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situation.18 契約成立

 ありさは訳が分からないまま、一先卓上鏡を元の位置に戻すと、自分は椅子に腰をかけた。夢でも見ているかのようだ。ありさは目をぱちぱちさせて鏡に写った自分を見た。そこには紛れも無く自分自身、渡辺ありさが写っている。


『ありがとう。話を聞いてくれる気になったのね』鏡の中の自分がにっこりと微笑んだ。『私はさりあ。貴方から生まれたもう一人の私』


 どういう意味なのだろうか。ありさは目の前に起きている事実が、全然現実味を帯びていなくて理解に苦む。どこをどう見ても鏡だ。今朝まで毎日この鏡を見ながら化粧をしていたのだ。ありさは裏に細工が施されているのかと人差し指で鏡をひっくり返した。…………何も無い、普通だ。


『仕掛けなんかないわ。これは普通の鏡なんですもの。試しに後ろを振り向いてみて』


 さりあに言われた通りに振り返ってみる。姿鏡付きのハンガーラックの向こう側で、自分が椅子から振り返って手を振っていた。


「どうしてこんな事が……」


 ありさは立ち上がってハンガーラックに近づいた。鏡に直接触れてみる。何の変哲もない普通の鏡だ。指紋の痕が幾つか残った。鏡の中の自分は俄然、自分と違う動きをしている。


『私はありさの姿が写る物全てに存在するわ。私は、あなたの不安要素から生まれたもう一人の自分』

「私の不安要素……?」

『そう。思い当たる節はいくらでもあるでしょう?』


 鏡の中のさりは心配そうにありさを見つめた。例のストーカーや、学校での嫌がらせを指しているに違いない。ありさは頷いた。


『あの和田って男も頼りにならないわ。ありさの事が好きなようだけど、私は軽率な態度をとる男は嫌い。そう思わない?』


 確かに。むしろ自分にまとわりつく様になって、更に状況が悪化しただけだったかもしれない。ありさは自分自身の語りに納得した。


『私はね、ありさ。貴方を助けに来たの。今までこちら側から世界を傍観していたけど、もう耐えられない。これ以上ありさが傷付く姿を見ていられない。私なら、貴方を守ることが出来る。この状況から助け出すことが出来るわ』


 刹那の叫びを上げる自分自身の姿に、ありさは戸惑った。今起きているのは本当に現実なのか。夢や幻覚ではあるまいか。ありさはしばし呆然とした。鏡に写った自分は尚も語り続ける。


『これは現実の出来事なのよ、ありさ。この世では科学で説明しきれない現象が幾つもある。その内の一つだと思って受け入れてもらうしかないわ。私はね、ありさ。貴方の身の回りで起きている問題を、手助けしたいだけなの。私に代わってさえしてくれれば、ストーカー退治なんてちょろいものよ。ありさが出来ない事を、私が代わりにしてあげる。それって、とっても有意義だと思わない?』


 自分に出来ない事を鏡の中の自分にしてもらう。そんな非現実的な事が本当に可能なのだろうか。ありさは眉を潜めた。


「代わるって、どうするのよ」

『自分の姿が写るものに五秒間、触れるだけで交代出来るわ。但し最初の内は身体が慣れるまで、代行時間がごく僅かと限られる。それにありさが出来ない事しか私は手助けできない。あくまで代理なのよ』


 ぺらぺらと喋る自分に疑問を抱かざるを得ない。さりあの話が事実ならば、自分は完璧人間になれるのではないか。自分に出来ない事をやってくれるのならば、自分に出来ない事は何も無くなってしまう。何でも思い通りに出来てしまう。仕事も、恋も勉強も、みんなみんな自分の思い通りだ。そんな夢みたいな事が有り得るのだろうか。


「もしそれが可能だとしても……当然、リスクもあるんでしょ?」


 ありさの問いにさりあは即答した。


『勿論あるわ。私にも出来ない事は遂行出来ないし、代償だってある。交代時の身体と記憶よ。残念ながら私がここから抜け出して、直接ありさを守ってあげられる訳じゃない。実行する訳じゃない。私は言わば精神の存在。代行するにも貴方の身体と時間、それに記憶が必要なのよ』

「記憶って、どういう事よ」

『ありさの身体を借りて実行する訳だから、当然この身体を私に預けることになる。ありさの時間を奪う事になる。そして記憶も一時的に遮断されてしまうのよ』

「記憶を……遮断?」

『ありさの代わりに私の精神が入るのだから、当然と言えば当然ね。でも、交代出来る時間は限られているし、記憶がなくなると言っても、ものの数分、短時間の間の出来事だけよ……それでもいい話だと思わない? だって、自分には出来ない事が出来るのよ。とっても素晴らしい事だと思わない?』


 鏡に写った自分が非常に輝いて見える。さりあが言う代行とは、精神交換の一種なのだろうか。何だか少し恐ろしい気もするし、同時に魅力的にも思える。自分の代わりに他人がやってくれると言うのだ。ならば少しの代償くらい、目を瞑ってでも手に入れたい。


『今以上に店長とも仲良くなれるわよ』


 自分にそっくりの顔でさりあが囁き、思わず赤面する。鏡の中の自分も顔を赤くした。動揺する自分にさりあは笑った。


『私は貴方なんだから、何でも知っているわよ。初めては、やっぱり好きな人とがいいものね』


 どの初めてを指しているのか分からないが、とにかくさりあは自分の事を何でも知っているらしい。自慰行為も見られていたのかと思うと、ありさは恥ずかしくて死にたくなった。その思考すら読まれているのか、さりあが補正する。


『キスって、とっても気持ち良さそうよね。この前は和田なんかに取られなくてよかったわ』


 その言い草は可哀想な気もするが、ありさは思い出したかのように顔を埋めた。今でも胸がドキドキしている。あんな事、自分は店長と出来るのだろうか。


『代行するには、契約してもらう必要があるの。契約と言っても、ちょっとした儀式の様なものよ。両手をついて、解決して欲しい事柄を念じるだけ。簡単でしょ?』


 ありさはさりあに言われるがまま鏡に近づいた。このまま日々を過ごしていても、この息苦しい現実は変わらない。だったらいっそのこと違う自分に変身して、現状を打破してみるのもいいかもしれない。

 自分に出来ない事が出来るようになる。そんなの、漫画やアニメだけの世界だと思っていた。しかし、今目の前にそんなチャンスが転がっている。鏡には等身大の自分が写っている。みすみす逃してしまうのには惜しい。


 ありさは鏡に写った自分に触れようと、ゆっくりと右手を差し出した。鏡の中の自分も、同じく差し出して互いの手の平が重なり合う。左手も同様に続けた。ひんやりとした、固く冷たい感触だけが今のありさに伝わってくる。


『今から儀式を始めます』


 そう呟いてさりあは目を瞑った。ありさも目を瞑る。周りは静か過ぎるほど静まり返っていた。外からは何の音も聞こえてこない。やがて下の階から低い柱時計の音がした。それは午前零時を知らせてくれる合図だった。


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