26:山桜と待つ人と
まだ午前中だ。先ほど見たところでは工藤の母親の手術はまだ先の様だった。
ゆっくりと飛びながら、眼下の町々を眺めた。
発展している町。
ヒトの気配の少ない町。
車が多い町。
ヒトがたくさん歩いている町。
たくさんの町があった。
町々を眺めるのは、何の変哲もない星を長く眺めているよりも面白いものだった。
忙しく動き回るヒトもいれば、穏やかに自分の時間を過ごしているヒトもいる。
目の前のことを必死にこなしているヒトもいれば、時間をかけて自分の行く先を考えているヒトもいた。
溢れるヒトの中に、カグヤが一番はじめに見た、バイク事故で弟を亡くした兄がいた。
初めて見た時と同じように、スーツを着て、どこかに向かって歩いている。
少し思考を覗くと、これから取引先との契約があるようだ。
弟のことを時折思い出したりもしている。あの後、弟の友人のつてから彼女もわかり、亡くなったことを伝えることができたようだ。
『兄貴は、ほんとしっかりしてて、尊敬するよ』
その一言が、彼を支えていた。
その一言があったからこそ、彼は前に進めている。
悲しみはまだ癒えない。けれど、死んだ弟に恥じないような兄でいるために、彼は前に一歩ずつ、踏み出している。
「本当に、ヒトは面白いものね」
死んでいくヒトばかり見ていた。
けれど、生きているヒトはもっと面白い。
色々な町や山や川を越えて、カグヤは工藤の母親の入院する病院へたどり着いた。
物理的な移動にはなるが、その気になれば音速を超えられるし直線移動なので、本来ならそれほど時間はかからない。だが、色々な町の様子を眺め、着くころには昼過ぎになっていた。
まだ、手術まで時間があるようなので、カグヤは病院の屋上に降りる。
屋上から見る景色はコウキのいる病院と違う。違うが、ヒトがおらず静かなのは一緒だった。
ぼんやりと遠くに広がるまだ茶色い田畑や、山を見ていると、山の一部が桃色に色付いているのを見つけた。山桜が満開を迎えているようだ。
中庭の桜も色付き始めていた。蕾が膨らんでいたあの桜が満開になるのは、きっとあともう少し。
どのくらい時間が経ったのだろうか。
ぼんやりしていると、時はあっという間に過ぎてしまう。永遠の命を持つカグヤにとって、数時間は一瞬で過ぎ去ってしまうのだ。
屋上から降りて病室を覗きに行く。
病室では母親が手術着を着て、父親と保坂と談笑していた。
工藤は飲み物を買いに行っているようだ。
「健一君、本当にありがとう」
母親が保坂に向き直ると、深々と頭を下げた。
「いえ。本当に、偶然が重なって、あいつとは会えたんです。前にも話したと思いますが、コウキくんという子のお陰で、再会することができたんです。本当に、彼には感謝しかないですよ」
「それも、健一君が日ごろから気にかけていたからだわ。でも、そのコウキ君、という子にも、いつかお礼を言いたいわね」
「そうですね。若いから危なっかしい所もあるけど、可愛いやつですよ」
「そうなの」
カグヤは話を聞きながら、コウキに教えてあげたいと思った。
自分の事ではないのに、誇らしい気がしてくる。
その時、工藤が戻ってきた。手には飲み物を持っている。
その後を追うように、看護師が病室にやってきた。
「工藤さん、失礼します。手術室の入室時間が決まりましたので、お知らせに伺いました」
これから三十分後に手術室着だと言う。二十分後には出ること、部屋を移るため荷物をまとめ、手洗いを済ませておくよう言い終えて、看護師は出ていった。
「あと、三十分か」
工藤がぽつりとつぶやいた。
「そんな顔しないで。なんだか私まで落ち着かなくなっちゃうわ」
「すまない……手術後はICUか」
「ええ。今日一晩はICUと聞いているわ」
「そうか……」
少しの沈黙が降りる。
「お手洗い、行ってくるわね」
母親が点滴台を持って、病室を出ていく。
後に残された男三人は、それぞれ頷いた後、黙り込んでいる。
荷物自体は元々言われていたのかまとめ終わっているようで、やることもなく、落ち着かない様子だ。
「……手術中って、俺たちどこで待つんですかね」
保坂が父親に尋ねた。
「わからん。その辺の説明は当日するとは言われているが……」
「行く時に教えてくれるんですかね」
「そうかもな」
また静かになる。
「ちょっと、聞いてくるよ」
保坂が立ち上がって病室を出ていった。
父と息子二人、気まずそうな様子で残された。
「……博則」
「はい」
父親が、意を決したように、呼びかけた。
工藤も背筋を伸ばして返事をする。
「母さんはああ見えて、今回の手術、すごく不安だったんだ。化学療法が効かなければ、手術さえもできなかったが、手術をしても再発するかもしれない不安が付きまとう。おまえに会えないことが、最後の心残りだとまで言った。そんな時、おまえが帰ってきてくれた。正直、父さんは心配だった。おまえに会えたことで、生きる気力をなくしてしまうんじゃないかと思った」
父親は目を伏せて、一息おいた。
「だが、そんなことはなかった。母さんは、もっと生きたいと父さんに言ったんだ。昨日おまえに言ったように、もっとおまえとの思い出を作りたいと、そう言った。だから、頼む。おまえも忙しいとは思うし、家にくるのは気まずいと思っているかもしれないが、たまには、見舞いに来てほしいし、退院したら家に帰ってきてほしい。母さんとたくさん話してやってほしいんだ……」
