第5話
親睦パーティーの会場が、一瞬にして静まり返った。冷泉トオルの裏口座データ。それは、アイリが執念で暴き出し、僕が突きつけた、彼を破滅させるための「最後の一撃」のはずだった。
「……あはは。すごいね、朝霧君。本当にすごいよ」
冷泉が、低く笑い始めた。その笑い声は、次第に大きくなり、会場の空気を凍りつかせる。彼を追い詰めたはずのデータが、タブレットの中で虚しく光っている。
「君は、僕が『逮捕』されることを恐れていると思っているのかい? ……そんなもの、父上が揉み消すに決まっているじゃないか。……数億円の裏金なんて、冷泉家にとっては端金だよ」
冷泉が歩き出す。その足取りには、先ほどまでの余裕はなく、代わりに剝き出しの殺意が込められていた。
「君は……僕の『プライド』を傷つけた。……僕が最も愛する『完璧なシナリオ』を、その薄汚い手で汚したんだ」
僕は、冷泉を「法」と「金」で縛ろうとした。だが、彼はそのどちらも超越した、本物の「化け物」だったのだ。
ブレーキの壊れた冷泉は、僕たちを「寝取る」のではなく、「粉砕」することに決めたらしい。
「麗日さん、合図を」
冷泉が指を鳴らす。リオナが不敵な笑みを浮かべ、スマートフォンを操作した。
――次の瞬間。会場の巨大スクリーンに、ある動画が映し出された。
「……えっ?」
琴音が、絶句する。そこには、放課後、アイリが僕のネクタイを直している光景……を、悪意を持って編集したものが映っていた。
アイリの手が僕の胸元に触れ、僕が彼女の腰に手を回しているように見える。
「朝霧紫音。彼は特待生の地位を利用し、学級委員の内田アイリを洗脳。彼女を使って学園のデータを改竄し、僕を陥れようとしたんだ」
冷泉の言葉に、会場の大人が一斉にどよめく。証拠のデータは、今や「捏造されたもの」として、僕たちの首を絞める鎖へと変わった。
「さらに、彼は幼馴染の水瀬琴音さんを精神的に支配し、彼女の家の借金を口実に、彼女を自らの欲望の道具にしていた。……水瀬紗季さん。そうですね?」
「え、ええ! そうですわ! 琴音は、あの男に騙されているんです!」
紗季が、冷泉のシナリオに乗っかり、僕を指差して叫ぶ。会場の視線が、憐れみから、侮蔑と憎悪へと変わる。
僕は、NTRルートを回避するために、彼女たちを「囲い込んだ」。その行動が、今、「洗脳」と「支配」という最悪の言葉で塗りつぶされ、僕を「社会的な死」へと追い詰めていく。
「朝霧紫音。君の特待生資格、および学籍は、今この瞬間をもって剥奪する。……そして、内田アイリ。君も同様だ。学園の秩序を乱した罪は重い」
冷泉の宣告。それは、僕とアイリの人生を、一瞬にして終わらせる死刑宣告だった。
「な……っ」
アイリのタブレットが、床に落ちる。彼女が築き上げてきた「完璧な秩序」が、冷泉の圧倒的な権力によって、跡形もなく崩れ去った。
「そして、水瀬琴音さん。君は僕が保護する。……君を、あの悪魔の手から救い出してあげるよ」
冷泉が琴音に手を差し伸べる。群衆の中から、北条隼人をはじめとする取り巻きたちが現れ、僕とアイリを取り囲んだ。
「さあ、朝霧君。君の『騎士様ごっこ』は終わりだ。……君の言う通り、僕は本当の悪魔になったよ。……君たちを、とことん地獄の底まで突き落とす悪魔にね」
窮地。
冷泉のブレーキは完全に壊れ、僕たちは学園からも、社会からも、完全に孤立した。NTRルートの回避。復讐。……そんな甘い考えは、冷泉の圧倒的な暴力の前に、霧散してしまった。
「紫音くん……。ごめん、ね。……私のせいで……」
琴音が、北条たちに押さえつけられながら、僕を見て涙を流す。その瞳には、絶望と……そして、僕への、逃れられない狂気的な愛が宿っていた。
「……大丈夫だ、琴音。……まだ、終わってない」
僕は、取り囲む男たちを睨みつけながら、ポケットの中の「最後の切り札」を握りしめた。
なんて難しいんだ。
だかいい。冷泉のブレーキが壊れたなら、僕は「アクセル」を踏みちぎるだけだ。この最悪の夜を生き残るために。
