第3話 地獄の晩餐会への招待状
学級委員・内田アイリ。彼女は原作では、冷泉トオルの不祥事を隠蔽するために「正論」で周囲を黙らせる冷酷な舞台装置だった。
だが、僕が冷泉に宣戦布告をし、北条を社会的制裁に追い込んだことで、彼女の「潔癖な正義」は、あろうことか僕へと向いてしまった。
「朝霧くん、放課後の委員会議事録、まとめておいたわ。……あ、動かないで。睫毛が目に入りそうよ」
放課後の無人の教室。アイリが僕の顔に、不自然なほど顔を近づけてくる。彼女の指先が、僕の目元に触れるか触れないかの距離で止まった。眼鏡の奥の瞳は、まるで精密機器をメンテナンスするかのような熱を帯びた、歪な慈愛に満ちている。
「内田さん、もういい。これくらい自分で……」
「いいえ。あなたは、この汚れた学園を浄化するための『鍵』よ。あなたは自分の価値をもっと自覚すべき。……私、あなたのこと、尊敬しているの。……いえ、それ以上かもしれない」
アイリの声が、かすかに震える。彼女にとって、僕は「理想の正義」を具現化する偶像になっていた。彼女の「好意」は、恋というよりは、狂信に近い。
「ねえ、朝霧くん。冷泉や麗日のような『悪』を排除するためなら、私、なんだって協力するわ。……二人で、この学園を正しく書き換えましょう?」
彼女の手が、僕の手の甲に重ねられる。ひんやりとした、体温の低い感触。その瞬間、背筋を凍らせるような、強烈な「視線」を感じた。
――ガタッ。
教室の後ろの扉が、僅かに開いている。そこには、震える手で拳を握りしめた琴音が立っていた。
「……しおん、くん?」
その声は、地を這うような低さだった。琴音の瞳からは光が消え、底なしの沼のような暗闇が広がっている。
彼女の視線は、僕とアイリが重なっている「手」に固定されていた。
「琴音、違うんだ、これは……!」
僕は反射的に手を引き抜こうとしたが、アイリがそれを許さなかった。彼女はあえて琴音の方を向き、挑戦的な、けれどどこか憐れむような笑みを浮かべたのだ。
「水瀬さん。朝霧くんを独占するのはやめてちょうだい。彼は、あなたのような『感情だけで動く不純物』に相応しい人じゃないの」
「……不純物?」
琴音が、ゆっくりと教室の中に足を踏み入れる。その足取りは、まるでお化け屋敷の幽霊のように足音がしない。
「紫音くんは、私の……。私のために、あの日……。なのに、どうして、その女が触ってるの? ……ねえ、紫音くん。……どうして?」
琴音が僕の前に立ち、僕の左腕を抱きしめる。アイリが握っている右腕と、琴音が縋り付く左腕。
僕は、二人の少女の「執着」という名の鎖に繋がれた囚人だった。
「水瀬さん、離れなさい。あなたの依存は彼の重荷よ」
「うるさい……殺す。……紫音くんに触るな……ッ!」
琴音の右手が、スカートのポケットに伸びる。あの日、屋上で見せた、あの果物ナイフの感触を僕は思い出した。
「待て、琴音! 内田さんも、煽るのをやめてくれ!」
僕は力任せに二人を振りほどいた。
その時。
「くふふ……あはははは! 最高だ、実に醜悪で、美しいね!」
教室の入り口。
いつの間にか、冷泉トオルが麗日リオナを連れて、特等席の観客のように立っていた。
「トオル、あなたの言う通りね。この男、女を狂わせる才能だけはあるみたいじゃない」
リオナが扇子で口元を隠し、嘲笑う。冷泉はゆっくりと歩み寄り、僕の耳元で囁いた。
「朝霧君。君は僕が彼女を奪うのを警戒して、彼女を僕から遠ざけた。……けれど、結果はどうだい? 君が彼女に与えた『狂気』が、今、君自身を食い殺そうとしている。……君が守ろうとした『純愛』は、どこにあるのかな?」
冷泉の言葉が、鋭い刃となって僕の胸を抉る。僕は琴音を守るために、彼女の精神を「僕以外には何もいらない」という極限状態まで追い込んでしまった。
それは、救いなどではなく、僕が彼女に施した「呪い」だったのだ。琴音は僕の腕を掴み直し、狂気じみた笑顔で冷泉を睨みつけた。