そうして、頭を下げた。
工藤は驚いたように目を見開いた。工藤の中では、息子に頼みごとをするような父親ではなかったらしい。
工藤は父親の目を見つめながら答えた。
「正直、昨日の今日だ。父さんと母さんに会えたのは、とても嬉しかった。だが、二十五年は長い。俺だけでなく、二人にとっても長い時間だったと思う。一気に距離を詰めると、お互いがそれぞれの記憶とのギャップに苦しむかもしれない。だから、最初は少しずつ、距離を縮めたいと思っている」
父親は黙って聞いている。
「もちろん、店が休みの日は来たいと思う。だから今はそれで、許してほしい」
今度は工藤が頭を下げた。
父親は、そうだな、と呟いた。
「急にすまなかった。少し、心配だったのかもしれない。おまえが手術が終われば、また会えなくなるかもしれない、と。おまえの言う通り、ゆっくり、二十五年を埋めていきたいと思うよ」
工藤は頷いた。
そして、再び沈黙が降りる。
「聞いてきましたよー」
保坂が明るい声で入ってきた。
だが、カグヤは知っている。
保坂が、部屋の外から様子を伺っていたことを。
二人が話し終えて、安心したように息を吐いたことを。
笑顔で話し始める保坂を見て、この男も大変だな、と思う。
母親もすぐに帰ってきて、再び部屋は声に溢れた。
そしてしばらくして、看護師が迎えに来る。
てきぱきと確認事項をチェックしている。
「それでは、ご家族の方は荷物を持ってくださいね。工藤さん、お名前確認させてください……ありがとうございます。では、ご案内しますね」
工藤たちは荷物を持ち、立ち上がる。
父親の手には、昨日工藤が渡した花束があった。
看護師の後をついて、ぞろぞろと歩き始める。
「お花、ICUに持っていけないのは残念だわ」
「花粉とか虫とかの問題がありますからねー。また病棟に帰ってきたら、持ってきていただくとか……あとは、スマホで写真を撮って、すぐに見れるようにしておくといいかもしれないですね」
「あら、それはいいわね」
母親が笑顔で看護師と話しながら、お父さん写真お願いね、と振り返った。
父親が無言で頷いている。
「ご家族の待つ場所については、あ、お聞きになりました? それから、手術中のポケットベル貸出も説明していると思いますが、手術室での受け取りになりますので、後程ご説明しますね」
それにしても、と看護師は続けた。
手術室に近づくにつれ、工藤たちの顔がこわばっているのに気づいたようだ。
「今日は朝曇ってましたけど、日が差してきて良かったですね。いい天気になりましたし、きっと手術、うまくいきますよ」
母親にそう話しかけている。そうね、と母親が笑った。
エレベーターに乗って少し歩き、手術室へ到着した。
「では、ご家族はここまでになります」
大きな自動ドアの前で、看護師が振り返った。
「頑張ってくるわね」
母親が振り返った。
「母さん……」
工藤が母親と向き合った。
「無事に終わることを、祈ってるよ」
「ええ、もちろんよ。だからのんびり待っててちょうだい」
「ああ」
では、ご家族はここでしばらくお待ちください、と看護師に連れられ、母親は大きな自動ドアをくぐった。
工藤たち三人は、それを無言で眺めていた。
どれくらい時間が経っただろうか。
看護師がドアから出てきた。
「お待たせしました。お母様、問題なく手術室入られましたよ」
「そうですか……」
「ポケットベルお渡ししますね」
看護師から父親がポケットベルを受け取り、使い方を三人で聞く。
「では、ICUのご案内もさせてください」
そうして再び歩き出した。
歩きながら、看護師が父親と話し始める。
「待つの、おひとりじゃなくて良かったですね。息子さんお二人いらっしゃって」
「いや、俺は息子じゃ……」
すかさず保坂が訂正しようとするが、前を歩く看護師には聞こえなかったようだ。
父親が、そうなんです、と頷いているのを聞いている。
「ご本人はもちろん大変ですけど、待つご家族も大変ですからね。終わるまでは心配がつきませんから。ポケットベルは院内しか通じませんから、必ずお一人は残るようにしてください」
「わかりました」
「えっと、今回手術時間は三時間を予定してますが、麻酔をかけるのと覚ますのにそれぞれ時間がかかりますので、時間が前後することがあるかと思います。予定時間をあまりに過ぎている場合は、心配でしょうから、うちの看護師か、ICUの看護師に状況を聞いてください」
「はい」
そうして、ICUに案内され、術後担当予定だと言う看護師に挨拶を受けた。
その後看護師同士で申し送りがあると言う。
では、病棟の談話室か院内の喫茶室でお待ちくださいね、と言われ、看護師とはそこで別れた。
そうして、長い待ち時間が始まった。
カグヤはそれを見て、また屋上へ上がる。
辛気臭い顔をした男三人を眺めているのは、あまり面白くはない。
それならば、山桜や移り行く空の様子を眺めている方が良かった。
空は、看護師が言っていた通り雲が薄くなり、隙間から日差しが降りていた。




