24:向き合うこと
病院の消灯は早い。
夜の十時過ぎにコウキの病棟を覗く。
灯りは消され、廊下にぽつぽつと光が灯るだけだった。
コウキの病室を覗くと、まだ起きているようだった。
姿を現そうとして、コウキが眉間にしわを寄せて、スマートフォンを見ているのに気が付く。
もしかして、富岡が来たのかもしれない。
カグヤは空中で一歩、下がった。
コウキの思考を読めばわかることだ。
だが、カグヤにはそれができなかった。
思考の中に、カグヤに対する負の感情があるかもしれないと思うと、急に怖くなった。
するりと病室から外に出て、屋上を目指す。
途中富岡の病室を覗くが、こちらは既に眠っているようだった。
「本当に、どうしてしまったのかしら。ヒトの感情が怖いだなんて、今まで思ったことなどなかったのに。少し覗けばわかることを、知ることをこんなに戸惑うなんて」
富岡への申し訳なさや、工藤へのもどかしさとは違う感情。
一歩踏み出せるはずなのに、知りたくないことを知ってしまうのが恐ろしくて踏み出せない。
「これでは、工藤と同じじゃない」
自分が戻る場所だと思っていたところが、もう自分を受け入れてくれないかもしれない恐怖。
それを、自分が感じることになるとは思いもしなかった。
コウキに、入れ込みすぎたのだろうか。
カグヤはただ、見ているだけの存在だったのだ。
必要なければ、ヒトなんて滅ぼしてしまえばいい。
けれど川島に会って、そしてコウキに会って、滅ぼさなくてもいいかもしれないと思い始めた。
カグヤが知る地球の美しさとは別の美しさを、ヒトは持っている。
けれど、近づきすぎたのだ。
カグヤは、自分の思考がヒトに近づいているのを感じていた。
あの部屋にいた時は、笑うことは時折あっても、泣くことなどなかった。
世界を愛で、流れる時をただ眺めているだけで充分だった。
それだけで、満たされていた。
カグヤはもうすぐ満月になりそうな月を見上げながら、自分が存在してからのことを考え始めた。
いつから自分が存在し始めたのかは、カグヤにはわからない。
気づけばぼんやりとどこかの星を眺めていた。
思考の片隅の白いもやが、カグヤがしなければならないこと、カグヤにできることとできないことを時折教えてくれた。
部屋の大きな窓の力も。
それからいくつもの世界を見た。
ガスが覆っている星、遠くに光の渦が見える星、赤く燃え上がる星。
そのどれもが、カグヤの気を引くような世界ではなかった。
あの大きな窓を開け閉めしたのが何度目かもう忘れてしまった頃、地球にたどり着いた。
彼の地に生きる生命の多様さに圧倒されて、ずっとずっと、カグヤはこの世界を見てきた。
それこそ、時を忘れるほどに。
一度大きな彗星がその地を抉ったことがあった。それでも命は育まれた。
その頃は地球の生命の図太さに、感動さえ覚えていた。
けれど、世界はその様相をどんどんと変えていき、ある時から火を使う種族が地を走り回るようになった。
はじめは、その種族が新たな技術を創り出すのが面白かった。
しばらく見ていれば、より効率よく、より繊細なものを作っていく。
時折カグヤが知らない間に文明がなくなってしまうこともあるが、他の文明を見ていれば飽きないので、特に気にはしなかった。
カグヤが地上の変化に気づいたのは、その種族が大きな群れとなって争いを始めたころだった。
世界の色んな所で巨大でおぞましい煙が上がる。
その争いは時を置きながらも何度も行われ、カグヤの愛した海を汚し、山を焼き、生き物を駆逐していった。
存在して初めて、おもしろくないと思うようになった。
その時、頭の中の白いもやが教えてくれたのだ。
つまらないものは、滅ぼしてしまえばいい、と。
ああ、そうなのかと納得して、すぐに実行しようと思った。
しばらく続いていた煙も晴れて、地上がよく見える。
ヒトにだけ作用するように力を使えば、終焉など一瞬だ。
ヒトの死はいつか訪れるもの。この世界の理には反していない。
けれどその時、ふと悪戯心が浮かんだのだ。
消滅させる前に、最後にヒトを見ておこう。そのために少し地上に降りてみよう、そう思った。
白いもやができないとは言わないから、カグヤは青い星に向かって飛び降りた。
それは焼け野原に様々な建物が建てられはじめた場所だった。たくさんのヒトが大通りを歩いている。
埃っぽい道を見下ろしながら、空をふわりと飛んでいた時、路地裏の影が、なんだか気になった。
そこはヒトが一人、ぎりぎり通れるかくらいの狭い場所で、さらに建物の陰にひっそりと一匹の黒猫が横たわっており、今にも息絶えようとしていた。
「あら、あなた」
カグヤは思わず黒猫に声をかけた。
黒猫は億劫そうに瞼を開ける。