◇◆◇
親睦パーティーという名の処刑場を、僕たちは命からがら脱出した。アイリが事前に用意していた「学園外部の警備会社」——冷泉の影響下にはない、彼女の父親の息がかかった組織——を介入させ、物理的な拘束を強引に突破したのだ。
だが、代償はあまりにも大きかった。
学園の掲示板やSNSには、冷泉の手の者によって捏造された「朝霧紫音の洗脳現場」と称される画像が拡散され、僕たちの居場所は法隆青山学園から永遠に失われた。
「……あは、あはは。ねえ、紫音くん。お外、怖いね」
現在、僕たちはアイリが管理するセーフハウス……都内某所にあるマンションの一室に身を潜めている。
窓のカーテンを隙間なく閉め切った薄暗い部屋の中で、琴音が僕の膝に頭を乗せ、虚ろな瞳で天井を見つめていた。
「琴音、少し休もう。ここは安全だ。冷泉の手はすぐには届かない」
「安全……? 違うよ、紫音くん。安全な場所なんて、世界中のどこにもないんだよ。お母さんも、冷泉も、リオナも……みんな、紫音くんを私から奪おうとしてる」
琴音の指が、僕のシャツの裾をボロボロになるほど強く握りしめる。彼女の精神は、あのパーティーの夜、母親に裏切られ、衆人環視の中で「道具」として扱われた瞬間に、音を立てて砕け散ってしまった。
NTRルートを回避するために、僕は彼女に「僕だけを信じろ」と言い続けた。
その結果、僕以外のすべてが敵となった世界で、彼女の心は僕という一本の細い糸だけで繋がっている状態だ。もし僕が手を離せば、彼女はそのまま深淵へと落ちてしまう。
「……水瀬さんのバイタルが不安定ね。重度の急性ストレス反応、それに……極度の人間不信。朝霧くん、彼女を一人にするのは危険よ」
部屋の隅で、ノートパソコンを叩きながらアイリが告げる。彼女自身も特待生の座を追われ、輝かしい未来を失ったはずなのに、その声は機械的なまでに冷静だった。
「内田さん、君こそ大丈夫なのか? 君の人生も、僕のせいで滅茶苦茶だ」
「規律が乱れた場所から立ち去っただけよ。……それに、私はもう決めているわ。この不条理な世界を『正す』のは、既存の法律や権力じゃない。……あなたの隣にいる、私自身の意志よ」
アイリが眼鏡を指で押し上げる。その瞳には、かつての潔癖な正義感ではなく、目的のためなら手段を選ばない「狂信者」の光が宿っていた。
「紫音くん、聞いてる……? 私ね、考えたの」
琴音が起き上がり、僕の頬を両手で包み込んだ。その手は氷のように冷たく、けれど僕に触れる場所だけが熱を帯びている。
「冷泉が紫音くんを傷つけるなら、私が冷泉を殺してあげる。アイツの目を潰して、舌を抜いて、二度と紫音くんを見られないようにしてあげる。……そうすれば、紫音くんは私だけのものだもんね?」
狂気。
救い出そうとした幼馴染は、僕を守るという名目で、自らを修羅へと変えようとしていた。
「……ダメだ、琴音。そんなこと、させない」
「どうして? 私を愛してないの? ……あ、わかった。あの泥棒猫……内田さんのことが心配なの?」
琴音の視線がアイリへと突き刺さる。アイリもまた、無言で琴音を見返した。
「朝霧くん、彼女の精神を安定させるには『物理的な安心』が必要よ。……例えば、この部屋から一歩も出さず、あなたが24時間彼女を管理下に置くような」
アイリの提案は、もはや「保護」ではなく「監禁」に近い。けれど、今の琴音にはそれが唯一の福音であるかのように、彼女の顔に恍惚とした笑みが浮かんだ。
「それ……素敵。ねえ、紫音くん、お願い。私を鎖で繋いでよ。紫音くんがいないと、私、壊れちゃうの……」
冷泉の暴走を止めるどころか、僕は自分を奪い合う二人の「重すぎる愛」という名の監獄に、自ら足を踏み入れてしまった。
その時、マンションのインターホンが、静寂を切り裂くように鳴り響いた。
モニターに映し出されたのは、真っ赤な口紅を塗り、狂気的な笑みを浮かべた麗日リオナと、その後ろに控える黒服の男たちだった。




