situation.17 もう一人の自分、さりあ
ありさと吉川の二人は今日の勤務を終え、狭いスタッフルームで着替えていた。制服のリボンを結び直している所で、先に黒のノースリーブにジーンズと、ラフな格好に着替え終わった吉川が耳打ちする。
「ありさちゃんって、好きな人いるでしょ」
「へっ?」
「今、すっごく乙女な顔している」
吉川に指摘されてありさは手鏡を見た。微かに頬っぺたと唇が火照ったようにぷっくらとしている。先程店長と二人っきりになれたので、ありさの身体は全身紅潮していた。気温のせいではなさそうだ。
「きっとこの暑さのせいですよ」手で顔を扇ぐ。「急にどうしたんですか?」
「いや、剣道部の子に聞かれちゃったからさぁ。ほら、今日も店に来ていた」
和田の事だ。二人して客席で話し込んでいたのを思い出す。あいつ、何を吹き込んだのだろう。
「結構頻繁に来てるのよね、あの子。いいなぁ、モテモテでさぁ!」
意地悪そうに笑って小突く。ありさは吉川の攻撃を受けながら反論した。
「あいつは冷やかしに来ているだけですよ。同じクラスメイトですし」
「え、そうなの? てっきり違う学校の子かと思った」ありさの横顔を眺めながら吉川が呟く。「でも両想い……じゃなさそうね。もしかして、ありさちゃんの好きな人って新條君?」
吉川が的外れな発言をしたのでありさは苦笑した。新條の視線の先には必ず吉川がいる。結構態度に出ていると感じていたが、案外本人は鈍いらしい。
「そう見えますか?」
「うーん……でも、ちょっと違うか」
首を傾げて考えている。ありさは話をそらそうと逆に尋ねた。
「吉川さんこそ、本当は彼氏いるんじゃないですか?」
「えっ!」思いがけない質問だったのか、困ったように目を泳がす。「わ、わかっちゃった?」
実はいたのか。考えればセクシーでお洒落な吉川に、いない方が不自然だったかもしれない。相手は店長ではないか。ありさの鼓動が一気に早くなった。
「同じ大学の人なんだけどね。新條君に詮索されそうで言わなかったの」
小声で言ってはにかむ。何だ、店長じゃないのか。ありさはほっと胸を撫で下ろした。
吉川と別れ、一人駅のホームで電車を待つ。近くに和田の野郎がいないかと目を凝らす。最近、和田が練習だとか言って自分の後をついてくるので迷惑していた。逆にあいつの方がストーカーではないか。今度発見したら警察に突き出してやる。
ありさは自宅の最寄り駅に着くと携帯電話を開いた。
「もしもし、美波? 今駅に着いたよ」
『はーい。ありさ、バイトお疲れー。今日は何事も無かった? 大丈夫?』
最近バイト帰りの遅い時間帯は美波と話しながら帰ることにしていた。他人と関わっていれば襲われることはないだろう。これは美波からの提案だった。
「和田の野郎が吉川さん口説いていたくらいかな。あ、そう言えば最近レジ金が合わないって、店長疑っていたよ」
『誰を?』
「スタッフ全員だってば。その内持ち物検査とかされそうで嫌だなぁ」
ありさは苦い顔で店長とのやり取りを思い出す。聞くところによると新條が一番疑われているらしい。ありさは彼のへらへらした表情を気の毒に思った。
『警察沙汰にするつもりかなぁ。最近本当物騒な事ばっかりでうんざりしちゃう』電話越しに美波の深いため息が聞こえた。『……ちょっと呼ばれたから行くね。ありさまた明日、おやすみー』
「ありがとう、美波。じゃあね」
互いにおやすみを交わし、玄関先で思わず冷や汗を拭う。今日は本物のストーカーも、和田の気配も感じられなかった。流石に通話中の相手を襲うわけにはいかないか。
もうどっちも諦めてくれないかしら。ありさは重い足取りで二階の部屋に上がった。弁当箱はお風呂の時に持って行けばいいや。緊張の糸が解けたように、制服のままベッドへ倒れ込む。こんな張り詰めた生活、いつまで続ければいいのだ。和田も協力してくれるとは言ったものの、まだどちらの犯人も分かっていない。ありさが上履きに土を詰められてから、もう一ヶ月近くが経過していた。もうすぐ夏休みだ。夏休みに入ってしまえば、学校側はしばらく関係無くなる。それまでの辛抱だ。
ありさは身体を起こすと、制服を脱ぐために部屋の灯りを消した。何処からストーカーに見られているのかわかったもんじゃない。同時にカーテンから外の様子も伺う。こそこそと隠れるような生活が続き、ありさの日常は息苦しい現実へと昇格していった。今の自分はジャングルで外敵に怯える小動物と何ら大差もないではないか。ありさは世間の渦に飲み込まれそうで涙を浮かべた。いっそ飲み込まれてしまった方が楽かもしれない。もう色々と限界だった。
『コンコン』
近くで小さなノック音が聞こえて振り返った。母親が早く風呂に入らない自分を叱りにでも来たか。そう思いドアを開けてみるが、薄暗い廊下には誰もいない。……変なの。確かに音が聞こえた筈なのに。一度部屋の電気を付けようとした所で、机の上に置いてある卓上鏡の自分と目が合った。そこに写ったポニーテールの少女は自分と違う動きをしている。現実にありえない光景だった。
ありさは時が止まったかのようにその鏡から目が離せなかった。自分は目を見開いていると言うのに、鏡に写った自分は目を瞑っている。ありえない。こんな非科学的な超常現象は絶対にありえない。きっと疲れているのだ。ありさは目を擦ってもう一度鏡を見てみた。今度は笑っている。何が起きているというのだ。
『驚かせてごめんなさい。私はさりあ。貴方から生まれたもう一人の私』
鏡の中の自分が喋っている。とうとう頭までおかしくなってしまったのか。ありさは咄嗟に鏡を引っぱたいて目の前から退けた。鏡は丸いフォルムを壁に打ち付けて派手な音を鳴らし、床に転がり落ちた。
『落ち着いて、ありさ。私は貴方。気持ちは十分に理解出来ているわ』
鏡は割れなかったらしく、声だけがありさの耳に届く。幻聴まで聞こえるなんて。ありさは耳を塞いで必死に恐怖に耐え続けた。
『私を見て、ありさ。私はいつでも貴方の近くにいたわ』
いくら耳を塞いでも、声が直に語りかけてくるようで鮮明に聞こえる。
「止めて! あんた誰よ!」
『私はさりあ』
「話しかけてこないで!」
いっそ叩き割ってやろうと転がった鏡を掴む。鏡の中の自分は尚も喋り続けた。
『鏡を割っても無駄よ。私は貴方。ありさの姿が写し出される限り、私も存在し続ける。少し落ち着いて話を聞いて頂戴』
まさか自分に説得される日が来ようとは。掴んだ鏡を怖々と持ち上げ、ゆっくりと目を開ける。前髪の乱れた自分が写っていた。
『そう、それでいいわ、ありさ。怖いから電気を付けなさい』
言われるがままに立ち上がり、電気をつける。一瞬目が眩み、明るい蛍光灯の下で見る自分の姿は一層気味悪かった。
『私を机に置いて、椅子に座りなさい』
鏡の中の自分が指をさす。勿論ありさは手を挙げていなければ、指を突き出したりもしていない。鏡に写った自分と現実での行動がそぐわないのだ。こんな事が有り得るのだろうか。