薄く濁ったその瞳は、本来なら美しく輝いて、まるで月の様だろうとカグヤは思った。
「あなたは死ぬの?」
死というものをカグヤは初めて認識した。
カグヤが見ている世界は広い。もちろん細かい所を見ようと思えば、見ることはできるけれど、それを望むことはなかった。
ただ、死はこの世との別れ、生きている物は必ず死ぬ、ということだけは知っていた。
そっと黒猫の頭を撫でる。再び目を閉じた黒猫は掠れた声でミャア、と鳴いた。
それはまるで、ほっといてくれ、と言われているようだった。
カグヤは満月の瞳を持つこの猫と、話がしてみたいと思った。
「あなた、まだ生きる気はない?」
黒猫がゆっくりと目を開き、頭を上げた。
「私はあなたと話をしてみたいの。あなたから見た、ヒトの世界を私に教えてほしいわ」
この小さな生き物が、ここで死にそうになっている生き物が、とてつもなく愛おしいと思う。
なぜなのかはわからない。
月のように輝く瞳が見たいと思ったのかもしれない。
初めてカグヤに返事をしてくれた生き物だったからかもしれない。
頭を撫でた時に感じた、ほのかな温もりを失いたくなかったのかもしれない。
初めて感じる愛おしさに戸惑いながら、カグヤは言葉を続けた。
「あなたには、私と同じ永久の命をあげる。だから、私と共に生きて」
黒猫は少し黙った後、小さな声でミャウと鳴いた。
それから五十年と少し。
カグヤはやはり、ヒトを滅ぼそうと思っていた。
技術が進み、平坦化していく世界が面白くないと思っていた。
つまらないものは、滅ぼしてしまえばいい。
以前白いもやが教えてくれたことを思い出す。
だから、ヒトを滅ぼそうと思った。
けれど、今はそれをしたくないと思う自分がいる。
相変わらず、カグヤの愛する海や山を、ヒトが汚していたとしても。
ヒトがつまらないものだと、思えなくなっていたから。
はじめは、カグヤが関わった人の最期を見届けたいと思った。
だから終焉はまだ起こすことはできない、そう思った。
けれど工藤を見ていて、気づいたことがある。カグヤが見ていないだけで、ヒトは日々何かを起こしている。
それはきっと、自分自身や他人と向き合っているからこそ、起こることなのだ。
カグヤが認識していない所で、きっとキラキラした人生を歩んでいるヒトや、これから歩もうとしているヒトがたくさんいるのだろう。
その芽を摘んでしまうのは、気が進まない。
「もう、つまらないものではないのに、なぜ滅ぼさなければならいのかしら」
つまらないから滅ぼそうと思ったけれど、つまらないものではないとわかった今、滅ぼす必要なんてないのだ。
なぜ、滅ぼすことにこだわっていたのだろう。
「結局、シムルの思惑通りになってしまうから、意地を張りたかったのかしら」
きっと、そうだろう。
そう思えば、少し気が楽になった。
カグヤが地上に降りたのは、ヒトの死を知らないまま終焉を起こしてほしくない、というシムルの願いだ。
願いは叶った。今のカグヤは、ヒトを滅ぼそうとは思わない。
「結論が出たなら、もうこの地に留まる必要はないわね」
言葉にして飛び立とうとした時に、中庭の桜が電灯に照らされているのが見えた。
そして、あの場所で出会った富岡のことを思い出す。
心残り、というのだろうか。
彼女の最期は見届けたいと思った。
せっかく、探し続けていた孫に会わせたのだ。
彼女の最期がどんなものか、カグヤには知る権利くらいあるだろう。
浮き上がりかけた足が、屋上に着地した。
「……まるで、富岡みたいね」
寿命を教えたカグヤに、やり残したことがないように協力しろと言った老婆の顔を思い出す。
彼女が望んだことは一つしか叶えない。
けれど、カグヤが望んだ結果が、富岡の望みと重なることはあるかもしれない。
そんなのは屁理屈だ、と思う気持ちには気づかないふりをした。
「あなたが必死に生きた最期を、見届けさせてちょうだい」
コウキに会うのは怖い。
けれど、コウキと話したことを思い出せば、重い一歩も踏み出せそうな気がする。
自分自身や他人ときちんと向き合って、自分が信じることが本当に正しいのか悩みながらも、その信じることに向かって一生懸命に生きる。
怖くても、きちんと向き合わないといけないのだ。
「私はヒトではないけれど」
愛する人々の最期を見届けて、伝えてあげたい。
あなたの人生は輝いていたと。
それを伝えることが、永遠の命を持つカグヤにできることだと信じて。
「ヒトではないけれど……そういう人生というものを、歩んでみたいと思うわ」
そして、カグヤに関わった全ての人を見送ったら、その時はこの世界の窓を閉めよう、そこでヒトと生きたカグヤの人生を一度終える。
そう決めた。
永い時の中で、気まぐれを起こさないように。




