35:お花見の前に
それから、カグヤと円はゆっくりと、たくさんの話をした。
円、いや、父はカグヤの話を味わうように聞いていた。
感じたこと、記憶したものをつながることで理解するのもいいけれど、こうしてその思考というフィルターを通して聞くのも面白いね、と笑った。
父はカグヤと過ごしたいようだった。
黒い人影――名前はスキア―というらしい――が、御父上は孤独で飢えておられるのです、と本人を前に堂々とのたまった。
父はそれに対し、そうなんだよ、とこれまた飄々と言った。
カグヤは首を振る。
約束したことがあるのだ。
それに、もっと世界が見てみたいし、自分が浸されたという隣の世界も見てみたい。
そのことをふたりに告げる。
そうかい、と父は言った。声は少し寂しそうではあった。
感情が乏しいなんて、嘘ではないかと思うくらいに。
「カグヤ」
月に帰してほしい、というカグヤに、父は言った。
「おまえの部屋には常に扉がある。おまえが暇になった時にでも、また来ておくれ。もしくは私を呼ぶといい。声に出せば、それは物質になる。私の中であれば、全ては私に届くから」
カグヤは小さく頷いた。
すると背後から、ごう、と音を立てて風が吹いた。
父も、スキア―も、赤茶の大地も風のように遠のいて、真っ暗な空間が辺りを埋め尽くす。
それさえも遠のいて、気づけばカグヤは自分の部屋に立っていた。
パタン、と軽い音を立てて扉が閉まる。
簡素な木の扉は、消えることはなくそこに存在していた。
「……グヤ、カグヤ!」
シムルの声にハッとする。
「ああ、シムル。ごめんなさい、少しぼんやりしてしまったわ」
「そりゃそうや。あんなん、夢かと思うわ。それより、大丈夫か? 体がなんか変とかないか?」
「ええ、大丈夫よ。頭のもやが消えたせいか、今はすごくすっきりしているわ」
「そんならええけど……」
それより、とカグヤは後ろを振り返る。
窓の前に立つと地球を見下ろした。
「どれくらい時間が経ったのかしら? あの場所、夜も昼もないし、時間の流れがここと同じなのかもわからないわ」
「あれ、どこやったんやろうな……」
呟いたシムルに、少し間をおいてカグヤは答えた。
「昔、私が生まれた時に、うっかり消滅させてしまった星よ」
シムルが言葉なくカグヤを見上げたのが分かった。
「今は消滅して存在しないはずの星。あれは、お父様の記憶の投影でしょうね」
「そうか……あいつ、親父って認めるんか?」
カグヤは腕の中のシムルを抱き上げて、目の高さに合わせる。
「本当かはわからないけれどね。私と性質はとても近いものを感じたし、それに、名前を呼ばれた時に……いえ、なんとなく、あれが父親でもいいかしら、と思ったのよ」
「カグヤにしては、えらい投げやりやなあ」
「そういうことがあってもいいでしょ? それより、日付よ」
カグヤは地球を覗き込む。
「日付」という概念は人間のものだから、地上を見る方が早い。
日本の日付を確認すると、約束した日の昼間だった。
「意外とあの空間にいたようね。遅刻してしまうわ」
「……じゃあカグヤ、いってらっしゃい、やで」
「いえ、シムル。今回はあなたも行くの」
「ええ?」
「さっきわかったわ。あなたはもう私の一部。ここから出られないという制限はもうないの。だから、あそこに連れていける。一緒に、お花見しましょう」
そうしてシムルを再び抱きしめると、カグヤは窓を飛び越えた。
「いやな、いくらわいが猫やゆうてもな、あんな高所からのジャンプは心の準備が欲しかったわ」
シムルが腕の中でぶつぶつ言っている。カグヤはごめんなさいね、と軽く謝りながら病院へと飛んでいた。
「そういえば、病院で猫ってどうなのかしら」
「絶対あかんやろ」
「でもあなた、あるいみ化け猫だから、本当の猫じゃないわよ」
「誰が化け猫にしたんや、誰が」
「ふふ、冗談よ。まあ、あなたは他のヒトに見えないようにすればいいわ。コウキに会わせたらどんな反応するかしら」
「あの小僧にあったら、わいやりたいことあんねん」
「あら、何かしら?」
「着いてからのお楽しみや」
そうこうしているうちに富岡の病室に着いた。コウキもいるようだ。
いつものように外に声が漏れないよう力を使ってから、病室に現れる。
「あ、カグヤさん!」
コウキがこちらに顔を向けた。富岡は相変わらず、カグヤが姿を現す前から視えていたようだ。
「今日のこと、忘れちゃったんじゃないかってハラハラしましたよー! あれ、猫?」
「大丈夫よ。面会時間を守っただけだわ。この子はシムル。私が可愛がってる猫よ」
「いや、いつも完全スルーじゃないっすか、面会時間。ま、いっか。シムルくんっすか? 真っ黒ー。かわいい猫っすねえ。目、きれー! おれ、昔っから猫好きなんすよー。抱っこしていいっすか?」
カグヤは視線でシムルに確認する。問題ないようだった。
「いいわよ。それよりあなた、病院に猫で全然驚かないのね」
カグヤが抱いているシムルをコウキに渡す。
「わあ、ありがとうっす! いや、カグヤさんが連れてるならただのお猫様じゃぐはっ!」
そして、コウキに抱かれたシムルはひょいと腕と胴を伸ばし、強烈な猫パンチを二回ほど、顔面にお見舞いした。
「あらシムル、やりたかったことって」
「こいつにおうたら一回かましたろ思っててん」
突然の出来事に呆然とするコウキの腕から逃れると、再びカグヤの腕へと収まった。
「爪は出しとらんからそんな痛ないはずや。うちのカグヤ悲しませたら、次は思いっきり爪立てたるからな」
「さ、さすが、カグヤさんの猫様です……喋るとかまじっすか……」
コウキが衝撃から立ち直るように深呼吸すると、自分の頬を触って確認した。
「なんか、不思議な感じでした……癖になりそう」
「今度は爪立ててパンチかましたろうか、小僧」
シムルがコウキに威嚇していると、横から声が聞こえた。
カグヤはそちらに目を向ける。
「病人の横で騒々しくするんじゃないよ、まったく。で、なんだい? コウキから聞いたけど、今日花見をするって?」
「ああ、ごめんなさいね、挨拶もせず。今日、お花見をしようとコウキと約束したの。少し外に出るのは大丈夫かしら?」
富岡は答えずカグヤをじっと見つめている。カグヤも見つめ返した。
耐えかねたのか、富岡が先に視線を逸らし、ふう、と息を吐いた。
「あれから気にはしていたが、まあ元に戻ったようで何よりだ。今は痛み止めがうまく効いててね。三十分くらいなら車いすで散歩も大丈夫だろうよ」
「そう、それはよかったわ」
カグヤは窓から外を眺める。中庭の桜は、満開だろう。