「……紫音くんは、誰にも渡さない。……死んでも、私だけのものにするの」
一筋縄ではいかない。冷泉が仕掛けた「女たちの相克」という最悪の毒が、僕の防衛網を内側から焼き尽くしていく。
◇◆◇
放課後の教室に、心臓を直接握り潰されるような沈黙が流れる。冷泉とリオナが去った後、残されたのは、僕を左右から縛り付ける二人の少女の、熱を帯びた殺気だけだった。
「水瀬さん。あなたのそれは愛じゃないわ。ただの『執着』という不純物よ」
内田アイリが、眼鏡の奥の冷徹な瞳で琴音を射貫く。彼女の声には、規律を乱す者への一切の容赦がない。
「朝霧くんは、この腐敗した学園を変える希望なの。あなたの情緒不安定な依存は、彼の翼を折る重り。……ねえ、自覚しなさい。あなたは彼に相応しくない。身を引くのが、彼のためよ」
アイリの言葉は、正論という名の暴力だった。原作での琴音なら、ここで涙を流し、絶望に暮れて冷泉の甘い誘いに逃げていただろう。
だが、僕が彼女に植え付けてしまった「激重感情」は、アイリの想像を遥かに超えていた。
「……身を、引く?」
琴音が低く笑った。
その笑い声は、壊れたオルゴールのように不協和音を奏でる。
「あはは……。面白いこと言うね、委員長さん。紫音くんが私の翼を折って、私をここに閉じ込めたんだよ? 彼が私を必要としたから、私はこうなったの。……それを今さら、アンタみたいな『後出し』が奪おうなんて……」
琴音がアイリの目の前まで歩み寄り、至近距離で睨み返す。二人の美少女の視線が交差する場所で、火花が散る。
「殺そうと思ったけど……考え直したわ。アンタも、紫音くんに狂ってるんだよね? その『正義』ってやつで」
「狂ってなどいないわ。私は彼の『価値』を認めているだけ……」
「同じことだよ。……じゃあ、こうしようか」
琴音が、僕の右腕を掴んでいたアイリの手に、自分の手を重ねた。凍りつくような、歪な連帯。
「紫音くんは、誰にも渡さない。冷泉にも、あの高飛車な令嬢にも。……だから、アンタも協力しなよ。紫音くんを守るための『盾』になりなさい。その代わり……時々、彼に触れるくらいは許してあげる」
「……なんですって?」
「二人のもの、にすればいい。……私が『心』を、アンタが『地位』を守る。……そうすれば、紫音くんは完璧に守られるでしょ?」
アイリの頬が、屈辱ではなく、異様な高揚感で赤く染まった。潔癖な彼女にとって、「共有」という不純な提案。
しかし、それが「朝霧紫音を完全なものにする」ための最適解だと、彼女の歪んだ脳が判断してしまったのだ。
「……いいわ。妥協案としては合理的ね。あなたの感情的な暴走を、私が管理してあげる」
二人の少女の間で、僕という存在を「共有」し「守る」という、おぞましい盟約が結ばれた。本人の意思など、そこには欠片も存在しない。
「……二人とも、いい加減に……」
「紫音くん。……来週の、学園親睦パーティー。一緒に行こう?」
琴音が僕の首に腕を回し、甘い声で囁く。アイリもまた、僕のネクタイを整え直しながら頷いた。
「ええ。冷泉と麗日リオナがあなたを陥れようとしているのは明白だわ。私たちが、あなたの両隣を固めてあげる」
一筋縄ではいかない。冷泉が仕掛けた「女たちの争い」という罠を、彼女たちは「共依存による要塞化」という、より最悪な形で突破してしまった。
親睦パーティー。そこは、財界の重鎮や、琴音を道具としか思っていない母親、そして冷泉トオルが待ち構える地獄の門だ。
「わかった。……行こう。全ての因縁を、そこで終わらせる」
僕は決意した。NTRルートの回避。復讐。そして、この歪み始めた二人の少女との関係をどうにか正常化させるために。
――けれど僕は、まだ気づいていなかった。パーティーの招待状の裏に、冷泉が書き込んだ「もう一つの絶望」の存在に。




