかないといけないことがあってね」
「あら、何かしら」
富岡はカグヤを億劫そうに見上げる。
カグヤは車いすの位置を調整すると、ベンチに座って富岡と視線を合わせた。
「ああ、ありがとね。……そう、あんたに言わなきゃいけないこと。なんで私にあんたが見えるのか不思議だっただろ?」
「ええ、なぜかしらとは思ってたわ」
「そう、私も不思議だった。昔から見えないものが見える方ではあったけど、あんたほどくっきり見えるのは初めてだったからね。それで、思い出したのさ」
富岡は目を伏せる。
「私が子どもの頃、黒い人影に会ったことがある。顔がない、ただ黒い人型だった。私が初めて見た、他の者には見えないものだった。それがね、『あなたっぽいですね。未来のお嬢様をお願いします』と言ったんだ。びっくりしたよ。今思えば、その後から色んなものが見え始めた。おまえに会うまではすっかり忘れていたけどね。あれはあんたの関係者だったのかい?」
「そう、かもしれないわね」
それは、父の側にいたあの影の事だろう、とカグヤは思った。
「そうかい。言うか迷ったが、私も老い先短いからね。言っとこうと思っただけだ」
そう、とカグヤは答えるだけだった。それ以外の言葉が、思い浮かばなかった。
富岡がこちらの様子を伺うコウキを呼び寄せた。
「少し、疲れたみたいだ。驚くことばかりだったからね。コウキ、病室まで連れて行っておくれ。カグヤ、ここでお別れだ」
穏やかな口調で富岡が言った。
コウキはカグヤと目を合わせて頷くと、ゆっくりと車いすを押し始めた。
それをカグヤは見送る。
「カグヤ」
富岡が小さな声で言った。
車いすを押すコウキには聞こえなくても、カグヤには十分聞こえる声だった。
「感謝するよ」
カグヤはその後ろ姿を、ずっと眺めていた。
それから十日後。
カグヤが余命宣告してから三週間と四日後に、富岡はこの世を去った。
病室で、コウキが声を上げて泣いていた。
コウキの家族も、泣いていた。
富岡は満足そうな顔をしていた。
全てをやりきったような、そんな顔。
キラキラした人生を、きっと富岡も歩いたんだろう。
「失礼します」
病室に入ってきたのは、小森だった。
「富岡さんのお体を、きれいにさせていただきます」
「あの」
コウキが声を上げた。
「あの、腕とかだけでいいんで、一緒にさせてもらってもいいですか」
涙は残るが、強い光の宿る眼差しで小森を見つめている。
小森は笑顔で頷いた。
「ええ、もちろんです。腕と足のお手伝いをお願いしてもいいですか」
「はいっ……!」
コウキは大きく頷いた。
小森が持ってきた暖かなタオルで、家族で顔や足、腕を拭く。
「ばあちゃん、こんなに細かったんだな」
「歩くの面倒だから歩きたくないって言ってたからな。おまえがいなくなってから一生分歩いたって言ってたよ。おまえが見つかって良かった。母さんも喜んでる」
「おばあちゃん、お兄ちゃんのこと本当に心配してたもんね。迷惑兄貴なのに」
「こら、おばあちゃんの前でそんなこと言わないの。お兄ちゃんがいないって泣いてたのはあなたも一緒でしょ」
「お母さん、それ言わないで」
コウキが手を止めた。そして、背筋を伸ばすと富岡や、家族へ視線を向けた。
コウキの両親や妹も手を止めた。
「本当に、ばあちゃんにも、みんなにも、迷惑かけた。だから、ばあちゃん。本当にありがとう。俺を探し続けてくれて。そうじゃなかったら、きっともうばあちゃんとも、みんなとも会えなかった。だから、だから……」
コウキの目から涙が再び溢れた。
「俺、ばあちゃんに誇れるように生きるよ。自分の人生はキラキラしてたって、死んだ後にばあちゃんに報告できるように。今まで本当にごめん。ばあちゃんの人生無駄に使ってごめん。ばあちゃん、ばあちゃん……」
部屋に嗚咽が響く。
泣き崩れたコウキのの背中を、母親がさすっている。
父親も、妹も、泣いていた。
そこにはもう、富岡はいないのに。
「あれ」
妹が声を上げた。
「なんか、光って、る……?」
富岡に、光の粒子が雪のように降りそそいでいた。
コウキも驚いた顔でそれを見つめている。
妹が天井を見上げる前に、カグヤは部屋から外へ飛び出した。
外は真っ暗で、星が煌めている。
今夜は新月のようだ。
「カグヤ、大丈夫か?」
屋上で座り込むカグヤの隣に、シムルがやってきた。
カグヤは無言でシムルを抱きしめる。
「……人が死ぬというのは、こんなにも悲しいことなのね」
シムルを抱く腕に力がこもる。
「私は、あなたがいなくならなくて良かったと、心から思ってる」
「せやなあ。わいもカグヤがいなくならんくて、良かった思うてるで」
そうしてしばらくの間。
カグヤはシムルを抱きしめて、泣き続けた。




